鼓膜こまく)” の例文
しかしその瞬間に彼の鼓膜こまくは「私はX子と云ふのよ。今度御独りでいらしつた時、呼んで頂戴」と云ふ宛転ゑんてんたる嬌声けうせいを捕へる事が出来た。
東京小品 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
鼓膜こまくは別に何ともなっていませんとの診断を得てほっと致し、さらに勇気百倍、阿佐ヶ谷の省線踏切の傍なる屋台店にずいとはいり申候。
花吹雪 (新字新仮名) / 太宰治(著)
自分は母に叱られながら、ぽたぽたしずくを垂らして、三人と共に宿に帰った。どどんどどんという波の音が、帰り道じゅう自分の鼓膜こまくに響いた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それにあとで検事たちも気がついたことだが、気圧がかなり低かった、係官のなかには、鼓膜こまくがへんになって、頭を振っている者もあった。
金属人間 (新字新仮名) / 海野十三(著)
のみが火花を出す暑い音、霍乱かくらんをおこして暴れくるう馬のいななき、残暑の空は、午後に入って、じいんと鼓膜こまくが馬鹿になるような熱さだった。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かみなりだ!」とおもった瞬間しゅんかんに、鼓膜こまくやぶれそうなおおきなおとあたまうえでしだして、きゅう大粒おおつぶあめってきました。
僕はこれからだ (新字新仮名) / 小川未明(著)
やがて、土蔵の戸口から足音がして、次郎の首垂うなだれている顔の前をゆっくり通りぬけた。その足音は、一つ一つ、次郎の鼓膜こまくを栗のいがのように刺戟した。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
音階の両端には、人間の耳という不完全な機械の鼓膜こまくには震動を感じられないような音符がある。その音はあまりに高いか、またはあまりに低いかであるのだ。
鋭い彼の耳の鼓膜こまくに、ズーンという、さまで高くはないが、不気味なひびきが伝わったのだ。声に出して
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
先生が耳の事を話した時、耳の中には鼓膜こまくという太鼓があって、それを叩くと声でも音でも聞えるのだと言った。して見ると伯父さんには此太鼓が無いんだろう。
いたずら小僧日記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
深沈たる夜気がこって、鼓膜こまくにいたいほどの静寂。これは、声のない叫喚だ。呶号どごうをはらむ沈黙だ。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
まつからはみんみんぜみやう松蝉まつぜみこゑくすぐつたいほどひと鼓膜こまくかるひゞいてすべてのこゝろ衝動しようどうする。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
あたりの騒がしい物音を突きぬけて、ガーンと鉄材が鉄材にぶつかる恐しい音響が強く鼓膜こまくをうった。頭のしんまで響いて来た。けたたましい人声が聞えたような気もした。
秋空晴れて (新字新仮名) / 吉田甲子太郎(著)
アヽ気の毒なことしたとだに思つて貰ふことがならぬではありませんか——何と云ふ不幸な私の鼓膜こまくでせう、『我は汝を愛す』と云ふ一語の耳語さゝやきをさへ反響さすることなしに
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
先生が石太郎の席に達するまでのみじかい時間を、春吉君の中で正義感と羞恥心しゅうちしんとが、めまぐるしい闘争をした。それが春吉君の動悸どうきを、鼓膜こまくにドキッドキッとひびくほど、はげしくした。
(新字新仮名) / 新美南吉(著)
いつしか眼が曇り両人ふたりの顔がかすんで話声もやや遠くこもッて聞こえる……「なに、十円さ」と突然鼓膜こまくを破る昇の声におどろかされ、震え上る拍子ひょうしに眼を看開みひらいて、忙わしく両人ふたりの顔をうかがえば
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
彼女は鼓膜こまくの破れるような鋭い声で、さらに高く叫んだ。
鼓膜こまくはがねで張りつめて
智恵子抄 (新字旧仮名) / 高村光太郎(著)
が、その金切声の中に潜んでいる幾百万の悲惨な人間の声は、当時の自分たちの鼓膜こまくを刺戟すべく、余りに深刻なものであった。
毛利先生 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜こまくに響いてくるのを暗に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
鼓膜こまくも頭の中も真空になって、物を見る眼が、物を映しているだけで、思考にれることを忘れ果てたかのようになる。——
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
砲声や銃声は、ひっきりなしに、鼓膜こまくをうち、脚にひびいてくるが、幸いにも、この段丘附近は、しずまりかえっていた。私は、ほっと、息をついた。
人造人間の秘密 (新字新仮名) / 海野十三(著)
其處そこには毎日まいにちかなら喧嚚けんがう跫音あしおとひと鼓膜こまくさわがしつゝある巨人きよじん群集ぐんじゆが、からは悲慘みじめ地上ちじやうすべてをいぢめて爪先つまさき蹴飛けとばさうとして、山々やま/\彼方かなたから出立しゆつたつしたのだ。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
彼女の目より涙をぬぐへ、すずしき風よ、彼女の胸よりうれひを払へ——アヽ我が梅子、なんぢの為めに祈りつゝある我が愛は、汝が心の鼓膜こまくに響かざる、——父なる神、永遠とこしなへに彼を顧み給へ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
侍の太い声が伝二郎の鼓膜こまくへまでびんびんと響いて来た。言いながら手を突っ放したらしい。二、三度よろめいたのち、何とか捨科白すてぜりふを残して、迫り来る夕闇に女は素早く呑まれてしまった。
と、彼の沈痛な声が気味わるくみんなの鼓膜こまくをうった。
次郎物語:04 第四部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
その割に合わぬ声を不作法に他人様の御聞おききに入れて何らの理由もないのに罪もない鼓膜こまくに迷惑をけるのはよくせきの事でなければならぬ。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
だが、そのうちに襟元えりもとの寒さをぞくと感じたとき、絹糸のような細い音響が、鼓膜こまくの奥をんやりと通っていた。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
博士の鼓膜こまくに、その声が入ったのか、博士は生返事なまへんじをした。生返事をしただけで、彼はなおも飾窓の青いペパミントの値段札に全身の注意力を集めている。
足響あしおとはすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓膜こまくを刺すように聞えて来た。その後には、——また長い沈黙があった。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
自分に判切はっきり聞こえたのはただこれだけであった。その他は彼女のむやみに引泣上しゃくりあげる声が邪魔をしてほとんどくずれたまま自分の鼓膜こまくを打った。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
与五郎はいきなり、男の耳たぶを平手で強くなぐった。こぶしよりもそれは痛かったに違いない。鼓膜こまくがやぶれたかと感じたように、右衛門七への手を放して
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
怪球は、敬二少年のおどろきを余所よそに、ずんずん地面の土下からいあがってきた。ビビビーン、ビビビーンという例の高い音が、鼓膜こまくをつきさすようだった。
○○獣 (新字新仮名) / 海野十三(著)
元来が優美な悠長ゆうちょうなものとばかり考えていた掛声は、まるで真剣勝負のそれのように自分の鼓膜こまくを動かした。自分のうたいはこの掛声で二三度波を打った。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
鼓膜こまくをつんざく気合いに面を吹かれて、はッと気を張った途端、鋭い重蔵の木剣が真っ向から飛んで来た。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ッ、いよいよ、泣きだしたのだ。彼等はそれを鼓膜こまくの底に聴いた瞬間、板のように全身を硬直させた。
夜泣き鉄骨 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼女かのぢよが三週間しうかん安靜あんせいを、蒲團ふとんうへむさぼらなければならないやうに、生理的せいりてきひられてゐるあひだ彼女かのぢよ鼓膜こまくこの呪咀のろひこゑほとんどえずつてゐた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
「この阿女あまっ」不意だった。ぐわんと、鼓膜こまくがやぶれるほど、お吉の横顔をなぐりつけて呶鳴った者がある。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
突然、金切り声が一同の鼓膜こまくをつんざいた。女の声らしい。その声の起ったのは、どうやら木見さんの家の中のように思われた。一同ははっとおどろいて互いの顔を見合わせた。
四次元漂流 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼は自己の宣告を受けるため、二十一度のしもに、襯衣シャツ一枚の裸姿はだかすがたとなって、申渡もうしわたしの終るのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜こまくに受けた。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
白々しい偽善者、皮をかぶった嘘つき、何が奉行だ、奉行面ぶぎょうづらがどこにある、畜生っ——と彼女は耳の鼓膜こまくの入口に、全身の憎しみをこぞってその声と闘っていた。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
波浪はろうまれて沈没してゆく艦艇から立昇る真黒な重油の煙、鼓膜こまくきりとおすような砲声、壁のように眼界をさえぎる真黄色の煙幕、——戦闘は刻々に狂乱の度を加えて行った。
空襲葬送曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
と、孫兵衛に周馬は、すぐ欄干へ足をかけて、お綱のあとから跳ぼうとすると、どこからか、轟然ごうぜんと夜気をすって、一発の銃声、ズドーンと鼓膜こまくをつんざいた。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
どこかで自然を踏みはずしているような調子として、私の鼓膜こまくに響いたのです。私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
瞬間、どうっという小音が一同の鼓膜こまくをうった。
恐竜島 (新字新仮名) / 海野十三(著)
鼓膜こまくがガンとした後の一瞬の、余りにもひそとした静かさに、つい、そうっと首をもたげてみると、すぐそばおおきな杉の樹陰に、大蛇おろちにも似た太刀が、ギラと見えた。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ことにねえさんがという特殊な言葉が際立きわだって鼓膜こまくに響いた。みごとに予期のはずれた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張がゆるいとまなく再び彼女を襲って来た。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
どうにかして見てやりたい。広場を包む万歳の声はこの時四方から大濤おおなみの岸にくずれるような勢で余の鼓膜こまくに響き渡った。もうたまらない。どうしても見なければならん。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
があんと、何か頑丈な得物えもので、脳心を打ちこまれたように、耀蔵は、気が遠くなった。ごろごろと、耳の鼓膜こまくが鳴ったと思うと、彼は、それきり、意識を失ってしまった。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
余は余の鼓膜こまくの上に、想像の太鼓がどん——どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)