ひたい)” の例文
それが私の方へじろりと、何か話したそうなくちびるを動かしかけて、またすぐ目をそらした。ハンケチでしきりにひたいの汗をぬぐっている。
浴槽 (新字新仮名) / 大坪砂男(著)
とつぜん、氷のように冷たい手が私のひたいにさわって、いらいらしたような早口の声が耳もとで「起きろ!」という言葉をささやいた。
もし疑わしくなると、ひたいが曇って来る。考えた事の不充分のために、うまく行かないからで、また新しい工夫をしなければならない。
母はお豊とひたいを突きよせて密談の末に、ようやく案じ出したのがお直の家出という狂言の筋書で、お力には母からよく云いふくめて
半七捕物帳:35 半七先生 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「義さん」と呼吸いきせわしく、お香は一声呼びけて、巡査の胸にひたいうずめわれをも人をも忘れしごとく、ひしとばかりにすがり着きぬ。
夜行巡査 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「滝川とて、うつけじゃない。おそらく一益、あの禿げ上がったひたいをたたいて、ちと早かったと、ほぞを噛んでおるにちがいないわさ」
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
長い細やかな房々ふさふさした髪に縁取られてるまるひたい、そしてその髪は、縮れもせずにただ軽いゆるやかな波動をなして、顔にたれていた。
打見たよりも山は高く、思うたよりも路は急に、靴の足は滑りがちで、約十五分を費やして上り果てた時は、ひたいせなあせばんで居た。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
あには、なにごとがあって、めたのだろうとおもって、ひたいぎわにながれるあせをふいて、おじいさんのほういてまりました。
村の兄弟 (新字新仮名) / 小川未明(著)
遊んでいる金槌かなづちをこっそりにぎったりすると、鍛冶屋かじやのおやじは油汗あぶらあせで黒く光っているひたいにけわしいしわをつくっていうのだった。
空気ポンプ (新字新仮名) / 新美南吉(著)
ひたいがいけない。新聞では、本の広告文が一ばんたのしい。一字一行で、百円、二百円と広告料とられるのだろうから、皆、一生懸命だ。
女生徒 (新字新仮名) / 太宰治(著)
まっ白な大きな顔の、ひたいのまん中に、目が一つしかないのです。そして、まっかなくちびるをひらいて、ケラケラと笑っているのです。
鉄人Q (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
女は前髪まえがみを割ったひたいに、かすかな憂鬱の色を浮べた。が、すぐにまた元の通り、快活な微笑を取り戻すと、悪戯いたずらそうな眼つきになった。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そして、彼等がだんだん近づいて来るのを見ると、彼等のうちの二人は、そのひたいのまん中に、からっぽの眼窩めのあなだけがあいているのでした。
ひたいの真中の、永い間掻き消されていた、活動的な鋭い知能のしるしが、彼にかぶさっていた黒い霧を押し分けてだんだんと現れて来た。
顔は下膨しもぶくれ瓜実形うりざねがたで、豊かに落ちつきを見せているに引きえて、ひたい狭苦せまくるしくも、こせついて、いわゆる富士額ふじびたい俗臭ぞくしゅうを帯びている。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「どうも申訳が御在ございません。どうぞ御勘弁を……。」とばかり前髪から滑り落ちるかんざしもそのままにひたすらひたいを畳へ摺付すりつけていた。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
他処行よそゆきの着物を着たり、半分裸だったり、笑ったり、ひたいに八の字を寄せたり、種々様々な姿で、立派な背景の中におさまっている。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
そして、ひたい脂汗あぶらあせを拭きながら、見るともなしにうしろの客席に眼をやった。左側の二番の客席に、せぎすな一人の紳士が腰をかけていた。
飛行機に乗る怪しい紳士 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
黒みがかった髪がゆったりと巻き上がりながら、白いひたいを左右からまゆの上まで隠していた。目はスペイン人らしく大きく、ほおは赤かった。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
すっかり禿げ上った白髪を総髪に垂らして、ひたいに年の波、鼻たかく、せた唇元くちもとに、和らぎのある、上品な、六十あまりの老人だ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
その日にやけた年とったかおには、いつにない若々わかわかしい元気がうかんでいました。かれひたいあせをにじましながら、つよい調子ちょうしでいいました。
活人形 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
哀れを止むる馬士歌の箱根八里も山を貫きたにをかける汽車なれば関守せきもりの前にひたい地にすりつくる面倒もなければ煙草一服の間に山北につく。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
殿下は二十七歳、白晳はくせきひたい、亜麻色の髪涼やかに、長身の眼許めもと凜々りりしい独身の容姿は、全丁抹デンマーク乙女のあこがれの対象でいらせられる。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
豊雄は、ひたいを地にすりつけるようにして、これまでのできごとをはじめからものがたり、「今後もどうか生命いのちの助かるようにして下さい」
左様さよう左様さようさそれはそうだ。』と、イワン、デミトリチはひたいあせく、『それはそうだ、しかしわたしはどうしたらよかろう。』
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
神経性の痙攣けいれんが下唇の端をぴくぴくと引っらせ、くしゃくしゃになったちぢが、まるでたてがみのようにひたいに垂れかかっている。
野幇間のだいこを稼業のようにしている巴屋ともえや七平は、血のような赤酒をがせて、少し光沢つやのよくなったひたいを、ピタピタと叩くのです。
少年のくせにひたい禿げあがっており、背は低いが、顔は大人のような子供で、いつも皆とは遊ばずひとりで考えごとをしているのが好きで
海底都市 (新字新仮名) / 海野十三(著)
豚も、ひたいをガンとやられて、首をごそごそとやられたら、手や足や、身体全体を、ひくひくとふるえ動かして苦しむだろう……と彼は思った。
首を失った蜻蛉 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
すると、及川はぐっと口を結んだが、ひたい小鬢こびんには興奮の血管が太く二三筋現れました。けれどやがてその興奮をも強く圧えてから云った。
扉の彼方へ (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そして、その白く抜けたひたいに、軽がると降りかかるウエーヴされた断髪は、まるで海草のように生々なまなましく、うつくしく見えた。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
と言って平野老人は、再び手許に戻って来た名刀をむさぼり見ると、神尾主膳もまた老人とひたいを突き合せるようにして刀ばかりを見ていました。
中部では八丈島はちじょうじまと、北は北海道の前からの住民とのあいだに、負紐おいひもひたいにあてて背負うものがあって、これも女の運搬に多く行われている。
母の手毬歌 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
彼はひたいから汗が流れた。彼は荒々しい目つきを二つの燭台の上に据えた。その間にも彼のうちで語る声はやまなかった。声は続けて言った。
小畑のたまはよく飛んだ。引きかえて、清三の球には力がなかった。二三度勝負しょうぶがあった。清三のひたいには汗が流れた。心臓の鼓動こどうも高かった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
豊かの頬、二重にくくれた頤、本来の老武士の人相は、円満であり寛容であるのに、ひたい癇癖かんぺきの筋でうねらせ、眼を怒りに血ばしらせている。
剣侠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
炭火すみびはチラチラ青いほのおを出し、まどガラスからはうるんだ白い雲が、ひたいもかっといたいようなまっさおなそらをあてなくながれていくのが見えました。
耕耘部の時計 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
それから、こんどはお姫さまのひたいのことをいって、それは、このうえなくりっぱな広間と絵のある雪の山だといいました。
侍女は上眼づかひに「御館みたちに残らるるは上の姫様だけ」と答へる。「ジェイン様か、それは。」碩学の肉づきのいいひたいを、かすかに若皺わかじわが寄る。
ジェイン・グレイ遺文 (新字旧仮名) / 神西清(著)
彼はそのまま右手をソットひたいに当てた。そのてのひらで近眼鏡の上をおおうて、何事かを祈るように、頭をガックリとうなだれた。
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
ぐっとばしたまつろう手先てさきへ、春重はるしげ仰々ぎょうぎょうしく糠袋ぬかぶくろ突出つきだしたが、さてしばらくすると、ふたたっておのがひたいてた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
「ああ、兄よ。」と香取はいうと、彼女の悲歎のひたいは重く数本の忍竹へ傾きかかり、そうして、再び地の上へ崩れ伏した。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
のみならずこのせわしい選挙さわぎの最中に阪井の息子が柳の息子のひたいをわったというので、それを政党争いの意味にいいふらすものもあった。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
つやつやしたかみを七三にわけて、青白いひたいにたらし、きちんと背広を着こんだところは、どう見ても小都会のサラリーマンとしか思えなかった。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分のひたいに押し当てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでいた。
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
蒼白い広いひたいのしたに煙ったような黒い眼があって、熱情と沈鬱をあらわしている。頬は丁寧に剃られて子供の頬のようにつやつやと光っていた。
チチアネルロ うに、夜明前に——その時君等はまだていたが——そっと門の外へ出て往った。青いひたいへ愛の接吻、その脣へ悋気りんきの言葉……。
ホームズはしばらくの間無言のまま、ひたいに両手をあてて、じっと考えに沈みながら坐っていた。が、やがて彼は云った。
黄色な顔 (新字新仮名) / アーサー・コナン・ドイル(著)
三人連れだって両国の旅籠屋はたごやまでもどって来た時は、互いに街道の推し移りを語り合って、今後の成り行きにひたいあつめた。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)