能登のと)” の例文
能登のとの「ワゲシ」はもつともこれにちかおんいうする鳳(フング)至(シ)の二によつてしめされたのが、いまは「ホーシ」とものがある。
国語尊重 (旧字旧仮名) / 伊東忠太(著)
総軍十万といわれ、その旗幟を国別に見ると、尾張、美濃、伊勢、丹後、若狭わかさ因幡いなば、越前、加賀、能登のとの九ヵ国にわたっている。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
たとえば能登のと鹿島かしま郡で六七月の頃にチーフレー、チーフレーと啼く鳥を慈悲心鳥じひしんちょうだというが、その点は私には判断が出来ない。
去年の夏だ、八田潟はったがたね、あすこから宇木村うのきむらへ渡ッて、能登のと海浜かいひんしょうさぐろうと思って、うちを出たのが六月の、あれは十日……だったかな。
取舵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ただいま、能登のと半島より、大井川おおいがわに至る線より東の地域は、警戒警報が発令されました。直ちに警戒管制でございます。
空襲警報 (新字新仮名) / 海野十三(著)
泣出しそうな空の下に八百八町は今し眠りから覚めようとして、川向うの松平越前や細川能登のとの屋敷の杉が一本二本とかぞえられるほど近く見えていた。
私が伯父をたよつて、能登のとの片田舎から独り瓢然と京都へ行つたのは、今から二十年前、私の十三の時であつた。
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
「日高くば能登のとの国まで越えうずると思えるに、僅かの笈一つ背負うて、後にさがればこそ人も怪むれ」
荒砥あらとで菜切庖丁のようにいだ肌などを見ると——これは後に解ったことですが——能登のとの国から出て来たという丑松の持物で、江戸の人の眼からは、山奥の猟師か
能登のとうみつりする海人あま漁火いさりびひかりにいつきちがてり 〔巻十二・三一六九〕 作者不詳
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
七八年ぜんのことです。加賀かがでしたか能登のとでしたか、なんでも北国の方の同人どうじん雑誌でした。
一人の無名作家 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
はるかな能登のと半島の森林が、喰違くいちがった大気の変形レンズを通して、すぐ目の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡けんびきょうの下の黒い虫みたいに、曖昧あいまいに、しかも馬鹿馬鹿しく拡大されて
押絵と旅する男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
それから、台の物は、幕の内なぞというようなやぼなものではない。小笠原豊前守おがさわらぶぜんのかみお城下で名物の高価なからすみ。越前えちぜん能登のとのうに。それに、三州は吉田名物の洗いこのわた。
殿様は能登のと様の御勘定役ごかんじょうやく。また、奥様のお実家は江戸一のお札差ふださし越後屋えちごや
顎十郎捕物帳:16 菊香水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
共同で床店とこみせを出しているおでんやの一人は、昼間はある私立大学の文科へ通っている、町の文学青年だったが、能登のとの産まれで、葉子とはすでに裏町の女王とナイトのような関係になっていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
今は何處に家を持つて、お内儀さんも御健勝おまめか、小兒ちツさいのも出來てか、今も私は折ふし小川町の勸工場見物に行まする度々、舊のお店がそつくり其儘同じ烟草店の能登のとやといふに成つて居まするを
十三夜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
吉田右馬太夫、長濱九郎右衞門、比惠の原には野村市右衞門、明石四郎兵衞、黒田總兵衞、齋藤甚右衞門、野村初右衞門、岩戸口には佐谷五郎太夫、松本能登のと、三瀬越には大塚權兵衞、小林内匠たくみ
栗山大膳 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
能登のとの雲津村数千軒の津なりしに、猩々上陸遊行するを殺した報いの津浪で全滅したとか(『若狭郡県志』二、『能登名跡志』坤巻)、その近村とどの宮は海よりトド上る故、トド浜とて除きあり
北陸道というのは、若狭わかさ越前えちぜん、これが福井県。加賀かが能登のと、これが石川県。越中えっちゅう、これが富山とやま県。越後えちご佐渡さど、これが新潟にいがた県。以上の七国四県であります。昔はこの地方を「こし」の国と呼びました。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
「その病気の兵隊の中に」と春さんは構わずに云った、「島田っていう初年兵がいただ、うちは慥か能登のとのほうだった、佐渡かもしれねえ、もう忘れちまっただが、相撲のように頑丈な躯をした男で」
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
能登のとはた打つ運命さだめにや生れけん
六百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
能登のとの北川村の諏訪神社九月二十七日の祭に作るヒトミダンゴ、是もシトギの訛音かおんらしいが、この方は今いう団子になっている。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
七尾から金沢表までの、能登のと加賀かがにわたる要所の城々には、つなぎのろしの設けがあることを、佐々は、とくに、探り知っていたからだ。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これは能登のと越中ゑつちう加賀かがよりして、本願寺ほんぐわんじまゐりの夥多あまた信徒しんとたちが、ころほとん色絲いろいとるがごとく、越前ゑちぜん——上街道かみかいだう往來ゆききしたおもむきである。
麻を刈る (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
いま何處どこうちつて、お内儀かみさんも御健勝おまめか、小兒ちツさいのも出來できてか、いまわたしをりふし小川町をがはまち勸工塲くわんこうば見物ゆきまする度々たび/\もとのおみせがそつくり其儘そのまゝおな烟草店たばこみせ能登のとやといふにつてまするを
十三夜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
宮崎は越中、能登のと越前えちぜん若狭わかさの津々浦々を売り歩いたのである。
山椒大夫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「その病気の兵隊の中に」と春さんは構わずに云った、「島田っていう初年兵がいただ、うちは慥か能登のとのほうだった、佐渡かもしれねえ、もう忘れちまっただが、相撲のように頑丈がんじょうな躯をした男で」
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
能登のと七尾ななおの冬はすみうき 兆
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
それから能登のとの方では羽阪はざかという海岸の村では、昔弘法大師がこのへんを通って水を求められた時に、情なくも惜しんで上げなかったため
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
又左の所領、能登のと七尾ななおの十九万石も、子息利長の領地越前府中の三万石も、共に、御当家の領国と、われら腹心の者の城々に囲まれておりまする。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
肥後国ひごのくに阿蘇あその連峰猫嶽ねこだけは特に人も知って、野州にも一つあり、遠く能登のとの奥深い処にもある、とおもう。
雪柳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
今は何処に家を持つて、お内儀かみさんも御健勝おまめか、小児ちツさいのも出来てか、今も私は折ふし小川町の勧工場くわんこうば見物ゆきまする度々たびたびもとのお店がそつくりそのまま同じ烟草店たばこみせ能登のとやといふに成つてゐまするを
十三夜 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
能登のと越中えっちゅうの境あたりの時鳥は、「弟恋し、掘って煮て食わそ」と啼いていた。これも山の薯の話であったことは説明をするまでもあるまい。
また、響きに応じて、加賀の富樫とがし能登のとの吉見、信濃の諏訪すわ、そのほか、事を好む豪族は、みな彼が尊氏から離れたことを惜しむよりは歓迎していた。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彫金ほりきんというのがある、魚政うおまさというのがある、屋根安やねやす大工鉄だいてつ左官金さかんきん。東京の浅草あさくさに、深川ふかがわに。周防国すおうのくに美濃みの近江おうみ加賀かが能登のと越前えちぜん肥後ひごの熊本、阿波あわの徳島。
春昼 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
加賀かが能登のとではタチアイといい、熊野でマジミというなども深い意味があるらしいが、それはなお私には雀色である。
かはたれ時 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
べにがら色のに、まんまんたる風をはらんだ呉服船はいま、能登のと輪島わじまと七つじまあいだをピュウピュウ走っている——
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
昨年、能登のとの外浦を、奥へ入ろうと歩行あるきました時、まだほんの入口ですが、羽咋はぐい郡の大笹の宿で、——可心という金沢の俳人の(能登路の記)というのを偶然読みました。
河伯令嬢 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
佐渡のユリナタは山形県の最上もがみ地方ではユリバタ、信州の小谷おたりではヰルブチ、能登のとと加賀ではエンナタであった。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「自身、山越えの間道より、加賀かがに攻め入り、能登のとを抑え、続いて、一挙に敵府てきふ金沢かなざわを踏みつぶして見せん」
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
美女ヶ原へきますと、十里みなみ能登のとみさき、七里きた越中立山えっちゅうたてやま背後うしろ加賀かがが見晴せまして、もうこのせつは、かすみも霧もかかりませんのに、見紛みまごうようなそれらしい花のこずえもござんせぬが
薬草取 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
いわゆる囲炉裏いろりに該当する府県の方言は、五つまではすでに挙げてみたが、ほかにまだ一つの別系統の語が、能登のとから越中えっちゅうにかけてかなりよく残っている。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
天正四年から五年の夏へかけて、謙信の兵馬は加賀、能登のと方面にうごいて、しきりと織田の境をおびやかした。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
能登のとの半島で近年注意せられたアエノコトという祭もその一つで、是は別にまた報告する人があるはずだが、此方は収穫期にさらに近い旧暦霜月初旬の行事であり
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
能登のとすけ清秋きよあきは、その日、おいの判官清高に会うため、隠岐の島前どうぜんから島後どうごへ、舟で渡っていた。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかし能登のと越中えっちゅうの村々では、すべての小鳥籠をスズメカゴといって、他の名前はまだないのである。
能登のとの前田、加賀尾山おやまの佐久間盛政、越前大野の金森長近、加賀松任まっとうの徳山則秀、越中富山の佐々成政などをわせ、百七十余万石、動員兵力量四万四、五千にすぎない。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
越中えっちゅう文人の居住地が、ちょうど西隅に偏していたことを意味するもので、現に今日でも富山県の海岸では、方角によって能登のとアイと、宮崎アイとの二つのアイの風がある。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
わざわざ御車みくるまをおむけになったのも、能登のと加賀かが出雲いずも伯耆ほうき伊予いよ播磨はりま下毛野しもつけ武蔵むさしなどの御料の牧の若駒どもが、加茂の五月をまえに、ぞくぞく都へひかれて来たので
養子勝豊が、長浜でそむいたのも、その原因は、玄蕃允にあった。また、かつて能登のとの戦場では、前田利家に向ってさえ、おもしろからぬ、不遜ふそんな行為があったと聞いたこともある。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)