ただ)” の例文
この創痍きず多き胸は、それを想うてだに堪えられない。この焼けただれた感情は、微かに指先を触れただけでも飛び上るように痛ましい。
雪の日 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
酒で頭脳あたまただれたようになっている芳太郎は、汽車のなかでも、始終いらいらしていた。そして時々独りごとのような棄て鉢を言った。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
むしろ凄惨な男性の性慾、暴力、所有慾、ここにしてまた引っ裂かれる女性の犠牲死体が、じりじりと日光と砂熱とに焼けただれるのだ。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
振り返ると、油で煮締めたような四十五六の古女房が、取乱し切った姿で、赤黒く焼けただれた、小僧の死体を抱き上げているのでした。
またその身體からだにはこけだのひのき・杉の類が生え、その長さはたにみねつをわたつて、その腹を見ればいつもが垂れてただれております
国境の山、赤く、黄に、峰岳みねたけを重ねてただれた奥に、白蓮の花、玉のたなそこほどに白くそびえたのは、四時しじに雪を頂いて幾万年の白山はくさんじゃ。
伯爵の釵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それだから風呂ふろに入つた時などに、ひそかにそのかさぶたを除いてみると、その下は依然としてただれて居つて深いみぞのやうになつてゐる。
念珠集 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
猿が綱をはずし児をてい中に投じただれ死なしめたので、母が薪を村外に積ましめ、その婢と猿を焚殺したとある(『類函』四三一)。
けれどもそれはつい二三週間前までのやうなただれた真赤な空ではなかつた。底には快く快活な黄色をかくしてうはべだけがくれなゐであつた。
乳色によどんだ空と、その下に不思議な大波の様に起伏する丘陵の肌が、一面に春の百花によって、ただれているに過ぎないのです。
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
そうしてその左右に十六むさしに似たる形が四個ずつ行儀よく並んでいる。その十六むさしが赤くただれて周囲まわりうみをもっているのもある。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
をどり狂ふ烟の下に自若として、おもてただれんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけるかと疑はしむ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
併し冬籠りの小屋に漂う煙と、過激な労働の疲労で、すっかり視力の衰えた、赤くただれた彼の眼は、判然とそれを見ることが出来なかった。
土竜 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
これが暗い暗い謎である。肉ただれては腐り、腐りして、露出した骨の荒くれ男の足に蹈まるるとき、ああ私の影はどこに存在してるだろう。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
言っておかなかったが、かの女の口のはたのただれが直ったり、出来たりするのは、僕の初めから気にしていたところであった。
耽溺 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
けれどもそれはつい二、三週間前までのようなただれた真赤な空ではなかった。底には深く快活な黄色をかくしてうわべだけが紅であった。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
片眼が少しただれているが、愛くるしい女の子だ。朝子は、ふと思い出して言った。「この女の子、この間言ったあんたのお嫁さんじゃないの」
酋長 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
何が腐りただれたかと薄気味悪くなって、二階の部屋へやから床板ゆかいたを引きへがして見ると、ねずみ死骸しがいが二つまでそこから出て来て
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
この死骸もほのほに焼かれた顔は目鼻もわからぬほどまつ黒だつた。が、湯帷子ゆかたを着た体やせ細つた手足などには少しも焼けただれたあとはなかつた。
それから、京極の宿所の釣殿つりどのや、鹿ヶ谷の山荘の泉石せんせきのたたずまいなどが、髣髴ほうふつとして思い出される。都会生活に対するあこがれが心をただらせる。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それに比べると、夏の富士は、焙烙ほうろく色にあかッちゃけた焼けただれをき出しにした石山であるのに、この水々しさと若さは、どうしたものであろう。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
王はその言うがままに、眉間尺の首を煮ることにしたが、三日を過ぎても少しもただれず、生けるが如くに眼をいからしているので、男はまた言った。
汽船は救助の汽笛ふえを鳴らし、汽缶に熱湯を煮えただらせ、怒濤をいて無二無三に先へ先へと進みはしたが嵐と波に遮られて同じ所ばかりを漂った。
死の航海 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
燐寸の自然発火と、外函の両側に膠着された硝子粉のため、焼きただらした指頭には、黒い垢じみた繃帯を巻いていた。
武装せる市街 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
硫黄島に死んだ夫の記憶は腕から、近所に預けて勤労奉仕に出てきた幼児の姿は眼の中からくずれ落ちて、ただれた肉体からはずれてゆく本能のもだえ。
原爆詩集 (新字新仮名) / 峠三吉(著)
そのかしわの木は、片側の根際まで剥ぎ取られていて、露出した肌が、なんとなく不気味な生々しい赤色で、それが腐りただれた四肢の肉のように見えた。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
彼は日夜巻煙草を楽んだ——彼の手の指の内側は、黄褐色の脂でただれてしまった——指の爪は、宝石ででもあるかのようにセピア色に輝きはじめた。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
「生きてなさった時は、妹さんに負けず劣らずの美しさで評判でしたが、死体はただれてフヤケテ、皮膚がけて、もう滅茶滅茶めちゃめちゃだという話でやした」
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
車輪を空へ向けてすっかり腹を見せているのや、なぎ倒されたまま顛覆しているのや、焼けただれてとけた鉄骨だけのこった貨車、客車が散乱していた。
播州平野 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
おけいが湯呑を取ろうとし、登は「きれいな晒木綿さらしを」と云った。毒物を吐くときにのどただれさせているし、もうごくりと飲む力はないと思ったのだ。
赤ひげ診療譚:06 鶯ばか (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
おまけに肩から背中にかけて一面に赤くただれた腫物はれものが崩れている有様に、悟浄は思わず足をめて溜息ためいきらした。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
いきなり、抱きあまるほど豊満なふところへ、男の体をひきよせると、お稲はただれたように朱い唇を、自分の腕に仰向いた賛之丞の顔へ激しくいて
八寒道中 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
翌朝に至って正気付いたが焼けただれた皮膚ひふかわき切るまでに二箇月にかげつ以上を要したなかなかの重傷だったのである。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
うつ伏せにみぞに墜ちたものや、横むきにあおのけに、焼けただれた奈落ならくの底に、墜ちて来た奈落の深みに、それらは悲しげにみんな天を眺めているのだった。
鎮魂歌 (新字新仮名) / 原民喜(著)
赤くただれた眼をした、年はすくなくとも七十と見えるが、その実五十にはなっていまいと思われる、小さな老婆が、肩に天秤棒をかけて、往来をやって来た。
闇太郎は、もう、一刻も早く、この痴情に心魂をただらしてしまった年増おんなの前が、逃げ出したくなった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
それが六十二議会で、議会はただれきったものになって民心に嫌厭けんおをさえ感じさせるようになろうなどとは思いもかけず、彼は赤黒くなるほど飲んで祝したのだ。
すこし遅目に這入はいって来た郵便配達手君を、何気なく振返って目礼を交した時に、その瞼がヒドクただれて、左右の白眼が真赤に充血しているのを発見したので
眼を開く (新字新仮名) / 夢野久作(著)
駈け出したためか昂奮した息をふうふう吐きながら、黄色くただれた眼でじろじろと尾田を見るのであった。
いのちの初夜 (新字新仮名) / 北条民雄(著)
それほど階級制度の妥協や虚偽が赤くただれた形を持つて来た……。赤く爛れた場合には、何うしても荒い手術をしなければならなくなつて来ると同じやうに——。
小説への二つの道 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
飢鷹に髓をつつかすのだ、それで、肉が腐りただれてなくなると、神水をかけて業風ごうふうに吹かすと、また本の形になる、こんな奴は、億万ごうを経ても世には出られないよ
令狐生冥夢録 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
嵐は思い思いに叫んでその周囲まわりを廻った。頭の上をけた。蹴った。突き当った。怪物の赤いまなこは一つ、一つ失せて、ただ一つ残ったのが赤くただれて活きている。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
と言い切って、かおを上げた大谷刑部少輔の崩れたその顔面。深い覚悟の程も、思い切った表情の程も、その崩れただれた面には、更に現われてこないことが悲惨である。
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
真紅に咲きただれた椿の花がぼったりと崩れ落ちる様に、咲き遅れたダリヤががっくり前につんのめる様に、むれた風通しの悪い文学はしっかりと根を張った意地の悪い
第四階級の文学 (新字新仮名) / 中野秀人(著)
ぼうとなる大願発起痴話熱燗あつかんに骨も肉もただれたる俊雄は相手待つ間歌川の二階からふと瞰下みおろした隣の桟橋さんばしに歳十八ばかりのほっそりとしたるが矢飛白やがすりの袖夕風に吹きなびかすを
かくれんぼ (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
手に手をとりくみて日を給ふが、つひ心神こころみだれ、生きてありし日にたがはずたはぶれつつも、其の肉の腐りただるるををしみて、肉を吸ひ骨をめて、四七はたくらひつくしぬ。
「男です! しかも裸体です。どうも由蔵らしいと思われますが、足裏が白くただれていました」
電気風呂の怪死事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
わずかの療治代を貰って帰りました。すると奥方は鍼を致した鳩尾の所が段々痛み出し、遂にはただれて鍼を打った口からジク/\と水が出るようで、猶更なおさら苦しみが増します。
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
その眼にも様々あったが、ただれ目が殊に多かった。冬籠りに囲炉裡いろりの煙で痛めたらしかった。
壁の眼の怪 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
舌がただれてものを言うことも出来ませんし、無筆だから字で書くことも出来ないから、ほかの人間では手におえないが、手前だけはそいつにものを言わせる方法を知っている。