こぼ)” の例文
別なことばでいふとこぼたねだ。だから母夫人の腹に、腹の違ツたあにか弟が出来てゐたならば勝見家に取ツて彼は無用むよう長物ちやうぶつであツたのだ。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
給仕ボーイ頭くらいの者に入れ知恵されて持って来た話というのは、たかだか気位の高い妻の讒訴ざんそをして愚痴をこぼすくらいのものだろうと
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
この悪戯者いたづらものの考へでは女に対する仕打は笑ふか、忘れるかしてさへゐればそれでいいので、涙をこぼすなどは贅沢な沙汰に過ぎなかつた。
遠い亭座敷から笛の声がゆるく流れて来て、吹くともない春風にほろほろとこぼれて落ちる桜の花びらが、女のびんの上に白く宿った。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
植源の忙しい働き仕事や、絶え間のないそこのうちのなかの紛紜いざこざに飽はてて来たお島は、息をぬきに家へやって来ると父親にこぼした。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
彼処かしこにて恋人のふみる人もあるべしなど、あやにくなることの思はれさふらて、ふと涙こぼさふらふなど、いかにもいかにも不覚なるわたくしさふらふ
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
おつたはやゝ褐色ちやいろめた毛繻子けじゆす洋傘かうもりかたけたまゝ其處そこらにこぼれた蕎麥そば種子まぬやう注意ちういしつゝ勘次かんじ横手よこてどまつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
「あ、まづ手付てつき……ああこぼれる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所よそで飲む気にもなりますとつて可い位のものだ」
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
熱さへ降れば直ぐに出社するからとあれだけ哀願して置いたものを、さう思ふと他人の心の情なさに思はず不覺の涙がこぼれるのであつた。
業苦 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
その草染くさぞめの左の袖に、はらはらと五片三片いつひらみひらくれないを点じたのは、山鳥やまどり抜羽ぬけはか、あらず、ちょうか、あらず、蜘蛛くもか、あらず、桜の花のこぼれたのである。
薬草取 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
無人となった境地には、月光ばかりがこぼれていた。しかるにこのころ一人の武士が、下谷したやの町の一所に、腕を組みながらたたずんでいた。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「せっかく親爺おやじ記念かたみだと思って、取って来たようなものの、しようがないねこれじゃ、場塞ばふさげで」とこぼした事も一二度あった。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
あの何の感覚もない氷魚のような娘のおきみさえ、粥の道具のあくのを待つ間、あの唄声を聞いて、俯向いて涙をぽろ/\とこぼしていた。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
斯うして日毎に私達は一時間にこぼす語数が無に近い程減少して、私達の肉体も無になるのではないかと疑はねばならなかつた。
(新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
もとの砂にも、小砂利こじゃりにも、南豆ナンキン玉の青いのか、色硝子ガラスの欠けらの緑色のがこぼれているように、光っているものが交っている。
モルガンお雪 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
「かうなつちや經費が溜らん。」と、父はこぼしてゐたが、避病院を島へ建てたことを、祖母などに向つて内々ないないで後悔してゐた。
避病院 (旧字旧仮名) / 正宗白鳥(著)
それに子供が多いから女中や婆やは手一杯で頻に愚痴をこぼす。他所よその家では主人は少くとも日中は勤めに出るから主婦はその間息がつける。
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
両親も其は同じ事で、散々私に悩まされながら、矢張やっぱり何とも思っていない。唯影でお祖母ばあさんにも困ると、お祖母ばあさんの愚痴をこぼすばかり。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
すると阿兄あにきは其がうれしかつたと見え、につこり笑つて、やがて私の顔を眺め乍らボロ/\と涙をこぼした。それぎりもう阿兄は口を利かなかつた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
利章も成長してから、筑前守には不便ふびんを加へられてゐる。それがどうして此訴を起したかと云つて、内藏允は涙をこぼした。
栗山大膳 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
仕事やら、台所やら、掃除やら、こんな広い家を兄の気に入るとおりに出来ない、と、よく康子は清二にこぼすのであった。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
瑞木と花木が朝の涙などは跡方あとかたもない顔して帰つて来た。滿と健も帰つて来た。何と思つたか健が手紙を涙をこぼしながら書いて居る母の傍へ来て
帰つてから (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
お話二つに分れまして、丈助は空涙そらなみだこぼしながら根本の宅へ帰って参りますと、おみゑは案じて居りまする。門口から
何故私の手はをのゝいたか、何故私は知らぬ間に手にした珈琲茶碗の中味を半分ばかりも、敷皿しきざらの中にこぼしてしまつたか、そんなことを考へなかつた。
それは十分の一にも相当しないとこぼした位で、かなりあった土地もおおかた抵当に入ってしまい、あまつさえ医師への払いなどはそのままの状態で。
(新字新仮名) / 犬田卯(著)
今日もカスタニアンと云う黄いろい薔薇ばらがざくりと床の間の花瓶かびんに差されている。銀杏いちょうの葉、すこしこぼれてなつかしき、薔薇の園生そのうの霜じめりかな。
晩菊 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
玉章先生少しく持て余してある人を訪い「どんなに絵具を使っても描きようがない」とこぼす、「いや、それはあなたの手腕に対する相当の報酬です」
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
常磐線じょうばんせんの暗い車窓を眺めながら、静かに語り出される御話を伺っているうちに、段々切迫した気持がほぐれて来て、今にも涙がこぼれそうになって困った。
指導者としての寺田先生 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
幸子はこれを読んで行くうちに、先日道玄坂の家の門前で、自動車の窓を隔てて別れの挨拶あいさつを交した姉の、涙をぽろぽろこぼしていた顔を思い浮かべた。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
夏の暁、潮風涼しく、松の林の下道こぼるる露のおほきとき、三々また五々、老幼を問はず、男女を択ばず、町に住める人々の争て、浜辺に下りゆくを見る。
松浦あがた (新字旧仮名) / 蒲原有明(著)
彼は古本屋らしくない、きゃしゃな、若い男だったが、細君の死骸を見ると、気の弱い性質たちと見えて、声こそ出さないけれど、涙をぼろぼろこぼしていた。
D坂の殺人事件 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
母は獨り言のやうにかう言つて、あちらのまちのはづれの片側町に比較した。母はこの度の出來事についてはもうなんにもこぼしたりするやうな事はなかつた。
赤い鳥 (旧字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
とりの足痕みたいに斑々はんはんと、血がこぼれて行く。——右往左往する人々が、それを踏みつけるので殿中は赤く汚れた。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「どうぞ手伝って下さい。あまり沢山あって運び切れないので困っているのです。砂糖は向うの広場に落ちております。大方おおかた砂糖車からこぼれたのでしょう」
猿小僧 (新字新仮名) / 夢野久作萠円山人(著)
処々にこぼしたやうに立つてゐる赭ちやけた砂山と、ひらみつくやうに生えてゐるくすや樫の森などの続いてゐる果てなる空、南の方はそら鶏卵たまご色に光を帯びて
伊良湖の旅 (新字旧仮名) / 吉江喬松(著)
吉里ははらはらと涙をこぼして、「これから頼りになッておくんなさいよ」と、善吉を見つめた時、平田のことがいろいろな方から電光のごとく心にひらめいた。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
それだのに何としたか意久地なしの霊魂たましひがまたトスカ的に滅入めいり込む、気が悄気しよげる。ポロポロと涙がこぼれる。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
もうその頃は物事に感じ易く、何かというと涙をこぼすようになって、すっかり人間が変ってしまいました。
むかでの跫音 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
井戸一帯に燐の粉がこぼれて、それに鬱気うつきを生じ、井戸の中、ふたの石、周りの土までが夜眼にも皓然こうぜんと輝き渡っていたその理を、彼は不幸にもわきまえなかったのだ。
はしゃぎたくて堪らない小娘のように上衣を引張り、スカートのくぼへ飲みかけたコーヒーをこぼした。
歩む (新字新仮名) / 戸田豊子(著)
梢一杯にたわこぼれるほど実ったり、美しい真赤なぐみの玉が塀のそとへ枝垂れ出したのや、青いけれど甘みのある林檎、杏、雪国特有のすもも、毛桃などが実った。
幼年時代 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
洗い髪のハラハラこぼれるのを掻き揚げながら、「お上さんと言や、金さん、今日私の来たのはね」
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
かなり真面目に「なりますとも」と答えていたあの頃の己に残っていた初心さは実に涙がこぼれる。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
……で、二人で湯を沸して、飯を喰ひ乍ら、僕は今から乞食をして郷國くにへ歸る所だツて、何から何まで話したのですが、天野君は大きい涙を幾度も/\こぼして呉れました。
雲は天才である (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
精根つきるまで喚きつづけていたが、やがてしまいには熱い涙をぼろぼろこぼしながら、それまで喚き立てていた言葉とは何の脈絡もない文句を、小さな声で唱えるのだった。
お前は言った、「おれは塩をひとつまみうしろへ投げる……冗談じょうだんに」と。「おれはこぼれたぶどう酒で頭をこする……冗談に」と。「おれは司祭を見て剣を鳴らす……冗談に」と。
くだらんことを貴方あなたこぼしていなさる。医者いしゃがいやなら大臣だいじんにでもなったらいいでしょう。』
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
活東子くわつとうしがゴホン/\せきをしながら、赤土あかつちしたまで掘入ほりいつて、なにないとこぼしたのも其頃そのごろ
周囲は広い余地を残し、鈴懸すずかけの木立から思い出した様に枯葉がこぼれて居た。垣根と云うのは石の柱と、其を結び付けて垂れ下った鉄鎖がある丈けで、人の出入も自由であった。
偽刑事 (新字新仮名) / 川田功(著)
先年歿したDという小説家は、自分には訪問ヴィジットの能力がないとこぼしていたが、僕などもそのお仲間らしい。第一に他人の家の門口の戸をわが手であけるということが既に億劫だ。
落穂拾い (新字新仮名) / 小山清(著)