こけ)” の例文
釣瓶つるべは外してありますが、覗くと山の手の高台の井戸らしく、石を畳み上げて水肌から五六間、こけと虎耳草が一パイえております。
絶壁には千年のこけがむして、荒波のしぶきが花と散っている。そして信天翁あほうどりの群が、しゃがれ声で鳴きながら、その上を飛んでいる。
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
こけでぬるぬるした板橋の上に立って、千穂子は流れてゆく水の上を見つめた。藁屑わらくずが流れてゆく。いつ見ても水の上はきなかった。
河沙魚 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
第二の世界のうちには、こけえた錬瓦造りがある。片隅かたすみから片隅を見渡すと、向ふの人の顔がよくわからない程に広い閲覧室がある。
三四郎 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
世界にはながむるに足るべきあらゆる種類のこけや草や灌木かんぼくがあり、ひもとくに足るべき多くの二折形や三十二折形の書物があるのに
いまはぜの木が血のような鮮やかな色に紅葉しているが、それが脇にある石仏のこけむした姿と、おどろくほどぴたりと調和してみえた。
滝口 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
樹々きぎの梢から漏れ落る日の光が厚いこけの上にきらきらと揺れ動くにつれて、静な風の声は近いところに水の流でもあるような響を伝え
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
金砂のように陽の踊る庭に、こけをかぶった石燈籠いしどうろうが明るい影を投げて、今まで手入れをしていた鉢植えのきく澄明ちょうみょうな大気にかおっている。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
この邸の屋根瓦には、まんじの紋がこけさびてあろう。遠祖源頼政みなもとよりまさ公が、義兵をあげられた時、高倉宮より賜った家紋と伝え聞いておる。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
敷居の外の、こけの生えた内井戸うちいどには、いまんだような釣瓶つるべしずく、——背戸せどは桃もただ枝のうちに、真黄色に咲いたのは連翹れんぎょうの花であった。
雛がたり (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
依て此石を庚申塚に祭り上に泥土どろぬりて光をかくす、今なほこけむしてあり。好事かうずの人この石をへども村人そんじんたゝりあらん㕝をおそれてゆるさずとぞ。
カンコこけ深しなんど申すは何事ぞ、諫鼓をばいさめの鼓と読む。たとえば唐の堯帝政を正しくせんがために、しき政あればこの鼓を
静かな山のかげの、こけのついた石を伝つて流れる清水しみづのやうに、わたしは澄んで音も立てずに暮してゐます、といふ意味である。
良寛物語 手毬と鉢の子 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
すると、怪しや、その傍らの、畳四枚を敷いたほどの、こけむした岩の地の下から、まだうら若い女の声が、それに答えて云うのであった。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
群生した樹々は唯々ただただ、ひらけた空に向って、光を求めて争って伸びて行ったのだ。トド松はこけに喰い附かれ、つたにからまれて立っていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
そのとき西にしのぎらぎらのちぢれたくものあひだから、夕陽ゆふひあかくなゝめにこけ野原のはらそゝぎ、すすきはみんなしろのやうにゆれてひかりました。
鹿踊りのはじまり (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
壁は雪のように真白で、太陽に輝いている時は目がいたくなるほどでした。村の中央には、こけむした土手の上に風車がそびえ立っています。
ゲーテなども、確か驢馬に乗つて葡萄圃ぶだうばたけの間あたりを縫ひながら、それからこけの生えた熔巌の上などを難渋して歩いたのであつただらうか。
ヴエスヴイオ山 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
二階の出窓でまどにはあざやかに朝日の光が当っている。その向うには三階建の赤煉瓦あかれんがにかすかなこけの生えた、逆光線の家が聳えている。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
三島の家々の土台下や縁先や庭の中をとおって流れていてこけの生えた水車がそのたくさんの小川の要処要処でゆっくりゆっくり廻っていた。
ロマネスク (新字新仮名) / 太宰治(著)
それ高雄は山高うして鷲峯山じゅぶせんの梢に似、谷しずかにして商山洞しょうざんどうこけ敷くに似る、岩間の清水流れること白布の如く、峰の猿木々の枝に遊ぶ。
新しいこけが芽を吹き出す五月のこと、それでかかった十数年の旅の間に、私はすっかり、熟し切った処女になっておりました。
紅毛傾城 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
歳月を経て或る旅人はこう書いて、もう、そろそろこけの生えかかったみたりの墓のうえに、紙も、白じらと秋かぜの吹く日に置いて行った。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
こけむした古井戸のそばに立って、うちの様子をのぞいてみると、ふすまがすこしあいている間から、灯火の光が風に吹きあおられてちらちらし
四囲の岩壁は、青味をおびた黒色をしていて、そのうえに、こけや海草が生え、艇が水を動かすものだから、ゆらゆらと揺れる。
地球要塞 (新字新仮名) / 海野十三(著)
最早もう山の上でもすっかり雪が溶けて、春らしい温暖あたたかな日の光が青いこけの生えた草屋根や、毎年大根を掛けて干す土壁のところにあたっていた。
岩石の間 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
井戸の中は、ずっと下まで、でこぼこの石畳になっていたが、それに一面こけが生えていて、足をかけると、ズルズルとすべった。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
寺男が閼伽桶あかおけと線香とをもってきて、墓のこけはらっている間、私たちは墓から数歩退いて、あらためて墓地全体をみやった。
花を持てる女 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
勝も附いて来て、赤い緒の雪踏せったを脱いで上った。僕は先ず跣足はだしで庭のこけの上に飛び降りた。勝も飛び降りた。僕は又縁に上って、尻をまくった。
ヰタ・セクスアリス (新字新仮名) / 森鴎外(著)
山桜の花は幾重もかさなりて、木のもとのこけの青さも見えぬほどである。水に散っては水をおおって、こぎゆく舟のあとをくっきりきわ立てる。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
やはり前の川筋を行ったのですけれども荷物の重みもありますし、川底に大きな石があってその石にこけが生えたようになって居るものと見えて
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
例えば、菌、こけ、藻草のような植物でも、その所生の境遇と外囲の関係とによって初めて私達の詩的感覚を打つのである。
季節の植物帳 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
食用蝸牛の養殖ようしょく一寸ちょっと面倒な事業だそうである。その養殖場には日蔭ひかげをつくるための樹林じゅりん湿気しっけを呼ぶこけとが必要である。
異国食餌抄 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
おばあさんの片折戸のせまい空地も弟切おとぎそうこけのように生えて、水引草、秋海棠しゅうかいどう、おしろいの花もこぼれて咲いていた。
訶和郎は死体になった荒甲の胴を一蹴りに蹴ると、追手おって跫音あしおとを聞くために、地にひれ伏してこけの上に耳をつけた。彼は妻の傍にかけていった。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
そのすぐ向うからもう長々とした石段の入り口になって、そこには不許葷酒入山門くんしゅさんもんにいるをゆるさず六朝りくちょう風な字で彫った古いこけむした自然石が倒れ掛かっていた。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
彼はこけの中に腰をおろして、海がひとすじ、越しに見えるような向きに、樹に凭りかかった。時折、風が波の轟きを彼の所まで運んで来た。
黒いこけの生えた石地藏に並んで、『左とうくわうゐん』とつてある字のわづかに讀まるゝ立石たていしの前を、北へ曲つてくと
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
浦伝ひ、島伝ひせしかども、さすがかくはなかりしものをと、思召おぼしめすこそ悲しけれ。岩にこけむしてさびたるところなれば、住ままほしくぞ思召す。
大菩薩峠:41 椰子林の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
はっきりした日差しにこけの上に木の影がおどって私の手でもチラッと見える鼻柱はなばしらでも我ながらじいっと見つめるほどうす赤い、奇麗きれいな色に輝いて居る。
秋風 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
そのためからりとした庭にこけがめずらしく青々として、秋海棠しゅうかいどうがさいている。睡蓮すいれんの葉が浮きながら枯れて、すっかり秋だ。はじめて温度表をみる。
胆石 (新字新仮名) / 中勘助(著)
狭い庭で軒に迫る木立の匂い、こけの匂い、予は現実を忘るるばかりに、よくは見えない庭を見るとはなしに見入った。
浜菊 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
あのかすかな弛みを見せながらなほ未だに堂々とした線を中空に張りわたしてゐるこけのついた屋根。——この家が直造の安心を支へて来たのである。
医師高間房一氏 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
皆さんの毎日お歌いになる君が代の唱歌にもさざれ石のいわおとなりてこけのむすまでと申してございます通りであります。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
誰も知らなかったこけを発見して、オーノコータリヤと学名をつけている。これで大野幸太郎が世界的に残る積りだ。
変人伝 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
城山のふもとにてく鐘雲に響きて、屋根瓦のこけ白きこの町のはてよりはてへともの哀しげなる音の漂う様はうお住まぬ湖水みずうみ真中ただなかに石一個投げ入れたるごとし。
源おじ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
その音は荘重そうちょうでゆるやかであった。雨にれた空気の中を、こけの上の足音のように伝わっていった。子供はすすり泣いていたが、ぴたりと声を止めた。
「君に逢はんその日はいつぞ松の木のこけの乱れてものをこそ思へ」というようなことばかり書いておいでになった。
源氏物語:53 浮舟 (新字新仮名) / 紫式部(著)
月の色に燃えたすぎの梢へでも、谷底の、岩の裂け目に咲くこけの花へでも、邪婬の霧が降らずにはいようもないわ。
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
海岸から折れて一丁も行かない中に、目指す石の塁壁るいへきにぶつかる。鬱蒼うっそうたる熱帯樹におおわれこけに埋もれてはいるが、素晴らしく大きな玄武岩の構築物だ。