もつ)” の例文
道也の進退をかく形容するの適否は作者といえども受合わぬ。もつれたる糸の片端かたはしも眼をちゃくすればただ一筋の末とあらわるるに過ぎぬ。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
毛といふ毛はこと/″\く蛇で、其の蛇は悉く首をもたげて舌を吐いて、もつるゝのも、ふのも、ぢあがるのも、にじり出るのも見らるゝ
毒と迷信 (新字旧仮名) / 小酒井不木(著)
見つめていると、代々木の娘、女学生、四谷の美しい姿などが、ごっちゃになって、もつれ合って、それが一人の姿のように思われる。
少女病 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
「おう、もどって来たか、俺は、お前のことを、どんなに心配していたか判らないぞ、ようもどって来た」と、漁師は嬉しさに声がもつれた。
月光の下 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
……雲を貫く、工場の太い煙は、丈に余る黒髪が、もつれて乱れるよう、そして、さかさまに立ったのは、とこしえに消えぬ人々の怨恨うらみと見えた。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
互にもつれ合い、絡まり合ってまるで手のつけられない混乱のうちに、彼女の活気や、無邪気さを、いつともなく毒して行ったのである。
地は饒なり (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
なぜだだらなどと呼ばれるかというに、少しいてくるとどもる癖がある、ことに自分の姓名を云う段になると、どうしても舌がもつれて
だだら団兵衛 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
彼は遠くで赤子の泣き声のしている夢を見て眼がめた。すると、傍で姪がもつれた糸をほどくように両手を動かしながら泣いていた。
御身 (新字新仮名) / 横光利一(著)
僅の袖の擦り合ひにももつれだして、お互を打擲ちやうちやくし合ふまで罵り交はさなければ止まないやうな日はこの二人の間には珍らしくなかつた。
木乃伊の口紅 (旧字旧仮名) / 田村俊子(著)
飲まんと舌がもつれるというアル中患者だから止むを得んだろう……取調べの一手ひとてにソンナのが在りやせんか……アッハッハッ……。
爆弾太平記 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
そのまん中に撩乱として白紗はくしゃよりもより膜性の、幾十筋の皺がなよなよともつれつ縺れつゆらめき出た。ゆらめき離れてはまた開く。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そしてわざと暗い所をってもつれ合ってゆく柔弱なやからを見るといきなり横づっぽうの一つも張り飛ばしてやりたいほどかんがたって
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
それと同時に、宿酔ふつかよいもつれた中田の頭も、今日一日の目茶目茶な行動から、ようやく加わって来た寒気と共に、現実的な問題に近寄って来た。
自殺 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
計算をはみだしたところにこの男の全悲劇が錯雑を極めたもつれかたで尻尾をだしてゐるやうに見え、それを思ふと伊東伴作は悒鬱だつた。
雨宮紅庵 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
細君は、一寸、云いにくげに、舌の根をもつらした。「もう、あいつ、五日も前から毎晩立ってるんですよ。あんたの家、用心なさいね。」
武装せる市街 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
そんな物を着ることをお島が拒んだので、着せる着せないではなしがその日ももつれていたが、到頭かぶせられることになってしまった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
それにもつれて、笛や太鼓の前拍子まえびょうしがながれ、舞台まいゆかには今、神楽司かぐらつかさ人長ひとおさが、神代人かみよびと仮面めんつけて——頬やあごの塗りのげているそのかお
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「なるほど、其方そちはまだ年端としはもゆかぬ。御後室と丹波と、予とのあいだに、いかなるもつれが深まりつつあるか、よくは知らぬのであろう」
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
一方の『正雪の絵馬』の一件はとかくにもつれて埒が明かない。半七も少しくじりじりしていると、日が暮れてから松吉が来た。
半七捕物帳:64 廻り灯籠 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
その上を、ダンスの人影が玄妙にゆがんで、一組ずつはっきり映ったり、グロテスクにもつれたりして眼まぐるしく滑って行った。
踊る地平線:11 白い謝肉祭 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
この事ありて後、再び雄々しき羽をうるため、彼まづ杖をもて二匹のもつれあへる蛇をふたゝび打たざるをえざりき 四三—四五
神曲:01 地獄 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
乃至ないし眞夜中まよなかうまたてがみ紛糾こぐらからせ、また懶惰女ぶしゃうをんな頭髮かみのけ滅茶滅茶めちゃめちゃもつれさせて、けたら不幸ふかう前兆ぜんてうぢゃ、なぞとまするもマブが惡戲いたづら
先方の馬から引き離そうとして馬車を後へ戻しにかかったが、どっこいそうは行かないで——いよいよもつれるばかりだった。
快活な聲がもつつてゐるのを聞きとることが出來るか出來ぬ中に(その間にアデェルの聲を聞きわけたやうに思ふ)、ドアしまつてしまつた。
即ち面白いもつれ合った事を真先に書き出して置いて、乱れたたまきの糸口を探るように、其の原因に遡って書くと云うことが出来なかったのでした。
探偵物語の処女作 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
いよいよもつれ糸のように乱れてくる帆村の足許あしもとに、事件解決の鍵かと思われる物が転がっていた。それは一個のボタンだった。
爬虫館事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
穴蔵から冬の明るみの中へ出て来た、腕をまくって、髪をもつらし、蒼白な顔をした男たちは、立去って再び降りて行った。
そのうしろでは、すかし紙をあてた地図のように、ちょっとした雰囲気の変化で、小静脈しょうじょうみゃくがみるみるうちにもつれ合うのである。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
舌をもつらせて言ったが、その舌の縺れに腹を立てたのか、私の返事を待たず、ええ面倒臭い、言っちまえといった調子で
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
出たぞ、と絲をおろすころには、出るは/\、のろり/\と大きな七五三繩しめなわの繩片のやうな奴がれつもつれつ岩から岩の蔭を傳うて泳ぎ𢌞ります。
樹木とその葉:33 海辺八月 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
その碑の面を、れたりもつれたりしながら、蒼白い、漠とした物が立ち昇って行った。娘が供えた線香の煙りであった。
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そうしてわけのように弱々しい微笑をして見せながら、ふいと思い出したように、いくぶんせの目立つ手で、すこしもつれた髪を直しはじめた。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
口辺をおおうて居る頭巾のきれが、息の為めに熱く湿うるおって、歩くたびに長い縮緬の腰巻のすそは、じゃれるように脚へもつれる。
秘密 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
バスのおんとソプラノの音とが、着かず離れずにもつれ合つて、高くなつたり低くなりして漂ふ間を、福富の肉声が、浮いたり沈んだりして泳いでゐる。
葉書 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
「どうしたの」と、おしげは、むすぼれてもつれてゐたものが解けかかつたやうにほつとした表情で、彼の側に寄つた。
一の酉 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
とてもつもらば五尺ごしやく六尺ろくしやく雨戸あまどけられぬほどらして常闇とこやみ長夜ちやうやえんりてたしともつじた譫言たはごとたまふちろ/\にも六花りくくわ眺望ながめべつけれど
別れ霜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
そしてその窪みから一フィート程のところに、海の底が岩になっていて、深緑色の海草、長海松ながみるの先端が三四本もつれたようにちょろちょろと這い出ていた。
死の快走船 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
蝋燭のほのほと炭火の熱と多人数たにんず熱蒸いきれと混じたる一種の温気うんきほとんど凝りて動かざる一間の内を、たばこけふり燈火ともしびの油煙とはたがひもつれて渦巻きつつ立迷へり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
その少女にとって、まるで人間一個の生存は恐怖の連続と苦悶くもんの持続にほかならなかった。すべてが奇異にもつれ、すべてが極限まで彼女を追詰めてくる。
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
もつれた糸のように入り乱れているので、どの尾根がどの山に続くものか、遠方からは到底識別することが出来ない。
望岳都東京 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
折角せつかく釣れ盛つて来たら三人の小船頭が綸をもつらかした責任のなすり合ひを始め、『お前がねや』『わしがねや』と語尾にねやねやとつけ乍ら喧嘩を始めた。
坊つちやん「遺蹟めぐり」 (新字旧仮名) / 岡本一平(著)
このもつれは後年まで続き、ついに四代家綱、五代綱吉などの霊を上野寛永寺へ持ってゆく成行なりゆきとなったのである。
増上寺物語 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
もつらす苦い珈琲の風味は決して自己われを忘れたロマンチツクな空の幻でも単純な甘いセンチメントの歎きでもない。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
大杉の生涯は革命家の生血なまちしたたる戦闘であったが、同時に二人の女にもつれ合う恋のどもえの一代記でもあった。
最後の大杉 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
山の小道を子供を連れたお上さんやお婆さんが、点々と上って来る。八月の海は銀の粉を吹いて光っているし、もつれた樹の色は、爽かな匂いをしていた。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
こうしてもつれ合っているところへ、立聞きのお幸が注進したので、奥二階から駈け着けて来た医師の奥野俊良。
備前天一坊 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
長い棒を突いて、胸にきらきらと光る鏡をかけて、頭髪は黒くよもぎのようにもつれて、何か腰の周囲まわりにじゃらんじゃらんと曲玉まがたまのようなものが幾つも吊下っていた。
北の冬 (新字新仮名) / 小川未明(著)
日本ではこれに感情をただちに入れるから、ことがもつれてくる。ゆえに前に述べた約束の時期に、品物ができなければ、感情にうったえて申し訳をすることを計る。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
正勝はうるさくぐるぐるともつれる精悍せいかんな新馬を縺れないようにさばきさばき、草原の斜面を下りていった。
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
家から下地のあるところへ、また二本ほど飮んだので、道臣はだいぶ醉つて、舌が少しもつれかゝつた。
天満宮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)