いと)” の例文
白い指のまろび出す音階は、いとやら涙の音やら、彼女にもわからなかった。そのうごかない唇が歌うかすかな琴歌も、嗚咽おえつに似ていた。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
らしていた居間の道具類、始終いていた琵琶びわ和琴わごんなどの、今はいとの張られていないものなども御覧になるのが苦しかった。
源氏物語:36 柏木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
可愛らしい鼓村は、大きな、入道にゅうどうのような体で恐縮し、間違えると子供が石盤せきばんの字を消すように、箏のいとの上をてのひらき消すようにする。
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
ハハハハハ、どうせ音楽の神ミューズいとの音までも聴けるのでしたら、そんな風に、とりの声でイビュコスの死を告げると云うのはどうですかな。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
あるいは「れウィオリノ」という題名としていとの切れたウィオリンの画の上に題名を書くというような鼻持ならない黴臭かびくさい案だったから
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
いとす左手の指頭の變化によりて琵琶の音に曲節生じ、歌口より吹入るゝ風が孔の開閉によりて篳篥の音に曲節を與ふる如く
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
口中に臭気しゅうきあるをさとらず師の前に出でて稽古しけるに、春琴例のごとく三のいと鏗然こうぜんはじきてそのまま三味線を置き、顰蹙ひんしゅくして一語を発せず
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
まるで弾じていた琴のいとが切れでもしたように、言葉の中途でぴたりと口をつぐみ、そのままじっと大和守の眼をみつめた。
琴のいとのやうなのもある、人が聞いては何ともない鉦の音も、悲しく響くやうな神經を持つてゐるのは、憐むべきであるとも思つたのであつた。
半日 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
お前のいとはあれほど優しゅう聞えたのに、お前の姿を見ると、体中からだじゅうが縮みあがるような心持がするのはどうしたものだ。
旋風のやうな迅さでバンドゥーラのいとを掻き鳴らすかと思ふと、直ぐさまその手を腰につがへて、しやがみ踊りに移る
松飾まつかざりーい、松飾り、」の所へ来て手を忘れた。つかえてしまった。私はぴんと三本のいとを引き切ってしまった。
理想の女 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
将門まさかどが乱を起しても護摩ごまいて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情のいと蜘蛛くもの糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて
魔法修行者 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
破三味線やれさみせんを膝の横へ置いて、所在なげにいとを指ですり、幽かな音色をたてながら、お吉はじっと俯向いていたが
血煙天明陣 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
残った拇指で、煙管の半分に折れた吸口の方を挟み、その吸口の膨れた部分、凹んだ部分を巧みに利用していとをおさへる。バチの代りにマッチの棒で弾く。
乞はない乞食 (新字旧仮名) / 添田唖蝉坊(著)
悪いと言えば、このヴァイオリンだよ、軽井沢でひいた時はこんなでなかったが、今朝いとをかけ直して調子を
天才兄妹 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
子供の時から朝夕に母が渡世とせい三味線しゃみせんを聴くのが大好きで、習わずして自然にいとの調子を覚え、町を通る流行唄はやりうたなぞは一度聴けばぐに記憶する位であった。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
娓々びび、切々たる、哀調は、かすかに弾きすまされた爪びきのいとの音にからみ合いながら、人々の心を、はかない、やる瀬ない境に引き込んでゆくのであった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
三味線さみせんばちが一いとれるとしんみりとした座敷ざしききふいきほひづいてランプのひかりにはかあかるいやうにつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
そして何だかそのいとに身も魂も誘われて行くようにいとせめて遣瀬ない思いが小さな胸に充分いっぱいになった。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
薄き汗衫じゆばん一枚、鞣革なめしがははかま一つなるが、その袴さへ、控鈕ボタンはづれて膝のあたりに垂れかゝりたるを、心ともせずや、「キタルラ」のいと、おもしろげに掻き鳴して坐したり。
兵馬が涙にむせびながら、しずかに一杯の飯を食べ終った時、どこかでビーンといとの鳴る音がしました。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
『何方でも無いんだ。ハハヽヽヽヽ。』と笑つたが、『胸にいとがあるんだよ。君にも、僕にも。』
漂泊 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
私のいこひは十分に安らかだつたかも知れない、たゞ心の悲しみがそれを打ちこはして了つた。私の悲しむ心は、いやし難い心の傷、内心の苦惱、斷ち切られたえにしいとを嘆いた。
而もいとのように張られていつも敏感に震動数高く世界史とかかわりあわずにはいられない日本。
時代と人々 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
だが、三蔵どんのあの態を見るにつけ、やくざ渡世がふるふる厭になったというお前の料簡は、俺にも可成りピーンときたから、生れ故郷の追分をお前のいとで流しの稼ぎだ。
沓掛時次郎 三幕十場 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
番組第五の長唄「綱館つなやかた」が六左衞門等のいとで進行中、伊十郎が例の通り自慢らしく大きな音をたてて鼻をかんだのが、つい厭になつた爲め、氣を變へようとして席を立つた。
みよしはだぬぎのみだ姿すがた歌妓うたひめがさすひくに、おくりのいとながれつゝ、花見船はなみぶねぎつるゝ。
婦人十一題 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
浄き旋律の、愛らしきいとの声、洞の中より聞ゆ。一同耳を傾け、暫くにして深く感動せしものゝ如し。これより下に記せる「」の処まで、総て音の揃ひたる奏楽を伴はしむ。
焉馬、三馬、源内、一九等の著書を読む時に、われは必らず彼等のうちに潜める一種の平民的虚無思想のいとに触るゝ思あり。就中なかんづく一九の著書「膝栗毛ひざくりげ」に対してしかく感ずるなり。
徳川氏時代の平民的理想 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
と、そのうちの一本がぐにゃぐにゃと下りてきて、垂直に立つ他の二本の触角を、まるで竪琴たてごといとをはじきでもするかのように、ぽろんぽろんとはじいた。音が出たにちがいない。
宇宙戦隊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
姫はたおれながらに、ひらりとことを持ってそれをうけている、ことは斜めに切れて、箏柱ことじ散々ばらばらにはずれてそこらに飛び乱れ、不思議にもそのきられた十三本のいとの先が皆小蛇ちいさなへびになって
二面の箏 (新字新仮名) / 鈴木鼓村(著)
三味さみは何処で出るといえば無論三筋のいとから起るが、絃自身から直接に空気に伝わる音は割合に弱いものである。大部分の音は絃につれて振動する胴に張った皮から空気に伝わる。
猫六題 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
「判るわ。よく判るわ。鳴らす人によってみんな違ってよ。お父さんの汽笛はああいう吼えるような唸ような長い音なのよ。兄さんのは、何かしら三味線のいとでもたたくような、短い汽笛よ」
汽笛 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
六金さんが「浅間あさまじょう」を語り出した時分には、「うらみも恋も、のこり寝の、もしや心のかわりゃせん」と云うあたりから、目をつぶったまま、いとの音にのるように小さく肩をゆすって
老年 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
妓、吟じて曰くよろしく鋳たらをしたらに改むべし、而して後始めていとに上るべき也と。鋳たらの字終に目を尊ぶの習を免れず、此中の消息吾人は人の必らず之を首肯するものあるを信ずる也。
詩人論 (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
いとをあやつる老妓あれば、此方こなたにどたばたひまくられて、キヤツと玉切たまぎ雛妓すうぎあり、玉山くづれて酒煙濛々もう/\、誠にあしたに筆をして天下の大勢を論じ去る布衣ふい宰相諸公が、ゆふべの脚本体なりける
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
きりきりと切れし二のいとつぎ合せ締むるこころか秋のをはりに
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
そうして、命のいとの震動から出る二人の響をつまびらかに比較した。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
すそけば髪あざやかに琴緒ことをしぬいとの手知らばきに来よ風
舞姫 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
知的のいとが主なる樂旨を奏するやうになつたのである。
新しき声 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
命とこそはうちまもる歌の器のいと古りにたり
測量船拾遺 (新字旧仮名) / 三好達治(著)
沈めるおといとに、かせをかけたる思にて
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
いとうたあはせはやきふし、なれの踊れば
山羊の歌 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
愛のいとかけ弾きならす、心さへなき
小曲二十篇 (新字旧仮名) / 漢那浪笛(著)
「お幸さん、いとをお願いします」
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
いとは張られてゐるが もう
優しき歌 Ⅰ・Ⅱ (新字旧仮名) / 立原道造(著)
わななくいとにふれもせば
泣菫詩抄 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
琵琶びわ海老尾えびおに手をかけて、四つのいとねじをしきりと合せていた峰阿弥みねあみは、やがて、調べの音が心にかなうとやや顔を斜めに上げて
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
源氏に近い京へ来ながら物思いばかりがされて、女は明石あかしの家も恋しかったし、つれづれでもあって、源氏の形見のきんいとを鳴らしてみた。
源氏物語:18 松風 (新字新仮名) / 紫式部(著)