いらか)” の例文
洛内四十八ヵ所の篝屋かがりやの火も、つねより明々と辻を照らし、淡い夜靄よもやをこめたたつみの空には、羅生門のいらかが、夢のように浮いて見えた。
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
少佐は見晴台の大石に腰をおろして、遙か目の下の温泉村のいらか、渓流、それよりはズッと手前の山の中腹の別荘の建物などを眺めた。
偉大なる夢 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
雲の峰は崩れて遠山のふもともや薄く、見ゆる限りの野も山も海も夕陽のあかねみて、遠近おちこちの森のこずえに並ぶ夥多あまた寺院のいらかまばゆく輝きぬ。
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
障子しやうじを細目に開けて見ると、江戸中の櫻のつぼみが一夜の中にふくらんで、いらかの波の上に黄金色の陽炎かげろふが立ち舞ふやうな美しい朝でした。
そこに人間の生命の疾患に対しての、病院がいくつもいらかを並べているのに、彼はそのまま、横浜からまた船で戻ってしまったのだ。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
くまなく晴れあがった紺青こんじょうの冬の空の下に、雪にぬれた家々のいらかから陽炎かげろうのように水蒸気がゆらゆらとのどかに立ち上っていた。
宗助そうすけ老師らうしこの挨拶あいさつたいして、丁寧ていねいれいべて、また十日とをかまへくゞつた山門さんもんた。いらかあつするすぎいろが、ふゆふうじてくろかれうしろそびえた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
或る時は瑠璃光丸が、遥かな都の空を望んで、絵図をひろげたような平原に、蜿蜒えんえんと連なって居る王城のいらかをさし示しながら
二人の稚児 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
今までの陰惨な気持を振り捨てて晴れ渡った初秋の空の下に遠く拡がる街々のいらかを見下ろしながら、私は深い呼吸を反覆した。
デパートの絞刑吏 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
どこの屋敷のいらかもゆうぐれの寒い色に染められて、のろいの伝説をもっている朝顔屋敷の大きな門は空屋のように閉まっていた。
半七捕物帳:11 朝顔屋敷 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
元弘二年八月三日、この日はよく晴れた秋日和あきびよりで、松林では鳩が啼き、天王寺の塔のいらかには、陽が銀箔のようにあたっていた。
赤坂城の謀略 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
私たちは前にも増して、一心に耳を澄ませましたが、初めに轟々ごうごうと北風をいらかを吹き、森のこずえを揺すっているような伴奏が聞こえてきました。
棚田裁判長の怪死 (新字新仮名) / 橘外男(著)
新温泉の桃色に塗られた高いいらかが、明るく陽に照らされている。彼は子供の時分よく、書生に連れられて、この新温泉に来たものであった。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
更にこれを囲んで鐘楼、戒壇院、大門その他の堂宇が幾十となく、三笠山のふもと、方八町、二十四万余坪の境内に新しいいらかを陽に輝かしていた。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
野の道に腰をおろして、西の方を見ると、八幡の町から田圃を隔てた新緑の林を貫いたお寺らしい大きいいらかが眼に入った。もう財布に一銭もない。
みやこ鳥 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
陽は午前の十一時に近く、川も町のいらかも、野菜畑や稲田も、上皮を白熱の光に少しずつ剥がされ、微塵の雲母きらゝとなって立騰たちのぼってるように見えます。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
玉敷たましきの都の中に、むねを並べいらかを争へる、たかいやしき人の住居すまひは、代々よよてつきせぬものなれど、これをまことかとたづぬれば、昔ありし家はまれなり。
本所両国 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
しかし、素通りを縁として、井上靖の『天平のいらか』を速読した。かねて、唐招提寺の創立者たる盲目の鑑真がんじん和上の事を知りたいと思っていたためである。
冬の法隆寺詣で (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
日に光るいらか、黒い蔵造りの家々、古い新しい紺暖簾こんのれんは行く先に見られる。その辺は大勝の店のあるあたりに近い。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
壮麗を極めた花の都の中にぎっしりと立ち並んでいる家々は各々の美しく高いいらかをお互に競争し合っている。
現代語訳 方丈記 (新字新仮名) / 鴨長明(著)
鳴き交す声は咿唖いあとしていらかに響き空低く一面に胡麻を散らしたよう——後には小舟が白く揺れているばかり。
其勇ましいうめきの声が、真上の空をつんざいて、落ちて四周あたりの山を動し、反ツて数知れぬ人のこうべれさせて、響のなみ澎湃はうはいと、東に溢れ西に漲り、いらかを圧し
漂泊 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
來る時に見た東光院のいらかや白壁は、山の半腹に微笑ほゝゑむが如く、汽車の動くとゝもに動いてゐるやうであつた。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
天平の古都はもう過ぎ去りました。わずかばかりの余韻が寺々に残るばかりなのです。ですが那覇や首里の小高い丘に立って、町々のいらかを見下ろして下さい。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
山間の温泉場ではあるが、東京から名古屋へかけての浴客を吸集して、旅館のいらかは高く山腹に聳えて居る。
計画 (旧字旧仮名) / 平出修(著)
眼下に横たわっている大都会、いらかが甍に続いて、煙突えんとつからは黒いすさまじいけむりがあがっているのが見える。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
その荒れ森や、黒いいらかは、やがて闇太郎の鋭い目の前に、どんよりして来た、初冬の夜空の下に見えた。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
金杉の安楽寺までが、それぞれ相当に高いいらかを見せているが、めざす千隆寺の庭だけが、特に明るい。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
青鷺の立ち迷う沼沢の多かったむかしにくらべ、この城外には、いらかを立てた建物が混み合っていた。
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
王城守護の鎮守はこの地を安泰に守り、京の南北には霊験あらたかな寺々いらかを並べて壮観を極めた。
その寺のいらかもはっきり見えない位であるが、夜になってあたりの暗い中に焚火をしているのであるから、その焚火が冬木立をすかして、よく見える趣を言ったのである。
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
靜かな曇り日に、數千のいらかが遠く相並んでゐて、その間に往々神社佛閣の更に大きなものが聳え出てゐるのを瞰望してゐると、如何にも平和であるといふ氣が起つて來る。
少年の死 (旧字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
空には月明らかに雲薄く、あまつさえ白帝城のいらか白堊はくあとを耿々こうこうと照らし出したのである。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
見渡せば、大東京は朧月の空の下にいらか々をならべ、その際は淡い靄の中に溶け込んでいる。
魔都 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
秋風嫋々じょうじょうと翼をで、洞庭の烟波えんぱ眼下にあり、はるかに望めば岳陽のいらか灼爛しゃくらんと落日に燃え、さらに眼を転ずれば、君山、玉鏡に可憐かれん一点の翠黛すいたいを描いて湘君しょうくんおもかげをしのばしめ
竹青 (新字新仮名) / 太宰治(著)
四条通はあすこかと思った。八坂神社の赤い門。電燈の反射をうけてほのかに姿を見せている森。そんなものがいらか越しに見えた。夜の靄が遠くはぼかしていた。円山、それから東山ひがしやま
ある心の風景 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
その公方さま花の御所の御造営にはいらかに珠玉を飾り金銀をちりばめ、そのついえ六十万さしと申し伝えておりますし、また義政公御母君御台所みだいどころの住まいなされる高倉の御所の腰障子こししょうじ
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
宿命的なる東洋の建築は、その屋根の下で忍從しながら、いらかに於て怒り立つてゐる。
宿命 (旧字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
もし桜がなかったらどうであろう、春風長堤をふけども落花にいななけるこまもなし、南朝四百八十寺、いらか青苔せいたいにうるおえどもよろいそでに涙をしぼりし忠臣の面影おもかげをしのぶ由もなかろう
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
たとえば『因幡志いなばし』の今の岩美郡倉田村大字蔵田の条に、八幡宮の社地は今の社よりはるかに東へ通りて広大なり。今その旧境を土居の内という。社職三十余人いらかを並ぶ云々とある。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
山門高くそびえては真如実相しんにょじっそうの月を迎へ、殿堂いらかつらねては仏土金色こんじき日相観じっそうかんを送る。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
築地ついじの高塀したるいらかの色も年古りて床しく、真八文字に打ち開かれた欅造りの御陣屋門に、徳川御連枝の権威を誇る三ツ葉葵の御定紋が、夕陽に映えてくっきりと輝くあたり、加賀、仙台
高田派の本山なる興正寺別院のいらかがそこの中腹の深い樹立の中に光つて居た。
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
あるいはまた麻布広尾橋あざぶひろおばしたもとより一本道のはずれに祥雲寺しょううんじの門を見る如き、あるいは芝大門しばだいもんへんより道の両側に塔中たっちゅうの寺々いらかを連ぬるその端れに当って遥に朱塗しゅぬりの楼門を望むが如き光景である。
上辷うわすべりのする赭色の岩屑を押し出した岩の狭間をい上って崖端に出ると、偃松の執念しつこからみついた破片岩の急傾斜がいらかの如く波を打って、真黒な岩の大棟をささえている。絶巓ぜってんはすぐ其処そこだ。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
烈風いらかを飛ばし、豪雨石をまろばし、いきおいで、東都下町方面も多く水に浸され、この模様では今回の旅行も至極しごく困難であろうと想像しているところへ、ここに今考えても理由わけの分からぬ事があった。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
人心漸く泰平の娯楽をうつたへ、の芒々たる葦原よしはら(今日の吉原)に歌舞妓、見世物など、各種の遊観の供給起り、これに次いで遊女の歴史に一大進歩を成し、高厦巨屋いらかを并べて此の葦原に築かれ
徳川氏時代の平民的理想 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
その円屋根の珍しい建物は、まだあまり大きな建物の現れない頃のことで、静三の家の二階の窓からも遥かにいらかの波のかなたに見えるのだったが、その左手に練兵場の杜が見え、広島城の姿もあった。
昔の店 (新字新仮名) / 原民喜(著)
ここのみ寺よりしたに見ゆる唐寺たうでらもんいらかも暮れゆかむとす
つゆじも (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
いらかなきひとやにありて窓に恋ふ雨の濡れ泌む夕べの街を
遺愛集:02 遺愛集 (新字新仮名) / 島秋人(著)