やみ)” の例文
死の織手が織り出したのはひそやかな火焔の心を持つ美しい「やみ」であった——そのとき私は十二人のなかの別の二人の声をきいた。
最後の晩餐 (新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
と両手に襟を押開けて、仰様のけざま咽喉仏のどぼとけを示したるを、謙三郎はまたたきもせで、ややしばらくみつめたるが、銃剣一閃いっせんし、やみを切って
琵琶伝 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
電車が二つばかり轟々ごうごうと音を立てて私の背後うしろの線路を横切った。ユーカリの枯葉が一二枚、やみの空から舞い落ちて微かな音を立てた。
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
晴れ曇る、雨夜あまよの、深いやみの底にまたたく星影——そんなふうに、彼女の眼はなんにも、口でいわないうちに何か語りかけている。
江木欣々女史 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
トタンに、照空隊はスーッと消えて、あたりは真のやみにかえる。だが眼の底には、さっきの太い光の柱が焼けついていて消えない。
空襲下の日本 (新字新仮名) / 海野十三(著)
不取敢そのしんを捻上げると、パツと火光が発して、やみに慣れた眼の眩しさ。天井の低い、薄汚い室の中の乱雑だらしなさが一時に目に見える。
病院の窓 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
ぢゃによって、おゆるしなされ、はやなびいたをば浮氣うはきゆゑとおもうてくださるな、よるやみ油斷ゆだんして、つい下心したごゝろられたゝめぢゃ。
しかし、耳のせいか、べつな者を呼ぶのであったか、程なくその声もかき消えて、足元のやみに遠い渓流の音を知るのみであります。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
たくみな陰をえらんだ縫い方は、人であるよりも、なにか、やみのくずれがよどんでながれているように、まぎれやすいものであった。
野に臥す者 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
松村は、丁度やみの中で物を探る様な、一種異様の手附で——それを見て、私は益々気の毒になった——長い間かかって風呂敷包を解いた。
二銭銅貨 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
女子 銀の竪琴の音は、やみの中を荒れ狂っている、赤い焔のように鳴っている。……暗の中の血薔薇のように。(オーケストラの音む)
レモンの花の咲く丘へ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
水道の敷設がえでもあるのか深く掘り返した黒土が道幅の半分にもりあげられて、やみを照らしたカンテラの油煙が臭いにおいをみなぎらしている。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
暮れなやむ夏の夕暮のまだほの明るいやみを、煌々たる頭光ヘッドライトで、照し分けながら、一台の自動車が、烈しい勢で駈け込んで来た。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡はにぎわっていた。やみのなかから白粉おしろいを厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。
城のある町にて (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
姉弟は、さっきと同じ灯の下ではあるが、やみと光とが一層濃さを増したように感じられる夜の小部屋の雰囲気の中に、暫く黙ってかけていた。
雑沓 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
やがて、赤い灯の唯一つ薄暗くすゝけて点いてゐる小舟は、音もなく黒い水の上を滑つて、映る両岸の灯の影を乱しつゝ、やみの中に漕ぎ去つた。
鱧の皮 (新字旧仮名) / 上司小剣(著)
町の灯は、やみの中をまるで海の底のお宮のけしきのようにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれのさけび声もかすかに聞えて来るのでした。
銀河鉄道の夜 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
笑い動揺めく声が波の様に聞えて居る大広間へ這入ろうとすると、此の時満堂の電燈が一時に消えて全くやみの世界となった
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
やみに乗じて山里を逃亡いたしました、その晩あたりは何も知らないお幸が私の来るのを待ちこがれていたのに違いありません。
女難 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
やみに見えなかったが、二人は外は飛沫ひまつにかかってぬれ、内は汗でぬれ、かわいたところは、その衣類にも皮膚にもなかった。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
死んだ亭主のたねやみから暗へやるのも情けないし、済まない済まないと思いながら、時さんにばかり苦労をかけています。
沓掛時次郎 三幕十場 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
くちでそういわれても、勝手かってらないやみなかでは、手探てさぐりも容易よういでなく、まつろうやぶたたみうえを、小気味悪こきみわるまわった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
万坊ヶ原の一本松は、暁のやみに隠れた、那須野ヶ原あたりの開墾地にありそうな、板葺小舎いたぶきごやから、かんがりとがさす。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
レイモンド嬢がボートルレと見間違えた男のことも、四枚の名画のその後の行方も、同じくやみに包まれたままであった。
おお、そうだ! 泰軒先生におすがりして! と、黒い河水にのまれた三つの小石、やみにも白い手が袖口にひらめいて。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
まるで不意に部屋のやみの中にぎ取られたように、急に見えなくなってしまったんです。けれど私はまだ五分間ばかりそこにじっと立っていました。
黄色な顔 (新字新仮名) / アーサー・コナン・ドイル(著)
けれども東屋氏は答えようともしないで、しきりにやみの空をふり仰いでいたが、やがて突飛もないことをきだした。
灯台鬼 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
人に歌を読みかけられて返歌をせぬのは七生しちしょうやみに生れるなどということわざのある日本の人、まして匡衡だって中古三十六歌仙の中に入っている男だから
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
そうして、ほどなく急いで梯子をおりて来る足音が、あわただしく、重苦しいやみをかき乱した。——ただ事ではない。
偸盗 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
二人は犬ころのやうに取組合とりくみあつたまゝ、廊下を転げまはつたが、気の早い三井氏は、二つ三つ久世氏の頭をなぐつて、その儘やみの中に消えてしまつた。
そして、たたみうえとすと、またやみなかんで、どこへともなくって、姿すがたをくらましたのであります。
薬売り (新字新仮名) / 小川未明(著)
一たい彼は賑やかな事が好きで、下らぬことに手出しをしたがるたちだから、すぐにやみの中を探ってくと、前の方にいささか足音がするようであった。
阿Q正伝 (新字新仮名) / 魯迅(著)
ある夜、氏はやみのなかを歩いてゐた。氏のずつと前方には氏と同じいやうに灯なしで歩いてゆく一人の人がゐた。
其処へ持って来て、権四郎爺の相談は、彼の明日をやみにしようとするようなもので、成立する筈は無いのだった。
黒い地帯 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
二人の犠牲者の身体は、やみの中にくねくねとのたうち、もつれ合い、重なり合っていたがやがてしんと静まった。
二人の盲人 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
思へば/\はつかむりき候。太守樣にも至極御氣張り被遊候御樣子も被伺申候。又此上御わづらひおもり候ては、誠にやみの世の中に罷成儀と、只身の置處を不知候。
遺牘 (旧字旧仮名) / 西郷隆盛(著)
事務室のやみの主は、どんな人であるか分からないのである。声の色で判断すると、若い人のようでもあり、黒い手の色から考えると、年配者でもあるらしい。
酒徒漂泊 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
かやがばたばた七輪をあおぎながら、眠らすな、眠らすな、と叫ぶ。八重はやみの中を跣足はだしで医者にかけだした。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
会場のイルミネーションはすっかり消えてしまって、無気味な広告塔から、あおい火がやみに流れていたりした。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
竈のふたをくぐって、この塊りがぱちぱちと鳴るときに、三介の半面がぱっと明るくなる。同時に三介のうしろにある煉瓦れんがの壁がやみを通して燃えるごとく光った。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
素人衆……エー旦那方が我れ面白の人困らせ……斯ういうことを申しますとやみがおっかないんでげす。
が、一瞬間の後には、やみがその低い山をすっかり満たしてしまった。そしてすべての影は消えてしまった。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
私はくらやみの谷へ突落されたやうに暖かい日の影といふを見た事が御座りませぬ、はじめの中は何か串談じようだんわざとらしく邪慳じやけんに遊ばすのと思ふてをりましたけれど
十三夜 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
サラッ、サラサラと風なきに散る木の葉の音が、満山の寂寞を破って、思わず耳をそばだてながらやみを透して其方を覗き込ませる。実に静かな夜だ、沈黙そのものだ。
奥秩父の山旅日記 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
さうしてつかまう/\とする要求えうきうはげしくなればなるほど強くなつて來るのは、それにたいする失望しつばうの心でした。私達はやみの中に手探てさぐりで何かを探しまはつてゐました。
冬を迎へようとして (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
盗賊改めのお役向に限ったものなのです、ですから、世間の人が、無提灯でやみの中をうろうろ致していれば、盗賊と間違えられてもやむを得ないものでござります。
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
この房は外の光線が通らないで真暗まっくらがり真の闇という形ち、そのやみからの小さな房の真中に、青い青い火がちょろちょろちょろと燃えたり、消えたり息をついている。
怪談 (新字新仮名) / 平山蘆江(著)
如何いかなる星の下に生れけむ、われは世にも心よわき者なるかな。やみにこがるるわが胸は、風にも雨にも心して、果敢はかなき思をこらすなり。花や採るべく、月や望むべし。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
と、突然、妾の番犬が、妾が戦慄せんりつするようなうなり声を出して、外部のやみに向って吠出したのです。
バルザックの寝巻姿 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
う云いながら、巡査は無闇に松明を振廻ふりまわすと、火の光は偶中まぐれあたりに岩蔭へ落ちて、さんたる金色こんじきの星の如きものがやみうかんだ。が、あれと云う間に又朦朧もうろうと消えてしまった。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)