かす)” の例文
都会育ちの先生が、よくもこれほど細かに、濃淡のかすかな変化までも見のがさずに、山や野や田園の風物を捉えられたものだと思う。
歌集『涌井』を読む (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
池へ山水の落ちるのがかすかに聞える。小母さんはいつしか顔を出してすやすやと眠っている。大根を引くので疲れたのかもしれない。
千鳥 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
それでも近間の山には雲の影もなく、空は水浅葱みずあさぎに澄んで、天狼星シリウスが水の落ちて来る左側の崖の上の雪田を掠めてかすかに光っている。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
そこまではかすかにおぼえているが、印象はそこで消えて、その先は思い出せない。その代りここまでくると年代はよほど明かになる。
プチプチというかすかな音が聞えるのだ。何かをめるような音だ、執拗に耳について離れない。蒲団から顔を出して俺は怒鳴った。
(新字新仮名) / 梅崎春生(著)
風は、森がする吐息のように断続的に吹いている。しばらくすると、またかすかに遠くの遠くで、聞き覚えのある子供の泣声がした。
森の暗き夜 (新字新仮名) / 小川未明(著)
表通りの呉服屋と畳表問屋の間の狭い露路の溝板へ足を踏みかけると、かすかな音で溝板の上にねているこまかいものの気配いがする。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
空はと見上げれば星一つない。雲の往来も分らぬ、真の闇でそよとの風も吹かぬ夜を、早川の渓音がかすかに、遠く淙々そうそうと耳に入る。
白峰の麓 (新字新仮名) / 大下藤次郎(著)
けれども、その貴さは、はるか遠くでかすかに、この世のものでないように美しく輝いている星のようです。私から離れてしまいました。
風の便り (新字新仮名) / 太宰治(著)
津軽の連山はかすかであった。だが、北海の丘陵は右舷に近く迫っていた。何という雑草の青の新鮮さ。海はまたかぎりなく明るかった。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
六畳の座敷はみどり濃き植込にへだてられて、往来に鳴る車の響さえかすかである。寂寞せきばくたる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
時々私達は林の中にたたずんで、何の物音とも知れない極くかすかな響に耳を立てたり、暗い奥の方をうかがうようにしてながめ入ったりした。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
是と同じような心持は、今でもまだかすかに田舎には残っている。嫁入する者が男の帯を織って持って行くふうは南の方の島にもある。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
その時、絶壁の遥か上、高原に当たって騎馬武者の音、馬のいななき、物具もののぐひびき、それらにまじって若い女の悲鳴がかすかに聞こえて来た。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
その瞬間であつた。一種の異臭のかすかに浮び出るをさとくも感覚した長次は、身体の痛みも口惜しさも忘れ、跣足はだしのまゝに我家へ一散走り
名工出世譚 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
なる程見れば、すぐ二三間向うに一台の自動車が停っていて、そのそばに人らしいものが倒れてウーウーとかすかにうめいています。
赤い部屋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
温泉いでゆは、やがて一浴いちよくした。純白じゆんぱくいしたゝんで、色紙形しきしがたおほきたゝへて、かすかに青味あをみびたのが、はひると、さつ吹溢ふきこぼれてたまらしていさぎよい。
飯坂ゆき (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
どこかへ引っかかるような、ほとんど聞きとれないようなかすかな声で、「わたし、……懐妊なんでございますわ。」と、云った。
田舎医師の子 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかにそよいだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。
あいびき (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
常臥とこぶしの身の、臥しながら見るかすかな境地である。主観排除せられて、虚心坦懐きょしんたんかいの気分にぽっかり浮き出た「非人情」なのではなかろうか。
歌の円寂する時 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
八畳の間のつりランプの下でするのですが、その片隅に敷いた床の中で、ばらばらというかすかな音を聞きながら、いつしか私はねむるのでした。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
ふと醒めると、何処かで騒がしい人声がかすかに聞える。すぐ門弟たちの寄合よりあいだと分った。明け方のことが、それと共に、頭にはっとよみがえった。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
種蓮華を叩く音だけが、かすかに足音のように追って来る。娘は後を向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。
(新字新仮名) / 横光利一(著)
しかし座を占めると同時だった。不思議なことにその千之介が君前くんぜんはばかりもなく、突然、声をこらえ乍らかすかに忍び泣いた。
十万石の怪談 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
『今日もやはり注射をしませうか』と問うたとき、『もちろん』と答へたが、それが非常にかすかなこゑであつたさうである。
島木赤彦臨終記 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
またある時は、あの白いおおいの下で彼女が足を動かして、波打った長い敷布シーツのひだをかすかに崩したようにさえ思われました。
小さな蛾のこびりついている窓硝子まどガラスをとおして、私はぼんやりと暁の星がまだ二つ三つかすかに光っているのを見つめていた。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
医者が来た頃は、最早手後れになって居た。墓守が見舞に往って見ると、煎餅せんべいの袋なぞ枕頭に置いて、アアン〻〻〻かすかな声でうめいて居た。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
稚い緑りの草の葉は、時々微風にそよいでかすかに私語ささやくことさへあるが、マルゲリトは何時も静かに深い沈黙に耽つて居る。
土民生活 (新字旧仮名) / 石川三四郎(著)
すると胸の奥の方で、自分はつまらぬ、平凡な、やくざな、取るに足らぬ女だ、とかすかにうつろな声で囁くものがある。……
決闘 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
と、向うの端に小さな急拵えの、明り取り窓らしいものが見えて、そのかすかな光を受けて、パッと私の眼に映ったものは!
仁王門 (新字新仮名) / 橘外男(著)
きわ世間がしんと致し、水の流れも止り、草木も眠るというくらいで、壁にすだく蟋蟀こおろぎの声もかすかにあわれもよおし、物凄く
そこで、墓番は用心に用心をして歩いてゆくと、まもなく、マランヴェール路の方角にあたって、かすかな灯影が見えた。
(新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
初めての推参に長居は失礼と、かすかに鳴り渡る浅草寺の鐘の音に、初めて驚いたように伝二郎はそこそこに暇を告げた。
が、日頃ひごろいかつい軍曹ぐんそう感激かんげきなみださへかすかににぢんでゐるのをてとると、それになんとないあはれつぽさをかんじてつぎからつぎへと俯向うつむいてしまつた。
一兵卒と銃 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
落着きもなく手擦てすぎわへ出て庭を眺めたり、額や掛け物を見つめたりしていたが、階下したに飼ってある小禽ことりかすかな啼き声が、わびしげに聞えて来た。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
かすかに聞える伝通院でんずういん暮鐘ぼしょうに誘われて、ねぐらへ急ぐ夕鴉ゆうがらすの声が、彼処此処あちこちに聞えてやかましい。既にして日はパッタリ暮れる、四辺あたりはほの暗くなる。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
不動のなかの動は、その涅槃ねはんへのかすかな誘いなのかもしれない。千三百年間、ついぞ安定を知らなかった現在まで、こうして佇立しているのである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
かすかな薔薇の花片の落る音が耳に入り、また相手も聞いたことを知つて居るのであるから、此の時は歓談も尽きて沈黙が二人を領して居たに違ひない。
註釈与謝野寛全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
私はその境界きょうがいがいかに尊く難有ありがたきものであるかをかすかながらもうかがうことが出来た。そしてその醍醐味だいごみの前後にはその境に到り得ない生活の連続がある。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
やがてまた、そこらの双陸すごろく棋石ごいしに触れるような響きがして、誰かかすかな溜め息をついているようにも聞かれた。
二郎も貴嬢きみもこのわれもみなかの国の民なるべきか、何ぞその色の遠くしてかすかに、恋うるがごとく慕うがごとくはたまどろむごとくさむるがごときや。
おとずれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
うるさい事と思ふにつけ、身の不束が数えられ、これより後のお名折になるまいものかと、何とやら、すまぬ心が致しますると、かすかにいふを打消して。
移民学園 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
ちょっとの間はどこで泣いているのか判らなかったが、それは、彼の真向かいのベッドだった。頭からすっぽり布団を被って、それがかすかに揺れていた。
いのちの初夜 (新字新仮名) / 北条民雄(著)
頼み置て其身は神田三河町二丁目千右衞門店なる裏長屋うらながや引越ひつこし浪々らう/\の身となり惣右衞門七十五歳女房お時五十五歳せがれぢう五郎二十五歳親子三人かすかに其日を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
それから父は、俳諧の歌仙(つけあい)の実例を挙げて、そのかすかな心持や面白味を懇々と説き立てたが、母にはとうとう何のことやら分らなかったらしい。
私の母 (新字新仮名) / 堺利彦(著)
わたしは少女に目をそそいだ。すると少女は意外にもかすかにまぶたをとざしてゐる。年は十五か十六であらう。顔はうつすり白粉おしろいいた、まゆの長い瓜実顔うりざねがほである。
わが散文詩 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
黒い木橋は夢の国への通路のように、かすかに幽かに、その尾を羅のとばりの奥の奥に引いている。そして空の上には、高層建築が蜃気楼しんきろうのようにぼうと浮かんでいた。
猟奇の街 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
余程ひどくなぐられたとみえて、鉄製の巌丈がんじょうなデレッキがかすかに曲りをみせて、その足元にころがっていた。
(新字新仮名) / 楠田匡介(著)
その男、学生を見るよりかすかな声にて、「『だらし』にかかりて困りおるゆえ、搏飯あらば賜れ」という。
おばけの正体 (新字新仮名) / 井上円了(著)