ぬす)” の例文
暫くしてそつとぬすみ見をすると、あの人は如何にもものを内に向いて考へるやうな眼付をして、ぢいつと一つところを見つめて居る。
脱殻 (新字旧仮名) / 水野仙子(著)
枇杷の実はわたくしが始めて心づいたその翌日あくるひには、早くも一粒をも残さず、近処の蝉取せみとりに歩く子供等のぬすみ去るところとなった。
枇杷の花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
それから又足音をぬすんで、梯子段はしごだんを下りて来ると、下宿の御婆さんが心配さうに、「御休みなすつていらつしやいますか」といた。
あの頃の自分の事 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
家のものはそこを通りかかる度に、ちよつとの間をぬすんで、水をやつたり、あたりの雑草をぬいたりして、その成長を助けてやつた。
独楽園 (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
雙喜はあんまり多く取って阿發のお袋に叱られるといけないと思ったので、皆を六一爺さんの畑の方へやってまた一抱えずつぬすませた。
村芝居 (新字新仮名) / 魯迅(著)
お葉は折柄おりからの雨をしのぐ為に、有合ありあう獣の皮を頭から引被ひっかぶって、口には日頃信ずる御祖師様おそしさまの題目を唱えながら、跫音あしおとぬすんで忍び出た。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
勤王にかんか、佐幕に之かんか。時代はその中間においてねずみいろの生をぬすむことをゆるさなかった。抽斎はいかにこれに処したか。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親しげな口を利いたが、些と俯向加減にして立つてゐる智惠子の方をぬすみ視て
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
かかる中にも葉石は、時々看守の目をぬすみて、紙盤しばんにその意思を書き付け、これを妾に送り来りて妾に冷淡の挙動あるをなじるを例とせり。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息ひといきにそこで読み通す訳には行かなかった。私は特別の時間をぬすんでそれにてた。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「今、おまえは、わしの眼をぬすんで、貂蝉ちょうせんへたわむれようとしたな。——わしの寵姫ちょうきへ、みだらなことをしかけようとしたろう」
三国志:03 群星の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
勘次かんじたゞひゞきてながら容易よういめぬあつ茶碗ちやわんすゝつた。おつぎも幾年いくねんはぬ伯母をばひとなづこいやう理由わけわからぬやう容子ようすぬすた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
ランゲナウびとはそれをぬすみ見てゐた。彼はすこしも眠れないでゐたから。彼は心におもつた。「私にはひとつも薔薇がない、ひとつも……」
扉を閉ぢる僅かな時に僕はチラリと空をぬすむ、寒々と白くぼやけた雨雲が僕の額に一杯煙る、死んでもいい、何処へ行くのだか知らないが
海の霧 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
夜間のわずかな時間をぬすんで父母の目を避けながら私の読んだ書物は、いろんな空想の世界のあることを教えて私を慰めかつ励ましてくれた。
鏡心灯語 抄 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
翌年よくとしになり權官はあるつみを以てしよくはがれてしまい、つい死亡しばうしたので、ぼくひそかに石をぬすみ出してりにたのが恰も八月二日の朝であつた。
石清虚 (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安をぬすんで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。
謀叛論(草稿) (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
あの大納言のような好人物の眼をぬすんでそう/\不義なことをするのは、他人は知らず、彼としては何となく気が済まないところもあった。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
くびをすくめながら、くちなかでこうつぶやいた春重はるしげは、それでもつめ煮込にこんでいる薬罐やかんそばからかおはなさずに、雨戸あまどほうぬすた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
また一種私欲なきもの生をぬすむを妨げず(文天祥厓山に死せず生を燕獄に偸む四年これあり)、死して不朽ふきゅうの見込あらばいつでも死ぬべし
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
が、ときどき苦しそうに腰部をさすりながら、児太郎をぬすみ見た。その目の底に燃えるような憎念がたぎりぎらついていた。
お小姓児太郎 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
「心中」と聞いた時少し顏を赤くして極り惡げに一寸細君の顏をぬすみ見たが「矢張り僕自身になるでせう」といつた時目を瞠つて水月を見た。
俳諧師 (旧字旧仮名) / 高浜虚子(著)
伝平は父親の眼をぬすむようにして、他家よその飼い馬の、飼料を採って来てやったり、河へその脚をやしに曳いて行ってやったりするのであった。
(新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
そっと隣りをぬすみ見ると、その人は婆さんがかつて愛していて、四十五年前にもう死んでいるはずの騎士ドーモン・クレーリーであったのです。
そして或る者は嘲笑い、或る者は同情し、恐れた若い女達は、ひそかに彼の方をぬすみ見ながら、小走りに駆ぬけて行った。
日は輝けり (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
隣家の焦黒てふ者壁間よりうかがい知って、門より入り来りその銀をぬすむを、月娥はその夫帰ってわが房に入ったと思いいた。
庸三が一日に何度となく、跫音あしおとぬすむようにして、廊下へ出て行く葉子の動静に気を配ることを怠らなかったのも、一つはそのためでもあった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
はッ! はッ! と肩で呼吸いきづく老婆おさよ、人眼をぬすんでこの小屋のかげに何を掘り出そうとしているのだろう……?
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
ひと如何いかにともよ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易こころやすさをぬすみて、あやし女夫めをとの契をつなぐにぞありける。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
プラトンは慌てゝ、何か自分の服装に間違つた処でもないかと、自分の体をぬすみ視たが、なんにも間違つてはゐない。そのうち長官の考が分かつた。
板ばさみ (新字旧仮名) / オイゲン・チリコフ(著)
「李幕事の訴えによって、その方が邵大尉の庫の中の金をぬすんだ盗賊とまった、後の四十九錠の金はどこへ隠した、包まずに白状するが宜かろう」
蛇性の婬 :雷峰怪蹟 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「奴等は僕が東京文壇で皆の注目をひいて活躍していたことさえ知らないんだよ」そしてちらっと角井の方をぬすみ見て、「無知だよ、全く無知だよ!」
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
人の顔をジロ/\とぬすみ見はするが、決して真面まともには見ず、人に顔を見られる事を臆したやうな風で口籠る如く丁寧な言葉をつかふ此男の様を見ると
ぬすみ出したる五十兩たくへ行れて彼是かれこれと其の事露顯ろけんに及びなば第一養父はかねての氣性きしやう如何成さわぎに成やら知れずと思へば是も我が身の難儀なんぎ屹度きつと思案を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
一時のつけ元気で苦しさをまぎらかしたのも、姑息こそくやすきぬすんでわずかに頭を休めたのも月末という事実問題でひとたまりもなく打ちこわされてしまう。
去年 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
湯加減をぬすんで名刀の名を馳せし刀鍛治左文字の故事を学ぶの最後の智慧を以て、或日は薄暮、或日は暁暗、亦時として通りすがりの様をよそほつて、新八
名工出世譚 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
圭一郎は千登世の目をぬすんで開いて見ると、まだ到底全治とは行かなくとも兎に角に無理して子供が小學校へあがつたといふ分家の伯父からの報知だつた。
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
初めは恐る恐るぬすみ見たが、次第に太田の眼はじっと男の顔にくぎづけになったまま動かなかった。そういわれて見ればなるほどこの癩病患者は岡田なのだ。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
今しがたまで見えた隣家の前栽せんざいも、蒼然そうぜんたる夜色にぬすまれて、そよ吹く小夜嵐さよあらしに立樹の所在ありかを知るほどのくらさ。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
幸いにして少年ブラームスの向学心は、寸暇すんかぬすんで教養を高め、後年の気高い情操、哲学に対する識見などの土台を、艱難かんなんのうちに積み上げたのである。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
女の方でもそんな気がするかして、二人の子供を連れた先客の用を聞きながらも、時々こちらをぬすみ見るようにした。小平太は「はてな?」と小首をかしげた。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
仮令たとい戸外の業務あるも事情の許す限りは時をぬすんで小児の養育に助力し、暫くにても妻を休息せしむ可し。
新女大学 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
悪人を探す為に善人を迄も疑い、見ぬ振をしてぬす、聞かぬ様をして偸みきく、人を見れば盗坊どろぼうと思えちょうおそろしき誡めを職業の虎の巻とし果は疑うにとまらで
無惨 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
甲斐性のない、ひよわな奴めらは、悲しそうな眼つきで他人の寝室をぬすみ見ながら、すこし離れた砂浜の隅に集って、しょんぼりとやもめ暮しをすることになる。
海豹島 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
お高はことし十九になるが、父に倒れられて以来その看護や弟のせわや、こまごました家事のいとまをぬすんで、せっせと木綿糸を繰っては生計の足しにしていた。
日本婦道記:糸車 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
他者に頼って一日の安きをぬすんで、ついに国家百年の災いをのこすに至る。我輩はそれを畏れるのである。
あたかも禁断の果実の味をこっそりぬすみでもするように味わおうと試みたので、私達のいくぶん死の味のする生の幸福はその時は一そう完全に保たれた程だった。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
が、その機會は全く與へられなかつた。醫者や看護婦達の目をぬすむことは出來ても、同じ部屋の他の患者の目と耳をぬすむことは絶對に出來なかつたからであつた。
天国の記録 (旧字旧仮名) / 下村千秋(著)
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりをぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
私は今朝本当に久しぶりに二分間ほど干棚に出てまちの上にかかる青空と遠い山脈の断片とをぬすみ見ましたが、もう春が地上に完全に支配しているのを見て驚いたほどでした。
青春の息の痕 (新字新仮名) / 倉田百三(著)