おもむ)” の例文
短銃の先はおもむろに、お富の胸のあたりへ向つた。それでも彼女は口惜くやしさうに、新公の顔を見つめたきり、何とも口を開かなかつた。
お富の貞操 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
それを想うて深く愧ぢ入る次第であるが、今はおもむろに識者の是正を乞ふ暇を持たないため、遺憾ながら手控のままを印刷に附した。
氏は其処に拠つておもむろに自分を育てつゝ、進んでゆくつもりらしい。しかしながら、私は最後に一つ黙過しがたい事を持つてゐる。
平塚明子論 (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
琅玉はポッと顔をあからめ急に狼狽しはじめた。しかし彼女は次の瞬間には女官らしく威厳を取り返えし此様におもむろに云うのであった。
喇嘛の行衛 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
おもむろに眼を開きたる梅子の視線は、いつしか机上に開展されたる赤紙の第三面に落ちて、父が墨もて円くしるしせる雑報の上をたどるめり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
これは望外のもうけ物。しかしありそうなことでもあるとおもむろにその獲物えものの勘定にとりかかろうとするところへ、裏手で篠竹しのだけのさわぐ音。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
爾時そのとき、優におぼろなる、謂はば、帰依の酔ひ心地ともいふべき歓喜よろこびひそかに心の奥にあふれ出でて、やがておもむろに全意識を領したり。
予が見神の実験 (新字旧仮名) / 綱島梁川(著)
願くは神先づ余に一日のひまを与へて二十四時のあいだ自由に身を動かしたらふく食をむさぼらしめよ。而して後におもむろに永遠の幸福を考へ見んか。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
混乱したものが彼の胸のなかでおもむろに整理されつつあるのだろう。それはある意味で、彼にとってはさし伸べられたすくいの手であった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
それとも私がらずらずに自分の記憶でもってそれを補い出していたのか、いつの間にか一つ一つの線や形をおもむろに浮き上がらせていた。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
かれすぐ自分じぶんちか手拭てぬぐひかぶつたおつぎの姿すがたおもむろにうごいてるのをた。それ同時どうじひそか草履ざうりおと勘次かんじみゝひゞいた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
おもむろにもう一遍口をあけ、ゆっくり舌を出して見せた、その様子を格子の間から見ていたわたしは声をあげて大笑いをした。
鈍・根・録 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
小山はおもむろに席に就き「中川君、非常に面倒で大きに弱ったがやっと今日らちいたよ」とこの一語は天の福音ふくいんとしてお登和嬢の耳に響きぬ。
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
私ははげしい興奮を辛うじて抑制しながら、おもむろに右手をのばして、その光るものの方へ近づけると、私は思わずも彼女の鼻をつかみました。
猫と村正 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
否、しかし虚空のなかへおもむろに流れ込んで行く水の響のようなざわめきたつ事実は、全然彼自身に関係のないことでもない。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
よろい結目むすびめを解きかけて、音楽につれておもむろに、やや、ななめに立ちつつ、その竜の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端にほのかに見ゆ)
海神別荘 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
寒月君は内隠うちがくしから草稿を取り出しておもむろに「稽古ですから、御遠慮なく御批評を願います」と前置をして、いよいよ演舌の御浚おさらいを始める。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
真実をいえば世界の文明の中心理想に縁遠い野蛮性の発揮ではなかったか、というような細心の反省と批判とをおもむろに考える人は少いのである。
婦人と思想 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
じっとこらえて、おもむろに計画をめぐらし、丁度わしが受けたと同じ苦しみを、先方に与えるのが、真の復讐というものだ。
白髪鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
雪に映ずる初日のうるわしさに加えてわが窓の向うなるセラ大寺の広庭には幾羽の鶴がおもむろに歩みつつ幾声となく叫んで居る。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
とにかく彼は沖縄には、もったいない位な大政治家でありました。私は諸君がおもむろに琉球政治家の苦心の跡を追想せられんことを希望いたします。
琉球史の趨勢 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
マットン博士はしずかにフラスコから水をかたをぶるぶるっとゆすり腹をかかえそれからきわめておもむろに述べ始めました。
ビジテリアン大祭 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、まなこも放たず見てありしが、この時おもむろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまにねぶいたはり。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
『これが、わたくし秘密ひみつ製造せいざうしつゝある、海底戰鬪艇かいていせんとうていです。』と、櫻木海軍大佐さくらぎかいぐんたいさおもむろに右手ゆんでげて、その船體せんたいゆびざした。
地平の線には立木の林が陽を享けてすすきの群れのように光っている。翁は地平のかなたの端から、擬した指尖をおもむろに目途めじの正面へとで移して行く。
富士 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
うしろからしのぶようにしていておとこは、そういいながらおもむろに頬冠ほおかぶりをとったが、それは春信はるのぶ弟子でしうちでも、かわものとおっている春重はるしげだった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
今一つ背後のおもむろに消えて行こうとするもの、幸いにしてなお若干の痕跡を留めているものと合わせて、一括してこれを考察するようにしなければ
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
独言ひとりごとのように云いつつ、おもむろに私の顔から視線をらして窓の外を見た。そうして心持ち青白い顔になって、ジッと考え込んでいるようであった。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
同じ仙境というても此処ここは銀髯を垂れた仙人の住む所ではなくして、霓裳げいしょう羽衣の女仙がおもむろに蓮歩を運ぶ花園と称した方が適当であると想われました。
日本アルプスの五仙境 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
しかも、特別この座席には私とて無量な感慨なかるべからずで、つい心もたかぶり、おもむろに両手をひろげ、片足を長鼓の音に合わせてついと後に曲げ
親方コブセ (新字新仮名) / 金史良(著)
紹巴は時〻この公をうた。或時参って、紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。すると、公は他に言葉もなくておもむろに「源氏」とただ一言。
魔法修行者 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りておもむろに身の振り方を定めんものと今度漸く出奔しゅっぽんの期を得たるなり。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
私が私自身になり切る一元の生活、それを私は久しくあこがれていた。私は今その神殿におもむろに進みよったように思う。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
おもむろにこれを修正すべしとの趣意であったけれども、その延期の理由として挙げたる七箇条は、民法を根本的に攻撃した随分激烈な文字であったことは
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
「いや、ここが大事でしょう。まだ東国は源氏一色となったわけではありません。まず、一応お味方も鎌倉へ退いて、おもむろに、地盤を固める必要がある」
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
気持を変えるため、散歩をしながらもし機会があったらおもむろにそれを説こうと、出渋ぶるのを無理に連れだって、わざと遠く千本浜の方へ出かけて行った。
青年僧と叡山の老爺 (新字新仮名) / 若山牧水(著)
一散に先きを目がけて走り出すのだらうとばかり僕は思つて、なんとなく心構へをしてゐたのに、Gは僕を乗せたまゝおもむろに車を元の道に廻すのであつた。
センチメンタル・ドライヴ (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
先頭の彼氏はおもむろにステップを踏みはじめた。五十パーセントの臆病と、五十パーセントの勇気で包みながら。
案内人風景 (新字新仮名) / 百瀬慎太郎黒部溯郎(著)
おもむろに後図こうとを策しても晩くはないと云ふ腹なので、中々あきらめてはゐないのだつたが、でもそんなことは、無論塚本に対してもおくびにも出しはしなかつた。
猫と庄造と二人のをんな (新字旧仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そしておもむろに、衣の袖をきあわせ、瞑目めいもく合掌の後、しずかに水晶の数珠をすりあげ、つぶやくようにひくく
また、おもむろに舟を遣り、やがて鳥島にともづなを繋ぐ。島は周廻幾ばかりもあらぬが悉く岩石の累々たるのみ。
松浦あがた (新字旧仮名) / 蒲原有明(著)
ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずとまつげと睫とが離れて来る。膝が、ひじが、おもむろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの——。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
西へ東へと文壇を指導しておもむろに彼岸に達せしめる坪内君の力量、この力量に伴う努力、この努力が産み出す功労の大なるは誰が何といっても認めなければならぬ。
部屋の隅の菖蒲しょうぶの花を、ぼんやり眺め、またおもむろに立ち上り菖蒲の鉢に水差しの水をかけてやり、それから、いや、別に変った事も無く、あくる日も、その翌る日も
女の決闘 (新字新仮名) / 太宰治(著)
彼は静かにとびらめた。彼女はまたおもむろに夢想にふけった。色せた朝顔の実にさしてる光線のように、息子の微笑みはその夢想に、一条の輝いた反映を投じていた。
最初の無我は、これから益々生の巴渦うづまきの中に突進しやうとしてゐる。そしてそれがその生の意義である。最後の無我は、おもむろに再生を夢みつゝある。死を夢みつゝある。
墓の上に墓 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
「潮の満干みちひを司るのはあの月だとすれば……」——毎日こういう。さておもむろに空を見上げて、まだ出ない月を探す。そして、そのへんと思うあたり、微笑ほほえみを月におくる。
ねじれたクビをおもむろに、もとに戻しながら、そしてそのクビから綿毛を散らしながら逃げて行く。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
夫人の遺骸いがいは、十畳間の中央に、裾模様すそもよう黒縮緬くろちりめん、紋附を逆さまに掛けられて、静に横たわって居た。譲吉は、おもむろに遺骸の傍に進んだ。そして両手を突いて頭を下げた。
大島が出来る話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
暫時しばらくすると先生は底光りのする眼に微笑をたたえながら、軽い咳を一つして、おもむろに云った。
むかでの跫音 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)