むさぼ)” の例文
もしそのあいだ身体からだの楽に出来る日曜が来たなら、ぐたりと疲れ切った四肢ししを畳の上に横たえて半日の安息をむさぼるに過ぎなかったろう。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
私は昨夜の、頭のしびれるような酔い心地を物うく思い出していた。頽廃におもむく瞬間の快よい戦慄を、私はむさぼるように欲望した。
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
それは身体全体が「眠り」をむさぼっているように見えた。煙筒からは煙草の煙よりも細い煙が風のない空に、毛糸のように上っていた。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
私が愛吉の尻押しをして、権門にびて目録をむさぼらんがために、社会に階級を設くるために、弟子のお夏さんに、ねえ竹永さん。……
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「その性狂暴、奢侈しゃしに長じ、非分の課役をかけて農民を苦しめ、家士を虐待し、天草の特産なる鯨油げいゆを安値に買上げて暴利をむさぼり」
足音がまた廊下に響いて、女が飯櫃めしびつを持つて來た頃は、小池もお光も、むさぼつた肉と野菜とに空腹を滿みたして、ぐんにやりとしてゐた。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
けれど、どこかに、餓狼がろうの風貌がある。薄く巻き上がっている腹の中へ、いつ鶏や兎をむさぼり入れようとするか知れたものではない。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
今度こそは、つかのうたた寝を揺り動かされる心配はなく、思うように眠りをむさぼることができるのを喜んで、眠りこくっている。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
門を閉じて客を謝し、独り食に飽きて眠をのみむさぼれば、蟄居の楽しみ全く冬にまさる時はない。冬至の節はわたしの最も好きな日である。
写況雑記 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
向うの隅で、あさの糸つなぎをやっている囚人たちは、絶えず視線をチラリチラリと紙風船の作業場へ送って、こころよ昂奮こうふんむさぼるのであった。
柿色の紙風船 (新字新仮名) / 海野十三(著)
莫大ばくだいな(少くともポリネシアにしては)給料をむさぼりながら、何一つ——全く完全に何一つ——しないでノラクラしている役人共ばかりだ。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
願くは神先づ余に一日のひまを与へて二十四時のあいだ自由に身を動かしたらふく食をむさぼらしめよ。而して後におもむろに永遠の幸福を考へ見んか。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
荘田は、恥しそうに顔をしている瑠璃子の、薄暗の中でも、くっきりと白い襟足を、むさぼるように見詰めながら、有頂天になって云った。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
わたしが赤ちゃんに生湯うぶゆをつかわせて、消毒して病室へつれてゆくと、大急ぎで、むさぼるように赤ちゃんの顔を眺めていらしったわ。
或る探訪記者の話 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
千里眼の方は益々ますます流行を極め、「天下その真偽に惑いかん催眠術者の徒たちまちに跋扈ばっこを極め迷信を助長し暴利をむさぼり思想界をみだる」
千里眼その他 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
そこには、半ばむさぼつつかれた兵士達のしかばねが散り散りに横たわっていた。顔面はさんざんにそこなわれて見るかげもなくなっていた。
渦巻ける烏の群 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
鶴見はここにも歓喜の予感をむさぼり求める。そしてみずからを大虫にして、原始的の泥沼のなかを這い廻ることすらいとわない。
そして、頭を炬燵のやぐらの中へ突つ込み、蒲団をすつぽり被つて、息つまるやうな炭酸瓦斯の香にむせかへりながら、すぱ/\とむさぼり喫つた。
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
寂然しんと更けた纐纈城、耳を澄ませば地下に当って、物の呻くような音がする。人間の血を無限にむさぼる、血絞り機械の音である。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
屍骸しがいの肉をむさぼっていたらしい犬が一匹、不意にくさむらの間から跳び出して慌てゝ何処かへ逃げ去ったが、父はそんなものにも眼もくれなかった。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
けれども大抵この神下しという奴は実に悪い奴で賄賂をむさぼり取ることは非常です。ですから神下しの坊さんには大変な金持があるです。現に
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
そんな無意な生涯なら動物どうぶつでもおくツてゐる。如何いかに何んでも、僕は動物となツてまでもやすさをむさぼらうとは思はないからな!
虚弱 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
暁からやや雨が降ったと見えて、軽い雨滴あまだれの音が、眠りをむさぼった頭に心持よく聞えた。豆屋の鈴の音も湿り気を含んでいた。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
然らずして、いたづらに聞見をむさぼるのみならば、則ち或はがうちやうじ非をかざらんことを恐る。謂はゆるこうに兵をし、たうりやうするなり、おもんぱかる可し。
私は小さいながら浮世のちりを彼方に遠く、小ぢんまりした高踏に安んじ、曇りのない暫時の幸福なり平安なりをむさぼつてゐた。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
菜穂子はこんどは我知らずむさぼるような眼つきで、その青年の震える肩を見入りながら、その傍を大股にゆっくり通り過ぎた。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
こういう小者の末まで、まさに跳梁ちょうりょうしつつあるという苦い思いであった。勝ったものは、家禄を奉還して、代りに開拓地の俸給をむさぼっている。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
夜はしんしんと更けて、いよいよ深みまさり、粘り濃く潤うやみ。無限の食慾をもって降るあられを、下から食いむさぼり食い貪り飽くことを知らない。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
午後五時が過るとすぐ、私たちは、珈琲コーヒを小さい茶碗に一杯と、黒パン半切れの食事をした。私は、パンをむさぼり食ひ、珈琲コーヒ美味おいしく飮んだ。
そして叔父はまた叔父で、処女の肉をむさぼろうという獣慾じゅうよくのために、そうだ、ただその獣慾のために、私を買おうとしたのだ。
学校の昼の休みに赤門あかもん前の友の下宿の二階にねころんで、風のない小春日の温かさをむさぼるのがあの頃の自分には一つの日課のようになっていた。
雪ちゃん (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
一群の鴎が丁度ちょうど足許から立って、鋭い、むさぼるような声で鳴きながら、忙しく湖水を超えて、よろめくように飛んで行った。
女の決闘 (新字新仮名) / 太宰治(著)
一例をあげるならば、私は会社から帰ると、彼女は私のくびにぶら下りながら、むさぼるようにして、私に××するのであった。
犬神 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
ひどく疲れきっていたので、私はこの事がらを十分考えてみることもなく、がつがつとむさぼるように食ったり飲んだりした。
落穴と振子 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
安逸をむさぼる者は、この仕事に堪えることができぬ。工藝は懶惰らんだを許さない。労働のみが豊富な経験とそうして確実な結果とを約束するのである。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
で彼は今、顔を吹く風や、船に当たる波の音や、広い水の面を、むさぼるように眺めた。また両岸の移り変わる光景を眺めた。
すずしい風の来るところを択んで、お福は昼寝の夢をむさぼっていた。南向の部屋の柱に倚凭よりかかりながら、三吉はお雪から身上みのうえの話を聴取ろうと思った。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
あひだかれたゞの一でもやはらかなめしこゝろよくくだしたことがない、勞働者らうどうしやおほむさぼらねばならぬ強健きやうけんなる到底たうていやはらかものところではない。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
彼等三人には、すでにレヴェズをおりの中に発見したような心持がして、その残忍な反応を思う存分むさぼり喰いたいのだった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
彼はそれをS市をすぎて間もなくある小駅に汽車が着いた時に与えられ、汽車中の衆人の環視のなかでがつがつとした思いでむさぼり食ったのである。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
今日の青年はすべからく奮闘一番して不生産的な閑事業や、さなくば投機的の暴利をむさぼり望むが如き悪弊を脱して盛んに新方面に活動してもらいたい。
青年の新活動方面 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
そしていかに大いなる好奇心をもってむさぼるごとくに記録と書翰に向ったかを想像していただけますならば、この概論の主旨は尽きるのであります。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
「僕は念のために専門学校の方を調べて見たが一級俸は矢張り絶無だ。尤も校長はペテン省の棒先丈けに何処でも無為むいにして一級俸をむさぼっている」
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
煙草をとったが、箱の中には一本もなかった、やむなく半身を起こし、灰皿の中から半分ほど喫いかけたのを捜し、火をつけてむさぼるようにふかした。
四年間 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
それから、彼はそのついでにあのみぞの上へ冠さつて居る猫楊ねこやなぎの枝ぶりをつくろうても見た。その夕方、彼は珍らしく大食した。夜は夜で快い熟睡をむさぼり得た。
歴としたうちの飼い犬でありながら、品性の甚だ下劣な奴等で、毎日々々朝から晩まで近所の掃溜はきだめ𩛰あさり歩き二度の食事のほか間食かんしょくばかりむさぼっている。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
眼疾き若猴が漿果多き木を見付けむさぼり食うを見るや否や、上猴どもわれ一と駈け付けてこれを争う、所へ大猿来り、あるいは打ちあるいは毛を引き
「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」——彼はそう思いながら、むさぼるように湖を眺め続けた。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
我が作れる狭き獄室に惰眠だみんむさぼ徒輩とはいは、ここにおいて狼狽ろうばいし、奮激ふんげきし、あらん限りの手段をもって、血眼ちまなこになって、我が勇敢なる侵略者を迫害する。
初めて見たる小樽 (新字新仮名) / 石川啄木(著)
遠慮もお辞儀もなしにむさぼり食らったたたりがたちまちにあらわれ来ったものと知られたが、軍医部は少し離れているので、薬をもらいに行くことも出来ない。
はなしの話 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)