くちびる)” の例文
小さいくちびるを締めるように言って、勝気そうな顔をした女は立って玄関へ行った。その人が帰ってしまってから、みんなは話し合った。
童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
又、成熟した彼女の、目やくちびるや全身のかもし出す魅力を、思い出すまいとしても思い出した。明かに、彼はお木下芙蓉を恋していた。
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
それからガヴローシュは「ぶるる!」とくちびるでうなって、聖マルティヌス(訳者注 中古の聖者)よりもいっそうひどく震え上がった。
……まア、あたじけない! みんんでしまうて、いてかうわたしためたゞてきをものこしておいてはくれぬ。……おまへくちびるはうぞ。
五十人ごじふにん八十人はちじふにん百何人ひやくなんにん、ひとかたまりのわかしゆかほは、すわり、いろ血走ちばしり、くちびるあをつて、前向まへむき、横向よこむき、うしろむき
祭のこと (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
クレヴィンは男のくちびるの泡を見た、倒れた鹿の脣の泡と同じだった。彼は短剣の柄の血をながめた。それは草いちごの汁の泡のようだった。
(新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
おんなにもしてみたいほどのいろしろで、やさしいまゆ、すこしひらいたくちびるみじかいうぶのままのかみ子供こどもらしいおでこ——すべてあいらしかった。
伸び支度 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そのくちびるの上にいつ放すとも知れず自分の脣を押しつけたが、千代子は呼吸をはずませながら、もがきもせずにじっとしていた。
心づくし (新字新仮名) / 永井荷風(著)
静かに宿命を迎へた死骸である。もし顔さへげずにゐたら、きつとあをざめたくちびるには微笑に似たものが浮んでゐたであらう。
インドの「愛経」によると、くちびるのキッスのみで八種あるが、少くもウェートレスは、それ位のことを心得ていて貰いたい。
大阪を歩く (新字新仮名) / 直木三十五(著)
それから口を閉じ、何かをしようか、しまいか、どっちにしようかと思いまどうように、きりりとくちびるを引きしぼりました。
かみさんは薄いくちびるの間から、黄ばんだ歯を出して微笑ほほえんだ。「本当に小川さんは、優しい顔はしていても悪党だわねえ。」
鼠坂 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その時自分はどんな顔をしていたか。もちろん自分で見ることは出来ないが、何しろすこぶる息がつまりくちびるふるえて、頭を動かしていたに違いない。
端午節 (新字新仮名) / 魯迅(著)
くちびるを結んで自ら堪えた。我を失ったのであった。大努力したのであった。今や満身の勇気を振い起したのであった。勇気は勝った。顔は赤みさした。
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
ただ、彼女は人の訪問を喜ぶ。額の上ににゅっと角を持ち上げ、くちびるには一筋のよだれと一本の草を垂らして舌なめずりをしながら、愛想よく迎えるのである。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
我々の右手、かなり離れて、マターファが坐っており、時々彼のくちびるが動き、手頸てくびの数珠玉の揺れるのが見える。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
くちびるだけで軽くくわえようと変なことをしたものですからツルリとすべって、これも下へ落ちてしまいました。
裏切り (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
與吉よきちはにかんだやうにして五りん銅貨どうくわくちびるをこすりながらつてた。かれくち兩端りやうはしにはからすきうといはれてかさ出來できどろでもくつゝけたやうになつてた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
彼女かのぢよはレースいと編物あみものなかいろめたをつと寫眞しやしんながめた。あたかもそのくちびるが、感謝かんしやいたはりの言葉ことばによつてひらかれるのをまもるやうに、彼女かのぢよこゝろをごつてゐた。
(旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
彼女はやっと私の温かい存在をそれに感じでもしたかのように、ちらっと謎のような微笑をくちびるに漂わせた。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
彼女は何んの屈託気くったくげもなく、朗らかに笑っていた。そしてその笑うたびに、色鮮やかに濡れたくちびるの間から、並びのよい皓歯こうしが、夏の陽に、明るく光るのであった。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
少年のくちびるよりも赤く、さうしてやはり薔薇特有の可憐な風情ふぜいと気品とを具へ、鼻を近づけるとそれがかをりさへ帯びて居るのを知つた時彼は言ひ知れぬ感に打たれた。
充血したような赤い顔を仰向け、うすく目を閉ざし腹を波うたせて、喘ぐようにそのくちびるが開いている。
愛のごとく (新字新仮名) / 山川方夫(著)
女性の尻ばかり見て暮す男にとっても、売笑婦の心理的な綺羅きらによって飾られたくちびるから、下腹部にかけてのガリッシュな紅色の部分については特殊な魅惑を感じる。
戦争のファンタジイ (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
豊かな娘のその紅いくちびると心臓の鼓動と、そういうものにも移って行ったが、それは長続せずに消えた。
リギ山上の一夜 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
他の怪物の一つは、鉄の嘴を持ってきて大異のくちびるに当てた。脣はまたそのまま鳥のくちばしのようになった。
太虚司法伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
伏し目に半ば閉じられた目は、此時、姫を認めたように、すずしく見ひらいた。軽くつぐんだくちびるは、この女性にょしょうに向うて、物を告げてでも居るように、ほぐれて見えた。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
何よりもず、その石竹色に湿うるんでいる頬に、微笑の先駆として浮かんで来る、笑靨えくぼが現われた。それに続いて、つつましいくちびる、高くはないけれども穏やかな品のいゝ鼻。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
腰も曲がっていないし、いまだに背は六尺もあるという、くちびるが大きくて、老人のくせに甚だあかい。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その間には人指し指を器械的にくちびるの辺まで挙げてまたおろす。しかし目は始終紙を見詰めている。
田舎 (新字新仮名) / マルセル・プレヴォー(著)
親しめば親しむほど、そばを離さないではないか。あの茶人たちは如何に温かさと親しさとを以て、それをくちびるに当てたであろう。器にもまたかかる主を離さじとする風情が見える。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
外に物欲しげな人間が見ているのを、振り返ってもみずに、面白げに飲んだり食ったりしゃあがる。おれは癲癇てんかん病みもやってみた。口にシャボンを一切入れて、くちびるから泡を吹くのだ。
橋の下 (新字新仮名) / フレデリック・ブウテ(著)
と、ややあつてく。姫は巴旦杏はたんきょうのやうに肉づいた丸いくちびるを、物言ひたげにほころばせたが、思ひ返したのかそのままに無言で点頭うなずいた。アスカムは窓に満ちる春霞はるがすみの空へと眼を転ずる。
ジェイン・グレイ遺文 (新字旧仮名) / 神西清(著)
にらむとこの子はやや眇目すがめになるのだ。弟の方の顔はしだいにくずれて、今にも泣き出しそうな顔になった。しかし泣き出しはしなかった。眼をキラキラさせて、くちびるを噛みしめている。
魚の餌 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
染めたようなゆたかな頬や、読経のために充血したくちびるや、岩間を清水の流れてゆく尼僧の境涯には涙なしには住めまいほどなまめいている。これからどこをまわるのか斑尾の道のほうへいった。
島守 (新字新仮名) / 中勘助(著)
帆村はそういって、心外でたまらぬという風に大きなくちびるをぐっと曲げた。
暗号数字 (新字新仮名) / 海野十三(著)
深い息づかい、れたくちびる、「自然」はまっ暗闇の中にいつくばって、一心に、秘密の物のけはいを偵察していたのだ。ぽたぽたと、ざわざわと、星のひらめきが柔かな、不眠の広野の上に落ち散る。
お絹は唾液だえきがにじんだくちびるの角を手の甲でちょっと押えてこういった。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
押し寄せるたびにくちびるみ、歯をくいしばり、脚を両手でつかんだ。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
与一も面喰めんくらったのだろう、くちびるを引きつらせてピクピクさせていた。
清貧の書 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
ひたすら卓上の罌粟けしくちびるを見詰めてる。
北原白秋氏の肖像 (新字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
くちびるの白くなる夜明け頃まで踊りつゞける。
天満宮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
我が手なり、くちびるに臭ぞ殘る
宿酔 (旧字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
そのくちびるひらききつて
山羊の歌 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
彼女はくちびるをかんだ。何か心のうちで思い惑ってることがあるらしく、躊躇ちゅうちょしてるようだった。しかしついに決心したように見えた。
ムルタはからっぽの蘆をくちびるにあてて吹きはじめた。それは彼がかつて山地で羊を守っている女から聞かされた寂しいやさしい調子であった。
(新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
この金之助きんのすけさんは正月生しょうがつうまれの二つでも、まだいくらもひと言葉ことばらない。つぼみのようなそのくちびるからは「うまうま」ぐらいしかれてない。
伸び支度 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そのまゆは長くこまやかに、ねむれる眸子まなじり凛如りんじょとして、正しく結びたるくちびるは、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽しゅんそうなるを語れり。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
くちびるを押し開き、生きた人間ではとても不可能な程大きな口にして了ったという、その断末魔だんまつまの世にも物凄い情景が、彼の目先にチラついたのです。
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
「神よ、我を罰し給え。怒り給うことなかれ。恐らくは我滅びん」——こう云う祈祷きとうもこの瞬間にはおのずから僕のくちびるにのぼらない訣には行かなかった。
歯車 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)