甲斐かい)” の例文
眼ざといM君がさす方に、深い雪の山、甲斐かい白峰しらね——北岳だそうだ。この国しらす峻嶺は、厳として群山むれやまの後にそびえているのだ。
雪の武石峠 (新字新仮名) / 別所梅之助(著)
彼女は、おそれおののいている夫の腕のなかに倒れかかろうとし、夫は狂気のようにその一撃を避けようとするが、その甲斐かいはない。
私の成功のちょく処までは是非存命でいてもらいたいと思った甲斐かいもなく、困難中にかれたことと、今度また折角苦しい中から
お袋が馬鹿に喜んで、こうして毎日拝んだ甲斐かいがあると云って不動様の掛物の方へ指ざしをしたのだ。そうすると、兄きは妙な奴さ。
里芋の芽と不動の目 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それに甲斐かいの国には、昔から轆轤首がおると申すから、まさしくこれは轆轤首、それなる御僧ごそうの申し立ては、いつわりではござらぬぞ
轆轤首 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
そんなことにならないように、自分ではかなり努力したつもりだったが、その甲斐かいもなく「御学友」にあげられてしまったのである。
桑の木物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
与十という男は小柄で顔色も青く、何年たってもとしをとらないで、働きも甲斐かいなそうに見えたが、子供の多い事だけは農場一だった。
カインの末裔 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
これは到底ちからで歯向っても甲斐かいはあるまい、この倉の中味を説き聴かせ、なだめて帰すほかはあるまいとわたくしは心づきまして
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
クリストフはもう愛すまいとし、恋愛を——しばらくの間——軽蔑けいべつしようとしたが、甲斐かいがなかった。彼は恋愛の爪痕つめあとを受けていた。
「有るでしょうでは、あなたもわざわざ○○さんに御頼まれになって、ここまでいらしって下すった甲斐かいがないではございませんか」
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それが相模さがみ甲斐かい境の山村に入ればいよいよ数多く、その場処も村はずれの石地蔵の傍などに、一定した送り先があったのである。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
甲斐かいの武田信玄など、もう姻戚いんせきよしみなどは顧みていられないように、頻りと策動の気はいが見える。北条家も油断ならない存在である。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これはと大きに驚きあきれて、がさんと力をいだせど少しも離るることなければ、人を頼みて挽却ひきさらしめしも一向さらにその甲斐かいなし。
印度の古話 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
待っていてくださるような気がするの。……もしあの方が本当にこの世にいないとすれば、わたしのような黒鳥くろどりは生きている甲斐かいはないわ
宝石の序曲 (新字新仮名) / 松本泰(著)
………ほんとうに、今夜じゅうで一番印象の深かったのはあの一刻であった。あれを味わっただけでも蛍狩に来た甲斐かいはあった。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
おもうに小児が飼犬を単に白とか赤とか呼ぶごとく、その頃まで天斑駒あまのぶちごま甲斐かいの黒駒など生処と毛色もて呼ぶに過ぎなかったろう。
彼が全く架空の人物であってくれればという空頼そらだのみの甲斐かいもなく、今は行方不明の平田一郎なる人物があったことを報じて来た。
陰獣 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
この夜お登和嬢は一縷いちるのぞみを抱いてねぬ。小山ぬしの尽力その甲斐かいあらば大原ぬしは押付婚礼おしつけこんれいのがれてたちまち海外へおもむき給わん。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
そして維新後に生れた女史は、両親の第四子で二女である。甲斐かいの国東山梨郡大藤村は女史の両親を生んだなつかしい故郷なので。
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
ひるすこしまえから急に小ぶりになって、まだ雪のある甲斐かいの山々がそんな雨の中から見えだしたときは、何んともいえずすがすがしかった。
大和路・信濃路 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
武蔵むさし上野こうずけ下野しもつけ甲斐かい信濃しなのの諸国に領地のある諸大名はもとより、相模さがみ遠江とおとうみ駿河するがの諸大名まで皆そのお書付を受けた。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
なんでもなん千年というむかし、甲斐かい駿河するがさかいさ、大山荒おおやまあれがはじまったが、ごんごんごうごうくらやみの奥で鳴りだしたそうでござります。
河口湖 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
それもほんのつかのことで、胸のなかは再びがらんとしてしまい、何を甲斐かいに生きているのやらつくづく分からなくなる。
可愛い女 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
これだけの景色を見ただけでも種々な難儀をして来た甲斐かいがあると思いました。そうなると何か歌を作ってみたくって堪らないが出ないです。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
次の日曜には甲斐かいへ行こう。新緑はそれは美しい。そんな会話が擦れ違う声の中からふと聞えた。そうだ。もう新緑になっているとかじは思った。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
かの女は水のきよらかな美しい河のほとりでをとめとなつた女である。の川の水源は甲斐かい秩父ちちぶか、地理にくらいをとめの頃のかの女は知らなかつた。
(新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
やがて、小夜の中山、宇津うつの山を越えたとき、遠くに雪を頂いた山が見えた。名を尋ねると甲斐かい白根しらねというのであった。
鎌倉の覇業を永久に維持するおおいなる目的の前には、あるに甲斐かいなき我子を捨殺しにしたものの、さすがに子は可愛いものであったろうと推量おしはかると
秋の修善寺 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
明日あしたからは生きている甲斐かいが無くなります。何卒どうぞ何卒どうぞ後生ですから妾を助けると思って、その銀杏の葉に書いてある字を読まして下さい。ね。ね
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
甲斐かいの国のことですから、山に不足はありません。多過ぎる山のうちのそのどれをえらんでよいかという評議であります。
大菩薩峠:13 如法闇夜の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「私しゃ気の毒でたまらない。実に察しる。これで、平田も心残りなく古郷くにへ帰れる。私も心配した甲斐かいがあるというものだ。実にありがたかッた」
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
その甲斐かいがあって、君が正気に返ったんだから、同じ不思議な現象にしても、これだけはいかにも優しいじゃないか。
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
いでや公判開廷の日には、やまいと称して、出廷を避くべきかなど、種々に心を苦しめしかど、その甲斐かいついにあらざりき。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
しかるに一方では、同じ人間が、イエス・キリストを通じての同胞が、民衆としての同胞が、彼のそばに苦しんでいた。甲斐かいなき苦しみをしていた。
物を思うに疲れては、あてもない散策さまよいに、惜しむも甲斐かいのない死別の哀愁を、振り捨てようとするのでありました。
艶容万年若衆 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
「私は、はかなくもばかげたこの虚栄の市を愛する。私は生涯、この虚栄の市に住み、死ぬるまでさまざまの甲斐かいなき努力しつづけて行こうと思う。」
一生懸命でもう一度声をかけたが、何の甲斐かいもなかった。子供達の素振そぶりには、馬鹿にし切っている色があきらかだった。
果樹 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
「うむ。いくら詮議しても甲斐かいがないから、一応下げたのじゃ。下げておいて、それとなく厳重に眼をつけておる」
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
ここで中部と名づけるのは便宜上、美濃みの飛騨ひだ尾張おわり三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが伊豆いず甲斐かい信濃しなのの九ヵ国を指します。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
人をのろうことについて趣味のある醤買石しょうかいせきと、彼にうまくかつがれているとは知らぬ王老師おうろうしとは、医師の手当てあて甲斐かいあって間もなく前後して、目を覚ました。
妙源 こんな風におびえながら。甲斐かいのない見張りをしているうちには、もうとっくに上って、どこぞ雷にさかれた巌間いわまにでも潜んでいるか知れぬことだ。
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
文武道場の主として民間に覇を称えた者も、水戸長州等東西南北の脱藩士も、地主層出身も、「甲斐かい祐天ゆうてん」事山本仙之助一党のごとき無職渡世流も——。
新撰組 (新字新仮名) / 服部之総(著)
お母さまは御自分では何の甲斐かいがなくてもお父さまの捜索を決して怠られなかったのに、あなたには、お父さまが牢獄の中でまもなく死なれたのだろうか
今日こんにちのごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効果こうかさえぐるを得ば人として生まれ来た甲斐かいありと信じ
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
広茫こうぼうとした穂蓼の草原が、遠く海のように続いた向うには、甲斐かいの山脈が日に輝き、うねうねと連なっている。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
「俺あ、おめえさんの鼻をひつぱたいて相済あひすまんだ。俺の鼻をぶつ叩いて気を晴らしてくだせェ。ぺちやんこ鼻だで、叩いても甲斐かいのねェことだらうけど。」
良寛物語 手毬と鉢の子 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
互いにむつみ合うはおろかの事、かえって交互たがいに傷つけ合い、甲斐かいの武田は越後えちごの上杉、尾張おわりの織田、駿河するがの今川
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
自動車のおとが青山街道にしたかと思うと、東京のN君外三名が甲斐かいの山の写真をりに来たのだ。時刻がおそくて駄目だったが、無理に二枚程撮って帰った。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
太子たいしのおとくがだんだんたかくなるにつれて、いろいろ不思議ふしぎことがありました。あるとき甲斐かいくにから四そくしろい、くろ小馬こうまを一ぴき朝廷ちょうてい献上けんじょういたしました。
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
もっともそれだけ苦労する甲斐かいはあるので、ここで見られる日の出前の空の色の変化と、高層雲の消長とは、ちょっと類例の少ない特殊の美しさをもっている。
黒い月の世界 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)