溝板どぶいた)” の例文
コロッケ屋と花屋の路地を這入はいると、突き当りが叔母の寛子の家で、溝板どぶいたの上に立つと、台所で何を煮ているのか判る程浅い家である。
泣虫小僧 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
女が肩肌抜かたはだぬぎで化粧をしている様やら、狭い勝手口の溝板どぶいたの上で行水ぎょうずいを使っているさままでを、すっかり見下してしまう事がある。
銀座 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
土筆屋つくしやの明りを後に旅立ってしまった。と一緒に万吉も、裏から草履ぞうりを突ッかけて、溝板どぶいたの多い横丁を鼠走ねずみばしりに駈け抜けている。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
子供達は、お涌も時にまじつて、その土蔵の外の溝板どぶいたに忍び寄り、にわかに足音を踏み立てて「ひとりぼつち——土蔵の皆三」と声をそろへてわめく。
蝙蝠 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
老人は溝板どぶいたをドタドタと駈出かけだした。鍋がガチャンとぶつかった音がした。台所からも御新造さんが怒鳴りだした。生徒たちもワーッと声をあげた。
裏の魚屋へいって「おばさん」と呼んでみたが返辞はなく、包を背負った男たちがおせんを突きのけるように、溝板どぶいたを鳴らしながら駆けて通った。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「大變だぜ、八五郎親分。こいつは出來合ひの大變と大變が違ふよ。溝板どぶいたをハネ返して、野良犬を蹴飛ばして、格子を二枚モロに外すほどの大變さ」
思いがけない万歳の声に、靴屋のおじさんは、びっくり仰天したが、ハラハラと涙をこぼし、溝板どぶいたに立ちあがるなり
空襲警報 (新字新仮名) / 海野十三(著)
口々にささやきながら、溝板どぶいたを鳴らして逃げちっていくと、遠のく足音を聞きすました泰軒は、やおら形をあらため
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
その小路の一筋へ、溝板どぶいたを踏んで冬子は入った。右手は高い黒板塀で、左手に、路の中ほどに新しい精巧な格子戸を入れた家の軒に電燈が灯いていた。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
びたは、とつ、おいつ、こんなことを言って、自宅にくすぶって気を腐らせていると、溝板どぶいたを荒々しく蹴鳴らして
大菩薩峠:41 椰子林の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人のそで横町よこちょう溝板どぶいたの上でれ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間になじみが生ずる。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
ある狭い路地を入って、溝板どぶいたの上を踏んで行くと、そこには種々な生活を営む人達が一種の陰気な世界を形造っている。お種は薄暗い格子戸の前に立った。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
而して凡てこの世界の飽くまで下世話なる感情と生活とは、またこの世界を構成する格子戸、溝板どぶいた、物干台、木戸口、忍返しなぞいふ道具立と一致してゐる。
両国界隈 (新字旧仮名) / 木村荘八(著)
利八に教えられて、半七はせまい露路の溝板どぶいたを踏んでゆくと、この二、三日なまあたたかい天気がつづいたので、そこらではもう早い蚊のうなる声がきこえた。
半七捕物帳:30 あま酒売 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
喜多きた食堂しよくだう飮酒のみく。……あのてつぼうにつかまつて、ぶるツとしながら繋目つなぎめいた踏越ふみこすのは、長屋ながや露地ろぢ溝板どぶいた地震ぢしんおもむきあり。あめ小留をやみにる。
大阪まで (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
溝板どぶいた密接くっつき合った井戸流しに足音をかすめて、上り口の障子の中程に紙を貼った硝子がらすの隙からそっと覗くに、四十あまりの女が火鉢の前にただひとり居るだけで
油地獄 (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
すると路地をいって、溝板どぶいたの上を抜け足で渡って来る駒下駄こまげたの音がして又作の前に立ち止り、小声で
あれ三ちやんで有つたか、さても好いところでと伴なはれて行くに、酒やと芋やの奥深く、溝板どぶいたがたがたと薄くらき裏にれば、三之助は先へ駆けて、ととさん、かかさん
大つごもり (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
危なかしい溝板どぶいたを堀田に手をとられながら踏み越えたりして、凡そ、ものゝ二三町も、ぐる/\と同じような軒合ひばかりを歩いた後に、漸く広い電車通りに出た時には
露路の友 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
溝板どぶいたの上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。
本所両国 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
はじかれた煎豆いりまめのように、雨戸あまどそとしたまつろうは、いも一てて、一寸先すんさきえなかったが、それでも溝板どぶいたうえけだして、かど煙草屋たばこやまえまでると
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
それほど、このきらびやかな待合まちあいの通りでは彼の着物がみすぼらしく、溝板どぶいたのような下駄をはいているのであった。誰もかえり見るものもなく、また、知合いとてもないのである。
幻影の都市 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
明神みょうじん華表とりいから右にはいって、溝板どぶいたみ鳴らす細い小路を通って、駄菓子屋のかどを左に、それから少し行くと、向こうに大きな二階造りの建物と鞦韆ぶらんこや木馬のある運動場が見えた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
のっそりはどこまでものっそりで馬鹿にさえなって居ればそれでよいわけ、溝板どぶいたでもたたいて一生を終りましょう、親方様堪忍かにして下されわたしが悪い、塔を建ちょうとはもう申しませぬ
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
投げられた拍子に石ころであばらを打ちやしてね、おまけに溝板どぶいたを蹴上げてあごを叩いたもんでげすから、今見舞いに寄ってみたら、あの気丈なお師匠さんが蒲団をかぶってうんうん唸ってやしたよ。
助五郎余罪 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
さう訊き返す暇もなく、ガタガタと溝板どぶいたを踏む足駄の音が遠ざかつた。
花問答 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
お庄はやがて、堅くてついた溝板どぶいたに、駒下駄こまげたの歯を鳴らしながら、元気よく路次を出て行った。外は北風が劇しく吹きつけていた。十五日過ぎの通りには人の往来ゆききも少く、両側の店も淋しかった。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
五時過ぎの夕日黄色く、溝板どぶいたに、髪床の硝子障子に
浅草哀歌 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
やや遠い露路口で、かすかに溝板どぶいたがきしる音がする。
顎十郎捕物帳:06 三人目 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
返事をきくと、お糸はそれですっかり安心したものの如くすたすた路地の溝板どぶいた吾妻下駄あずまげたに踏みならし振返りもせずに行ってしまった。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「大変だぜ、八五郎親分。こいつは出来合いの大変と大変が違うよ。溝板どぶいたをハネ返して、野良犬を蹴飛ばして、格子こうしを二枚モロに外すほどの大変さ」
前に大溝の幅広い溝板どぶいたが渡っていて、いきでがっしりしたひのきまさ格子戸こうしどはまった平家の入口と、それに並んでうすく照りのある土蔵とが並んでいた。
蝙蝠 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
どんと、治郎吉の胸にぶつかったはずみに、手に持っていた封金を溝板どぶいたのうえに落した。治郎吉は、拾い取って
治郎吉格子 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
眼に見えない手がどこからかぬっと現われて、お北の三つ輪のまげをぐいと引っ掴んだので、きゃっと云ってよろける拍子に、彼女は溝板どぶいたを踏みはずして倒れた。
半七捕物帳:06 半鐘の怪 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
急にあわてだしたチョビ安、お美夜ちゃんを押しのけるように、溝板どぶいたを鳴らして路地へ駈け込みました。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
あれ三ちやんでつたか、さてもところでとともなはれてくに、さかやといもやの奧深おくふかく、溝板どぶいたがた/\とうすくらきうられば、三すけさきけて、とゝさん、かゝさん
大つごもり (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
それさえ頼母たのもしい気がするまで、溝板どぶいた辿たどれば斧の柄の朽ちるばかり、そぞろに露地が寂しいのである。
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
虎ノ門へとって返し、反吐の中を掻廻すと有りましたから悦んで宅へ帰ると、家内の申すには、溝板どぶいたの上へ黄金が落ちてたと申しましたが、大方御前のお出しになった時
梅若七兵衛 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
丁度そこへ表口の溝板どぶいたの方から犬が二匹ばかり電話口の前を廻つて私の腰掛けて居るそばへ来た。
(新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
しかし、こう答えた時の歌麿は、もはや入口のしきいまたいで、路地の溝板どぶいたんでいた。
歌麿懺悔:江戸名人伝 (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
溝板どぶいたの下に三日前から転がっているねずみ死骸しがいにいたるまで、なに一つとして知らないものはないつもりでいるけれど、しかし世の中というものは広く且つ深くて、かずかずのおどろくべきものが
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
溝板どぶいた臭気くさみまじりに
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
返事をきくと、おいとれですつかり安心したものゝごとくすた/\路地ろぢ溝板どぶいた吾妻下駄あづまげたに踏みならし振返ふりかへりもせずに行つてしまつた。
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
その上体を支えて洗い浄められた溝板どぶいたの上に踏み立っている下肢は薩摩さつまがすりの股引ももひきに、この頃はまだ珍しい長靴を穿いているのが、われながら珍しくて嬉しい。
とと屋禅譚 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
お藤が笑ったとき、路地の溝板どぶいたをふんで、行きつ戻りつする多人数の跫音あしおとは、ただごとではありません。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
味噌こし下げてはしたのおあしを手に握つて米屋のかどまでは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足もかじかみたれば五六軒隔てし溝板どぶいたの上の氷にすべり
にごりえ (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
青く塗つた窓際には夏からあるレエスの色のめたのが掛つて居る。十二月らしい光線は溝板どぶいたの外の方から射し入つて、汚点しみの着いた白い布の掛つた食卓の上を照して居る。
(新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
その途端に溝板どぶいたを踏むあしおとが近づいて、隣りのおかみさんに挨拶する男の声がきこえた。
半七捕物帳:02 石灯籠 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
もとより、溝板どぶいたふたがあるから、ものの形は見えぬけれども、やさし連弾つれびきはまさしくその中。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)