あわ)” の例文
二少女はあわてて道を避けようとした。その時、列の中の一人の兵士が、かちゃりと剣を鳴らして二人にわざとらしい挙手の礼をした。
春:――二つの連作―― (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
それでも二つ三つの光芒こうぼうが、暗黒の室内をあわただしくひらめいたが、青竜王に近づいたと思う間もなく、ピシンと叩き消されてしまった。
恐怖の口笛 (新字新仮名) / 海野十三(著)
しかるにその年の九月初旬しょうが一室を借り受けたる家の主人は、朝未明あさまだきに二階下より妾を呼びて、景山かげやまさん景山さんといとあわただし。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
あとではむしいるまでも羞恥はぢ恐怖おそれとそれから勘次かんじはゞかることからつてきた抑制よくせいねんとがあわてゝもきらせるのであつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
となんら変哲もないレヴェズの言動に異様な解釈を述べ、それから噴泉の群像に眼がゆくと、彼はあわてて出しかけたたばこを引っ込めた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
彼女かのぢよ小使部屋こづかひべやまへとほりかゝつたときおほきな炭火すみびめうあかえる薄暗うすくらなかから、子供こどもをおぶつた内儀かみさんがあわてゝこゑをかけた。
(旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
他はみな見苦しくもあわふためきて、あまたの神と仏とは心々にいのられき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ちまもりたり。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あんまりムキになったせいか、急に涙が込み上げて来たのが、自分にも不意討ちだったらしく、福子はあわてて亭主の方へ背中を向けた。
猫と庄造と二人のおんな (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
拝郷五左衛門尉、盛政にこの由を報ずると、「あわてたる言葉を出す人かな、秀吉飛鳥にもせよ十数里を今頃馳せ着け得るものにや」
賤ヶ岳合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
いや、そのときあわてて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生へいぜいから構えができてしまっている。
「ええ」とうなずきながら、ぼくはふいと目頭が熱くなったのに、自分でおどろき、汗をぬぐうふりをすると、あわてて船室に駆け降りました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
「時雨堂なら、よく知っているから大丈夫でございますよ」とすぐにお米がかどを出だしたので、半斎はあわててうしろへ声を送った。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこへテントを片付けて居った人たちがあわてて遣って来て、犬に石をっ付けて追い飛ばしたので犬はことごとく去ってしまった。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
この南九州の熊本市まで、東京からあわただしく帰省してきた左翼作家鷲尾わしお和吉は、三日もつともうスッカリ苛々いらいらしていた——。
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
そのうへに今のやうにちやんと普段から支度がとゝのへてありませんから、たゞこはがつて、あわててばかりゐて、一向だめでした。
拾うた冠 (新字旧仮名) / 宮原晃一郎(著)
たった一人残っていた事務員は、小説家の説明を聞くと、あわてて裏通りに面した部屋へかけつけた。小説家はそのあとに続いた。
警告すると、少年はあわてて向直ったが早いか敏捷に巧いしおに竿を上げた。かなり重い魚であったが、引上げるとそれは大きな鮒であった。
蘆声 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
ナネットはあわてて家の戸締りをする。そして、急いで教会堂に行く。彼女は『あっけらかん』と呼ばれるヴァンサンじじいの戸口の前を通る。
それがあぐらをかいているひざのあいだに落ちたので、取って捨てるまでに、ももすねあわてて叩いたりこすったりしなければならなかった。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
泥公一心これを手早く掻き込むに取り忙ぎ、銭の多寡を論じたり、凶器をもてあそぶに暇なく、集めおわりてヘイさようならであわて去るものだ。
彼の眼は子供のように、純粋な感情をたたえていた、若者は彼と眼を合わすと、あわててその視線を避けながら、ことさらに馬の足掻あがくのを叱って
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
二人はびっくり致しまして、あと退き、女はあわてゝ開き戸を締めて奥へく。の春部という若侍も同じく慌てゝお馬場口の方へげて行く。
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
二人はあわてて学校に出る支度をしているらしいのに、口だけは悠々ゆうゆうとゆうべの議論の続きらしいことを饒舌しゃべっている。やがて
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
某研究所長の話であるが、その研究所員の若い夫人が、回覧板を見てあわてて、研究所の夫君のところへ馳けつけたそうである。
流言蜚語 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
事なし、と思われたお廊下先に、突然あわただしい足音が伝わると、油を取替えにいった茶坊主大無がうろたえ乍らそこにひざを折って言った。
老中の眼鏡 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
しかし、そういう時小心な彼は心の秘密を誰かに覗き見でもされはしないか、という風にすぐにあわてて思い直すのが常である。
霧の蕃社 (新字新仮名) / 中村地平(著)
私はあわてた。男が私の話を聞くことの出来る距離へ近づいたら、もう私は彼女の運命に少しでも役に立つような働が出来なくなるであろう。
淫売婦 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
あわてて飛び出して行って、とにかく色々なことのあとであり変な具合ににやにや照れ乍ら「まあ、あがれ」と言うと、伊豆は一向無表情で
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
……俺はなぜアンナにあわてて飛び出して来たのだろう。なぜ、もっと突込んで姫草の事を白鷹氏に尋ねてみなかったのだろう。
少女地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
主膳はお銀様のかおのぞきました。お銀様は、その時にツイと立ってまた井戸縄へ手をかけると、神尾主膳はあわててそれを押え
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ベユウ(昨夜)の一件はもうグレが回った(発覚した)のかと内心はあわてていたのだが、金原は、呼び出しはあの件ではないはずだと言う。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
はや足音は次の間にきたりぬ。母はあわてて出迎にてば、一足遅れに紙門ふすまは外より開れてあるじ直行の高く幅たきからだ岸然のつそりとお峯の肩越かたごしあらはれぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
彼れは感謝の意を表すため、言葉を口走るよりも先に、大層あわてて私へ握手したが、その掌は一種不快な温さで、不用意な私を痛く驚かした。
ラ氏の笛 (新字新仮名) / 松永延造(著)
あわてて顔をあげた私の眼に、大きな建築の入口の階段かいだんらしいところを急ぎ足におりてゆく着物を着た男のうしろ姿が映った。
親馬鹿入堂記 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
僕はあわてたように起って、三つ四つお辞儀をして駈け出した。御殿のお庭の植込の間から、お池の水が小さい堰塞いせきして流れ出る溝がある。
ヰタ・セクスアリス (新字新仮名) / 森鴎外(著)
と、誰か向ふのあぜを走りながら、叫ぶ者がある。山県はちらと見たが、「あ、僕の家らしい!」と叫んで、そして跣足はだしまゝあわてて飛出した。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
「邪魔らしいですね」とあわてて言った。なぜなら私はこの間その地球儀を思いだして一つの短篇を書きかけたからだった。
地球儀 (新字新仮名) / 牧野信一(著)
突然とつぜん、発車のすずがひびくと痩せた紳士はあわてて太った紳士にもう一度お辞儀をしておいて、例の麦稈帽子をかぶると急いで向き直って歩き出した。
蝗の大旅行 (新字新仮名) / 佐藤春夫(著)
と私と一緒に振り向いた途端自分の噂をしているとも知らず、少年の眼がこちらへ向いているのを見るとあわてて、カウンターの上に顔を伏せた。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
栄蔵はあわてて自分の足を見た。幸ひなことにまだ人間の足をしてゐる。しかし、もううかうか遊んでゐることは出来ない。
良寛物語 手毬と鉢の子 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
「お竜ちゃん、早くいらっしゃいな……」皆に呼ばれて、お竜ちゃんは母にあわててお辞儀をして、私の方は見ずに、皆のところへ帰って行った。
幼年時代 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
だから夕方になって掘り割を越えて来た火に追われてあわてて逃げ出すときには、やっと荷物を出すともう家に火がついているという始末であった。
地異印象記 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
うなると、狼狽うろたへる、あわてる、たしかに半分は夢中になツて、つまずくやらころぶやらといふ鹽梅あんばいで、たゞむやみと先を急いだが、さてうしても村道へ出ない。
水郷 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
襖を開く音がして、あわただしいスリッパの音がしどろもどろに乱れながら遠のいて行った。私は背中に氷をあてられたような気持で天願氏の顔を見た。
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
あわてて駈下りて見ると、縛り上げられた男が、やっと気づいたと見えて、むくむく動き出しているところであった。
睡魔 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
さあ皆が大いにあわててバックをして見たが一生懸命漕いだ勢いでどろに深くい込んだ艇はちっとも後退あとすざりをしない。
競漕 (新字新仮名) / 久米正雄(著)
あわてた平家方は、御所のまわりをがんじがらめに警戒し、一門は六波羅に集って、善後策を協議することになった。慌てたのは、後白河院も同じである。
クニ子も実枝もどうしたのだろうと思っていると、汽船の来る間近になってから、足もとから鳥が立つようなあわて方でカヤノは帰るのだといいだした。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
『罵れ』はチチコフにまで同じような親愛の情を示して、後肢で立ちあがりざま、彼の唇をペロリと舐めたので、チチコフはあわててペッと唾を吐いた。
それとも、ほかに目的があつて、こんな手荒てあらなことをしたのか? さうだ、愚図愚図ぐづぐづしてないで、とにかく警察へ届けよう……いや、あわてちやいかんぞ。
クロニック・モノロゲ (新字旧仮名) / 岸田国士(著)