いと)” の例文
北原はそれを受取って、燈火の方に手をかざして封を切りながら、自分も読み、人も差覗さしのぞくことをいとわぬ形で読んでしまいましたが
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
意気の為めには死をもいとはざりし也。魏徴ぎちようが所謂「人生感意気、功名誰復論」なるものは是れ彼等の血を以て保護せし信条なりし也。
信仰個条なかるべからず (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
謹慎中も同志うち寄って盛んに宇内うだいの形勢を論じて、酒をんで時には夜を徹したものであるけれども、母は少しもいとわれなかった。
青年の天下 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
この家の貧しさをいとうようすが強くなり、ときにはこのような貧しい実家を持つことを恥じるような口ぶりさえみせるようになった。
日本婦道記:風鈴 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
もっと突き進んで行って、血みどろな光景に接したかった。そればかりか、彼は犯罪事件の渦中かちゅうに巻込まれることさえいとわなかった。
一寸法師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
これがためには相手の感情の如きは勿論もちろん、何を犠牲に供するもいとわぬというその心持、その態度そのものが全く神学者のそれである。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
しからばすなわち今の改革者流が日本の旧習をいとうて西洋の事物を信ずるは、まったく軽信軽疑のそしりを免るべきものと言うべからず。
学問のすすめ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
陸中の山村では猟人の名を万治磐司ばんじばんじといい、磐司がひとり血のけがれをいとわず親切に世話をすると、十二人の子を生んだと伝えている。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そうした客商売をしている家にいたころのお銀は、いとわしいような、美しいようないろいろの幻を、始終笹村の目に描かしめていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
女等をんならみな少時しばし休憩時間きうけいじかんにもあせぬぐふにはかさをとつて地上ちじやうく。ひとつにはひもよごれるのをいとうて屹度きつとさかさにしてうらせるのである。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
もおいとひ無くて態々わざ/\と娘のつとめ先までも御連れ下さる御心切御れいの申上樣も御座らぬ迄に有難う存じますると云ふをきゝ三次はかぶりを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
また、僧を金襴きんらん木偶でくと思うている俗の人々がいうのじゃ。われらには、自分の信心を信ずるがゆえに、さような窮屈なことはいとう。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
先に立ちたるは、かち色のかみのそそけたるをいとはず、幅広き襟飾えりかざりななめに結びたるさま、が目にも、ところの美術諸生しょせいと見ゆるなるべし。
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
高い土塀どべいと深い植込とに電車の響もおのずと遠い嵐のようにやわらげられてしまうこのの茶室に、自分は折曲げて坐る足の痛さをもいとわず
銀座 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
話しする声さえ、今はその音が低く、民は日光をいとって暗いかげに集るようである。如何なる勢いが貴方がたをかくはさせたのであるか。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
粗末な食事にも堪え、冬の寒いなかに焚物たきものの乏しいのをもいとわず、熱心にソルボンヌの大学へ通って、物理学の講義を聞きました。
キュリー夫人 (新字新仮名) / 石原純(著)
どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形をいとわず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。
山月記 (新字新仮名) / 中島敦(著)
現在うけ合ひしは我れに覚えあれど何のそれをいとふ事かは、大方お前が聞ちがへとたてきりて、烟草たばこ輪にふき私は知らぬと済しけり。
大つごもり (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
何事をするにも何事を考えるにも、自分が人からいとわれる不具の身であるという観念は、常に息苦しいまでに私の心に付きまとうた。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
宰相の馬車に相乗あひのりが出来る事だつたら市長は鞄となつてもいとはない程だつたので、二つ返事ですぐ承知して、自分の馬車は先へ返した。
人肉じんにくを食とするか如きも我々の習慣しふくわんより言へはいとふ可き事、寧恐る可き事には有れど、野蠻未開國やばんみかいこくの中にはげんに此風の行はるる所有り。
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
ずっと以前に一度、根岸の精神病院に入れられた時のいとわしい記憶がおげんの胸に浮んだ。旦那も国から一緒に出て来た時だった。
ある女の生涯 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ベンヺ おゝ、ロミオ/\、マーキューシオーはおにゃったぞよ! あの勇敢ゆうかんたましひ氣短きみじか此世このよいとうて、くもうへのぼってしまうた。
私は最初、白旗氏に向って、どんな苦労でもする、どんな辛抱しんぼうでもすると言った。今もやはり、それは決していとわないつもりではある。
そこに彼は、目近にながめたいとうべきできごとから圧伏されたかのようになって、ほとんど考えることも動くこともできなかった。
「あなたと唯二人きりで靜かな離れ島にゐられたなら、困難も危險もいとはしい記憶も私からなくなつてしまつてゐられたならと思ふ。」
またそれはへいとふべし、然れどもこれを花片はなびらの場合と仮定せよ「木の下はしるなますも桜かな」食物を犯すは同一おなじきも美なるがゆゑに春興たり。
醜婦を呵す (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
而して己れのみは身を挺して免れたる者の、他に対する憐憫れんびんと同情は遂に彼をして世をいとひ、もしくは世を罵るに至らしめざるを得んや。
「電車にも乗らないで……ひとに姿を見られるのがいとわしいのだろうか、前科者の怯目ひがめを自分から遠慮してかかっているのか?」
流転 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
あはれむだらうか? いとふだらうか? それともまた淺猿あさましがるだらうか? さうしてあの可憐いぢらしくも感謝かんしや滿ちた忠實ちうじつ愛情あいぢやう
(旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
マリーがあたりが暗くなってしまうまでルール関門の淋しい森のなかに一緒にいることをいとわぬくらい、彼女に深く信頼されているのだ。
車夫たるをいとうものが決してないようになるだろうと言ったが、学者もまたその通りで、とにかく学者を鄭重にすることをせねばならぬ。
教育の目的 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
おもふに、ひとちれ演場しばゐ蕭然さみしくなるいとふゆゑなるべし。いづくにかいづる所あらんとたづねしに、此寺の四方かきをめぐらして出べきのひまなし。
木の枝に腰をかけたり、怪しいことばかりがあるのだからなあ……普通なみの人間の分け入るのを、いとっているのだよ、この森はな。
神秘昆虫館 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
と話をして居る処へ帰って来たのは、此の村の人で、年齢とし二十二三になる男で、尻を端折はしょり、寒さをもいとわずスタ/\帰って参り
あさましき香の口より出来りける、とあるが、それは実に誰もが想像し兼ねるほどのいとわしい、それこそ真にあさましい香であったろう。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
そんなすがすがしい気分のためには、その人は自分の下着の最後の一枚までぬいで、他人に投げ与へることもいとはないでせう。
死児変相 (新字旧仮名) / 神西清(著)
そうして、私はそれを自分でも知っていたので、身から出たさびだと思って自分の不幸に黙って忍従し、また明らかに無鉄砲にいとってもいた。
女はそれからうえ云うのをいとうように口をつぐんだ。父親はふと伯父おいおかへあがって道楽でもするのであるまいかと思った。
参宮がえり (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
私はそれを恐れいとふやうに、また美しくも忘れがたい印象を自分の胸裡きようりに守るやうにして、妹の待つ湯の川の宿へと急ぎかへつた。
処女作の思い出 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
如何いかに遊びの身とは申せ、千里の山河もいとはいで、この沙漠までまかり下つたを、さりとはきよくもない御方かな。」と申した。
きりしとほろ上人伝 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
兄の気持を察すると、弟の童貞で魅惑的な肉体を、自分が心を寄せかけてゐる若い娘に見られることはねたましくいとはしかつた。
過去世 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
鶴見はここにも歓喜の予感をむさぼり求める。そしてみずからを大虫にして、原始的の泥沼のなかを這い廻ることすらいとわない。
前の「我をいとふ」の句と共に、蕪村の侘しい生活環境がよく現われている。ユーモラスであって、しかもどこか悲哀を内包した俳句である。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
またオースチンの癖として、自己の新理論を読者の脳中に深く刻み込もうと思う熱心の余りに、重複をもいとわず、同一事を幾度も繰り返し
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
少し手をかけて精製しておけば牛の脂でも鳥の脂でも豚の脂でも皆んな料理に使えます。何でも手をかけるという事をいとってはいけません。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
猴を馬厩うまやつなぐ事については柳田君の『山島民譚集』に詳説あり、重複をいといここにはかの書に見えぬ事のみなるべく出そう。
茶に、黒に、ちりちりに降るしもに、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕あさゆうに頼み少なくなぐ。冬は五年の長きをいとわず。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
クロポトキンが属していた(クロポトキン自身はそうであることをいとったであろうけれども、彼が誕生の必然として属せずにいられなかった)
宣言一つ (新字新仮名) / 有島武郎(著)
が、妻は母親のすすめる食事をいとうように、わずかに二箸ばかり手をつけるだけだった。電灯のあかりの下に、すべてが薄暗くふるえていた。
美しき死の岸に (新字新仮名) / 原民喜(著)