わび)” の例文
越前ゑちぜん武生たけふの、わびしい旅宿やどの、ゆきうもれたのきはなれて、二ちやうばかりもすゝんだとき吹雪ふゞき行惱ゆきなやみながら、わたしは——おもひました。
雪霊記事 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
旅館もあるし、洗濯屋せんたくやもあった。町の四辻に写真屋があり、その気象台のような硝子の家屋に、秋の日の青空がわびしげに映っていた。
猫町:散文詩風な小説 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
言い知らぬわびしさが襲いかかり、死の幻想に浸るのだったが、そうした寂しさはこのごろの彼女の心に時々い寄って来るのだった。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
このわびしい冬籠りの中で、岸本の心はよく自分の父親の方へ帰って行った。しきりに彼は少年の頃に別れた父のことが恋しくなった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そのうちにだんだんわびしくなり、少々やり切れなくなってきたところへ、こんどは『すみれ』の久美子が現われたというわけなのでした。
Sの背中 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
私の気持は、段々とわびしくなっていった。まだ明日あすという日もあるものをと、自分をしかってもみた。しかし侘しさは消えなかった。
大脳手術 (新字新仮名) / 海野十三(著)
梅雨つゆ降りつゞく頃はいとわびし、うしがもとにはいと子君伯母おば二処にしょ居たり、君は次の間の書室めきたるところに打ふし居たまへり。
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
筵を叩く音と行々子の声とも、やかましい点では多少共通するかも知れぬが、似ているということは出来ない。わびしい趣が感ぜられる。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
たのみつる君は、此の国にては一一六由縁ゆゑある御方なりしが、人のさかしらにあひてしる所をも失ひ、今は此の野のくまわびしくて住ませ給ふ。
今は極度にわびしい須磨すまの人たちであった。今日までのことも明日からのことも心細いことばかりで、源氏も冷静にはしていられなかった。
源氏物語:13 明石 (新字新仮名) / 紫式部(著)
わびしい山里の武家屋敷の中には、そういう横暴な家老もあれば、また腰元や僧侶がなかったとは、一概には言えぬような気もするのです。
棚田裁判長の怪死 (新字新仮名) / 橘外男(著)
あやしや三らう便たよりふつときこえずりぬつには一日ひとひわびしきを不審いぶかしかりし返事へんじのち今日けふ來給きたま明日あすこそはとそらだのめなる
五月雨 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
甲斐は久方ぶりで、孤独と、ものわびしさを楽しんだ。二月といっても、みちのくは春がおそく、夜になると、まだ寒さはかなりきびしい。
壇の浦で入水するところを、源氏の兵に救い上げられ、京に帰った建礼門院は、昔とはうって変ったわびしい生活を続けていた。
先日のように目前の眺めが英文の新な材料として目に映らず、永の年月自分を押籠めた牢屋ろうやの壁か何かのようにわびしく見えた。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
東山遊覧人などが、ぞろ/\と坂を上下する其の間を、水桶を担つてよち/\と坂を上つて居る私自身の姿を、私は子供心にもわびしく眺めた。
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
ふと見ると、赤銅しゃくどうのような色をした光芒ひかりの無い大きな月が、おほりの松の上に音も無く昇っていた。その色、そのかたち、その姿がいかにもわびしい。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
そのときまで百余日の長い間、私はじつにわびしい、淋しい日を送っていたのでした。私は孤独というものを人間の純なる願いとは思いません。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
その自分の姿が、いかにも不幸で孤独こどくわびしげな一個の若者といった格好かっこうなので、しまいには、我と我が身がいじらしくなってくるのだった。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
「そう仰せられるのを伺いますと何とのう、この世がわびしゅうもなりますが、しかし浮世と申せば、よろず、止むを得ぬ儀とも思われますな」
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
茶道と日本精神、わびの心境、茶道の起原、発達の歴史、珠光、紹鴎、利休の茶道。なかなか茶道も、たいへんなものだ。
不審庵 (新字新仮名) / 太宰治(著)
そこはわびしい稲田と松並木の南にあった。扇ヶ谷おうぎがやつ泉ヶ谷いずみがやつなどと呼ぶ山間やまあいの湿地と同じだった。頼朝は甚だ自分の想像と違っていたらしい面持おももち
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
セエラはまるまるとしたアアミンガアドが赤いショオルにくるまっているのを見るだけでも、わびしい部屋が少し温まるようでうれしかったのでした。
そして九月の下旬に山を下りて紀伊から大阪の方の旅に二、三日を費やして、わびしい秋雨模様の、ある日の夕ぐれに、懐かしい京都のまちに入ってきた。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
お互にはんたいのくらやみに向いていて、骨にしみるような雨の音をわびしく聞き入りながら次第に何か話したいような妙な経験したことのない状態にいた。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
その時、この殺気に充ちた陰気な室の空気をゆすぶって、古風な経文歌モテットを奏でる、わびしい鐘鳴器カリリヨンの音が響いてきた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
雨のゆふぐれは殊にわびしかつた。Kのをぢさんも或大名屋敷の門内に住んでゐたが、おそらく其の昔は家老とか用人とかいふ身分の人の住居であつたらう。
半七捕物帳:01 お文の魂 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
わたくしかくれていたところ油壺あぶらつぼせま入江いりえへだてた南岸なんがんもりかげ、そこにホンのかたばかりの仮家かりやてて、一ぞく安否あんぴづかいながらわびずまいをしてりました。
クニ子と二人きりになると、無駄口さえもあまりきかないほど、もそっとしたわびしいほどの毎日がつづいた。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
大風おほかぜぎたるあと孤屋ひとつやの立てるが如く、わびしげに留守せるあるじの隆三はひとり碁盤に向ひて碁経きけいひらきゐたり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
頭の往った方はとこになっているが、そこも亀裂ひびの入ったきいろな壁土かべつちわびしそうに見えるばかりで、軸らしい物もない。見た処どうしても空家としか思われない。
指環 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
僕は僕自身のこの言葉にひどく英雄的えいゆうてきになったが、彼女には、それがどんなにかわびしくこたえたのであろう。
魚の序文 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
私にとって、女体の不完全な騒音は、助平根性をのぞけば、わびしくなるばかりだから。淫楽は悲しい。いな、淫楽自体が悲しいのではなく、我々の知識が悲しい。
二十七歳 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
白痴の心にもお蘭が自分から失われ、自分は全く孤立無援こりつむえんで世の中に立つわびしさがひしひしと感じられた。現われて来る眼に見えぬ敵を想像して周章あわてはてた。
みちのく (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
小家のわびしい物のも、源を辿たどればこの木の御器ごきのなげきであった。その中へ米ならば二ごうか三合ほどのあたいをもって、白くして静かなる光ある物が入って来た。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
世間では最も楽しい時と聞く晩餐時ばんさんどきさえいかめしい父に習って行儀よく笑い声を聞くこともなく終了おしまいになってしまう音楽のない家のわびしさはまた私の心であった。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
「まあ止そうよ」と急にわびしく答えた。そうして「時に小六はいつから来る気なんだろう」と聞いた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
朧月夜おぼろづきよにしくものぞ無き、という歌なんどは宜いが、雪まじり雨の降る夜の露営つづきは如何に強い武人であり優しい歌人でありわびの味知りの茶人である氏郷でも
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
民家でこれはと思う風情をそなえたものはむろん一軒もない。不空院の門前から新薬師寺の東門を望むあたりの築地は古さびていいが、あまりに小さくわびしすぎる。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
それは通り過ぎて行く、ここの物蔭に立って見つめている、ショパンのわびしい姿には気がつかずに。
二十歳のエチュード (新字新仮名) / 原口統三(著)
雨戸を半ば閉めたわびしい室で、ただ二人で食卓につきながら、高い声をするのもはばかり、急いで食事をし、顔を見合わすことも避けて、心痛の情を隠そうとばかりしていた。
成程郷里の平壌には愛する老母が殆んど独りきりでわび住居している。母はむろん、方々へ嫁いだ心美しい姉達や妹達、それから親族の人々も私の帰りを非常に悦んでくれる。
故郷を想う (新字新仮名) / 金史良(著)
彼は感動して、ものわびしく、かるい悔恨をおぼえるのだった。思えばあの二度ともう逢う折りもない若い女性も、自分と一緒にいるあいだ幸福とは言えなかったではないか。
南湖の手前で少しく川に沿うて堤の上をゆく。咲き残りの月見草がわびしげに風に動いている。柳はびた色をしてこれも風になびいている。ちょっと景色のよいところだと思うた。
白峰の麓 (新字新仮名) / 大下藤次郎(著)
彼はただ何とも言われないわびしさと寂寥せきりょうとを感じて、とぼとぼと街の上を歩いていた。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
部屋の一体の感じが極めて荒涼ドレアリーであったように記憶する。どうせこういう種類の下宿屋住居で、そうそう愉快な室もないはずであるが、しかし随分思い切ってわびしげな住まいであった。
中村彝氏の追憶 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
その酒を飲んでいる間だけが痛苦が忘れられたが、暁方あけがた目がさめると、ひとりでにうめき声が出ていた。装飾品といって何一つない部屋の、昼もつけ放しの電灯のみが、わびしく眺められた。
死児を産む (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
雨のしとしとと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいとちょいとの声も途絶えがちになると、家の内外うちそとむらがり鳴く蚊の声が耳立って、いかにも場末の裏町らしいわびしさが感じられて来る。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
わびしき山里の夜は更けて、隣家の馬のゴト/\と羽目板を蹴る音のみが聞えた。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)