一抹いちまつ)” の例文
たまたま記憶の眼に触れる小さな出来事の森や小山も、どれという見分けの付かないただ一抹いちまつの灰色の波線を描いているに過ぎない。
厄年と etc. (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
笏は、何ごとかを言おうとしたが、童子はものをも言わずにしゃがみ込んだが、すぐ一抹いちまつの水煙を立てると、その水田の中へ飛び込んだ。
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
すると紅の暗さに、一抹いちまつの明るみが差したかのように、血の流れた下から、見るも鮮やかな淡紅とき色をしたものが現われたのである。
地虫 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
それに何故また自分はその武器を手にした悪人のことなど考えるのだろうか。ひやりと一抹いちまつの不安を覚えるのはどうしたことだろうか。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
時経て、過去の夢となり、人間業のうたかたとなった後、それを振返ると、義仲的な驕慢きょうまんにも一抹いちまつの稚気のあわれさは覚えさせられる。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
弾くとかん/\と音がしそうな都の寒空の内側にもどうやら一抹いちまつのやわらかいぬめりがしとるようになって来るのに出会いました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
ただあるがまま……ただ一抹いちまつの清い悲しい静けさ。葉子の目はひとりでに閉じて行った。整った呼吸が軽く小鼻を震わして流れた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
竜之助も、それを拒む由はないが、喜んで出て行ったお雪のあとに、一抹いちまつの淋しいものの漂うのに堪えられない気持がしました。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
一抹いちまつの美しさがその十六歳の顔の上に漂っていて、冬の日の明け方恐ろしい雲の下に消えてゆく青白い太陽のように見えていた。
老人のすがたは若者のの前で、だんだんうすれはじめ、一抹いちまつのもやのようなものとなり、やがて肉眼にくがんにはみえないものになってしまった。
おしどり (新字新仮名) / 新美南吉(著)
それは青空に一抹いちまつの黒雲を望み見て、雨の襲来をおそるる旅人の心と同じ虞れであって、心より払わんとするも払い得ない一種の雲影であった。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
ただそれが閑子には一抹いちまつのひっかかりを覚えさえさせてはいるものの、離婚の大きな理由ではなかったとミネは思うからだ。
妻の座 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
わかりませんでしたがしかしいつこの町がどんな事になるのかわからない不安の中に、何か一抹いちまつの安らかな思いが湧き上って来たのであります。
蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ (新字新仮名) / 河井寛次郎(著)
「もうこれでよし」と、自信ありげに、ひとつぶやいた。ややあって、陳君の屍骸の白蝋はくろうのような顔に、一抹いちまつの血がのぼると
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
「いよいよだめだね」と柳はいった、平素温和なかれに似ずこの日はさっと顔をめて一抹いちまつ悲憤の気が顔にあふれていた。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
空の一抹いちまつ樹木の一点、背景の一筆の触覚はことごとく個人の一触であり一抹であらねばならなくなってしまったのである。
油絵新技法 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
歌麿の裸体画には解剖の根柢完全に具備せられたれどその一抹いちまつ一団いちだんうちに節略せられたる裸形は書体風カリグラフィックの線によりてすべて局部の細写さいしゃを除きたるがため
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
この恨みは初め一抹いちまつの雲のごとくわが心をかすめて、瑞西スイスの山色をも見せず、伊太利イタリア古蹟こせきにも心をとどめさせず、中ごろは世をいとい、身をはかなみて
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
二本松のあたり一抹いちまつの明色は薄墨色うすずみいろき消されて、推し寄せて来る白い驟雨ゆうだち進行マアチが眼に見えて近づいて来る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
湿うるおえる燄は、一抹いちまつに岸をして、明かに向側むこうがわへ渡る。行く道によこたわるすべてのものを染め尽してやまざるを、ぷつりとって長い橋を西から東へける。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
どこか一抹いちまつの哀愁のようなものが漂っており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。
大和路・信濃路 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、此の女性もしとやかに席を離れて死者のため一抹いちまつの香をいた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
夕映えの空に、遠鳴りのような下町のどよめきが反響こだまして、あわただしいなかに一抹いちまつの哀愁をただよわせたまま、きょうも暮れてゆく大江戸の一日だった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲ときのぼる、ちりの中のただ一抹いちまつも、かみの子のほめたもうた、せいなる百合ゆりおとるものではありません
めくらぶどうと虹 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
いつまでも座に一人でいてつれづれな源氏は、夫人との間柄に一抹いちまつの寂しさを感じて、琴をかき鳴らしながら、「やはらかにる夜はなくて」と歌っていた。
源氏物語:08 花宴 (新字新仮名) / 紫式部(著)
残念ながら、咄々先生の言葉は、これ以上録音することが不可能の事態とは相成あいなった。なぜなれば、咄々先生の舌が、一抹いちまつの煙と化してしまったからである。
君等は直ぐ左様さう云ふからこまる——今迄篠田君の身辺まはりには一抹いちまつ妖雲えううんかゝつて居たのだ、篠田君自身は無論知らなかつたであらうが——現に何時いつであつたか
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
私は写真版によって拝見しただけであるが、たっぷりした力づよい筆致のうちに、一抹いちまつの稚拙美もうかがわれ、皇后の鷹揚おうような御性質が偲ばれて興味ふかかった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
八代海はすでになかば以上ぼかされてかすみと海の見界みさかいはつかない。この霞の海の荘厳さはこれを何にたとえよう。それはただ一抹いちまつにぼかされた霞の海であるだけではない。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
遼陽城外、すべて緑楊りょくようの村である。秋雨あきさめの晴れたゆうべに宿舎のかどを出ると、斜陽は城楼の壁に一抹いちまつ余紅よこうをとどめ、水のごとき雲は喇嘛ラマ塔をかすめて流れてゆく。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それにもかかわらず、かれは病んで、自家の屋根の下で、無事に死んで行った。皮肉といえば皮肉である。そう思ってみて、鶴見は一抹いちまつの寂しさを感ずるのである。
なんとなく一抹いちまつの幽気も感ぜられるのであったが、見た眼には別段屋根にペンペン草も生えていず
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
庸三はすれすれに歩いている葉子をなじった。一抹いちまつ陰翳いんえいをたたえて、彼女の顔は一層美しく見えた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴あいつまた白墨一抹いちまつに価するんじゃから。」
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あなたも、もしかしたらと、一抹いちまつの不安を感じていることが、あたしにはよくわかったのよ
断崖 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
今までの悲哀ひあいや苦痛はもとより其によツて少しもげんぜられたといふわけではないが、蔽重おつかさなツたくもあひだから突然とつぜん日のひかりしたやうに、前途ぜんと一抹いちまつ光明くわうめうみとめられたやうに感じて
虚弱 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
新聞で見ると、当局も毛沼博士の死因については一抹いちまつの疑惑を持っているらしいのだ。
血液型殺人事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
のぞみありげな勧説かんぜいにも一抹いちまつの疑いを持ち、不安にかられる心情を無視出来ますまい、阿賀妻さん、身どもせんえつ至極ながらえて云いますが、われら今そのわかみちに来ておる
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
それでも一抹いちまつの濃い靄はなお白くその辺を逍遥さまようていた。これが由布院村であった。
別府温泉 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
これは村正の刀があまりによく切れすぎるのと、その刀相に一抹いちまつの妖気が見られるところから、いつだれがこしらえたともなくこしらえた伝説で、ほんとうの因縁いわれは、徳川の始祖
ですからわたくしは、何処どこに往っても、樹の有る処、花の有る処、乃至ないしは黙々と口噤くちつぐむ石、空を一抹いちまつの雲の有るところでは、決して自分がたった独りでいるのだとは思いはしないのです。
われわれはなおそこに一抹いちまつの憂慮を消し去るわけにはゆかないのである。
日本文化と科学的思想 (新字新仮名) / 石原純(著)
しかし何よりも驚くべきはその美しい色艶いろつやで、燃え立つばかりに紅かったが、単に上辺うわべだけの紅さではなく、底に一抹いちまつの黒さを湛えた小気味の悪いような紅さであり、ちょうど人間の血の色が
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
調子は道化どうけておりますが、顔に漂う一抹いちまつの哀愁は覆うべくもありません。
やうやう昇れる利鎌とかまの月は乱雲らんうんりて、はるけこずゑいただきしばらく掛れり。一抹いちまつやみを透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割かたわれとは、ものうく寝覚めたるやうに覚束おぼつかなき形をあらはしぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
しかし君子にはまだ一抹いちまつの疑いが残っていた。ほんとうに未亡人おくさんが母を殺したものかどうかなお的確に知りたいと思ったし、ほんとうに殺したものなら生きながら少しは苦しんでもよいはずである。
抱茗荷の説 (新字新仮名) / 山本禾太郎(著)
漂泊の姿そのもののように、一抹いちまつの旅愁を引くのに充分であった。
火と氷のシャスタ山 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
ある日、虚無の胸のかげの 一抹いちまつ
秋の瞳 (新字旧仮名) / 八木重吉(著)
一抹いちまつの寂しさから免れなかった。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
からすうりの花は「花の骸骨がいこつ」とでもいった感じのするものである。遠くから見ると吉野紙よしのがみのようでもありまた一抹いちまつの煙のようでもある。
からすうりの花と蛾 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)