“一抹:いちまつ” の例文
“一抹:いちまつ”を含む作品の著者(上位)作品数
寺田寅彦12
吉川英治8
中里介山4
ヴィクトル・ユゴー3
夏目漱石3
“一抹:いちまつ”を含む作品のジャンル比率
芸術・美術 > 芸術・美術 > 芸術史 美術史60.0%
文学 > フランス文学 > 小説 物語5.8%
文学 > 日本文学 > 小説 物語1.3%
(注)比率=対象の語句にふりがなが振られている作品数÷各ジャンルの合計の作品数
薄暗い本堂で長い読経どきょうがあった後、彼も列席者の一人として、一抹いちまつの香を白い位牌いはいの前にいた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、此の女性もしとやかに席を離れて死者のため一抹いちまつの香をいた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
もういい……誤解されたままで、女王は今死んで行く……そう思うとさすがに一抹いちまつの哀愁がしみじみと胸をこそいで通った。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
ガラッ八はペロリと舌を出しました。調子は道化どうけておりますが、顔に漂う一抹いちまつの哀愁は覆うべくもありません。
一抹いちまつのにぎやかさがどういう困苦のなかにいても、いつも笑いを見せる筒井らしいついの美をとどめるに似ていた。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
庸三はすれすれに歩いている葉子をなじった。一抹いちまつ陰翳いんえいをたたえて、彼女の顔は一層美しく見えた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
偏光を生じるニコルのプリズムを通して白壁か白雲の面を見ると、妙なぼんやりした一抹いちまつ斑点はんてんが見える。
錯覚数題 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
空の一抹いちまつ樹木の一点、背景の一筆の触覚はことごとく個人の一触であり一抹であらねばならなくなってしまったのである。
油絵新技法 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
「いよいよだめだね」と柳はいった、平素温和なかれに似ずこの日はさっと顔をめて一抹いちまつ悲憤の気が顔にあふれていた。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
曹洪も、そこまでいわれては、自分が戦って見せるか、彼の乞いを許すしかない。しかし、なお一抹いちまつの不安を抱いて、
三国志:09 図南の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
竜之助も、それを拒む由はないが、喜んで出て行ったお雪のあとに、一抹いちまつの淋しいものの漂うのに堪えられない気持がしました。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
最初は、周囲の情景に一抹いちまつの淋しさを感じたのが、ここに至って、対人的にお雪ちゃんは、全く嬉しくさせられてしまいました。
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
前途ぜんと一抹いちまつ光明くわうめうみとめられたやうに感じて、これからの自分の生活というものが
虚弱 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
一抹いちまつの美しさがその十六歳の顔の上に漂っていて、冬の日の明け方恐ろしい雲の下に消えてゆく青白い太陽のように見えていた。
配するに万全を期しているが、敵方の兵数をはかるとき、光秀はなお一抹いちまつの弱味をいだかずにいられなかった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
弾くとかん/\と音がしそうな都の寒空の内側にもどうやら一抹いちまつのやわらかいぬめりがしとるようになって来るのに出会いました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
翠微すいびかん一抹いちまつの煙がある——煙の下にはきっと火がある、火の近いところには人があるべきものにきまっています。
大菩薩峠:05 龍神の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
たまたま記憶の眼に触れる小さな出来事の森や小山も、どれという見分けの付かないただ一抹いちまつの灰色の波線を描いているに過ぎない。
厄年と etc. (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
背景には、日蔭の山肌が、壮大な陰影をたたんで、その黒と、湖面の銀と、そして山と湖との境に流れる、一抹いちまつ朝霞あさがすみ
湖畔亭事件 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
何の苦心もなく一抹いちまつしたかのような墨画すみえかぶらであったが、見入っていると、土のにおいが鼻をつくばかり迫って来る。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ああ靄はもう晴れている」と落胆した。それでも一抹いちまつの濃い靄はなお白くその辺を逍遥さまようていた。これが由布院村であった。
別府温泉 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴あいつまた白墨一抹いちまつに価するんじゃから。」
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
とかくするうち東の空白み渡りてあかね一抹いちまつと共に星の光まばらになり、軒下に車の音しげくなり、時計を見れば既に五時半なり。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
すると紅の暗さに、一抹いちまつの明るみが差したかのように、血の流れた下から、見るも鮮やかな淡紅とき色をしたものが現われたのである。
地虫 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
このまとまらない考察の一つの収穫は、今まで自分など机上で考えていたような楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹いちまつの懐疑である。
災難雑考 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
だから「危難の海」に現われたこの小さい白点はくてんは、月世界の無人境説むじんきょうせつの上に、一抹いちまつ疑念ぎねんを生んだ。
月世界探険記 (新字新仮名) / 海野十三(著)
笏は、何ごとかを言おうとしたが、童子はものをも言わずにしゃがみ込んだが、すぐ一抹いちまつの水煙を立てると、その水田の中へ飛び込んだ。
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
それと、秀吉と直面するの大戦を前にしたが、どこかに一抹いちまつ、敗戦を意識する気おくれが潜んでいた。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いかなる凡俗の裡にも一抹いちまつの生命の光りを求めて、これを機縁として高きに導入せんとするのである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
ただ近来少数ではあるがまじめで立派な連句に関する研究的の著書が現われるのは暗夜に一抹いちまつ曙光しょこうを見るような気がして喜ばしい。
連句雑俎 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
西洋でもラスキンなどは「一抹いちまつの悲哀を含まないものに真の美はあり得ない」と言ったそうである。
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
わかりませんでしたがしかしいつこの町がどんな事になるのかわからない不安の中に、何か一抹いちまつの安らかな思いが湧き上って来たのであります。
蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ (新字新仮名) / 河井寛次郎(著)
木炭はその尖端せんたんを使用し、時には木炭の横腹を以て広い部分を一抹いちまつする事もよろしい。
油絵新技法 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
日はすでに河内かわち金剛山こんごうせんと思うあたりに沈んで、一抹いちまつ殷紅色あんこうしょく残照ざんしょうが西南の空を染めて居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
「もうこれでよし」と、自信ありげに、ひとつぶやいた。ややあって、陳君の屍骸の白蝋はくろうのような顔に、一抹いちまつの血がのぼると、
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
時経て、過去の夢となり、人間業のうたかたとなった後、それを振返ると、義仲的な驕慢きょうまんにも一抹いちまつの稚気のあわれさは覚えさせられる。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それは青空に一抹いちまつの黒雲を望み見て、雨の襲来をおそるる旅人の心と同じ虞れであって、心より払わんとするも払い得ない一種の雲影であった。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
刷毛はけで引いたような一抹いちまつの雲が、南風みなみを受けて、うごくともなく流れている。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
二本松のあたり一抹いちまつの明色は薄墨色うすずみいろき消されて、推し寄せて来る白い驟雨ゆうだち進行マアチが眼に見えて近づいて来る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
煙は次第次第に乱れて拡散して、やがてただ一抹いちまつの薄い煙になってやがて消えてしまった。
雑記(Ⅱ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
新聞で見ると、当局も毛沼博士の死因については一抹いちまつの疑惑を持っているらしいのだ。
血液型殺人事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
それまではたれにもおどんでいた一抹いちまつ危惧きぐだったものも、恩怨おんえんすべて、尊氏のことばで、すかっと、一掃いっそうされた感だった。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
細面の頬にも鼻にも、天然らしい一抹いちまつ薄紅うすくれないみなぎっている。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
僕はその時なんとなく亡き祖母や母のことを思い出すと同時に、食堂の広い窓から流れ込む明るい初夏の空の光の中に、一抹いちまつの透明な感傷のただようのを感じた。
柿の種 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
遠くから見ると吉野紙よしのがみのようでもありまた一抹いちまつの煙のようでもある。
からすうりの花と蛾 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
ほてった皮膚に冷たい筆の先が点々と一抹いちまつの涼味を落として行くような気がする。
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
いつまでも座に一人でいてつれづれな源氏は、夫人との間柄に一抹いちまつの寂しさを感じて、琴をかき鳴らしながら、「やはらかにる夜はなくて」と歌っていた。
源氏物語:08 花宴 (新字新仮名) / 紫式部(著)
湿うるおえる燄は、一抹いちまつに岸をして、明かに向側むこうがわへ渡る。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
夕映えの空に、遠鳴りのような下町のどよめきが反響こだまして、あわただしいなかに一抹いちまつの哀愁をただよわせたまま、きょうも暮れてゆく大江戸の一日だった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
秋雨あきさめの晴れたゆうべに宿舎のかどを出ると、斜陽は城楼の壁に一抹いちまつ余紅よこうをとどめ、水のごとき雲は喇嘛ラマ塔をかすめて流れてゆく。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
その引戸が閉まると同時に、女房は何故か一抹いちまつ疑心ぎしんを感じて、念のため女湯の方を見廻りたいと思った。が、その時、男湯の方から主人の声が聴こえて来た。
電気風呂の怪死事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
私は写真版によって拝見しただけであるが、たっぷりした力づよい筆致のうちに、一抹いちまつの稚拙美もうかがわれ、皇后の鷹揚おうような御性質が偲ばれて興味ふかかった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
一抹いちまつやみを透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割かたわれとは、ものうく寝覚めたるやうに覚束おぼつかなき形をあらはしぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
なぜなれば、咄々先生の舌が、一抹いちまつの煙と化してしまったからである。
一抹いちまつの影がマリユスの額にさした。彼はエポニーヌの腕をとらえた。
彼の顔は既に青ざめていたが、更に一抹いちまつの血のもなくなった。
検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物をいおうとした時、けたたましい汽笛が一抹いちまつの白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
たばこの煙一抹いちまつを戸口に残してスラリ/\と剛造は去りぬ、
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
一抹いちまつ殺闘の気が、男の胸から、お高にも伝わったのであろう。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
それはわれわれの「知覚には限界がある」からである、と言って、遠い小山に緑草をあさる羊の群れがただ一抹いちまつの白いまだらにしか見えないという、詩人らしい例証をあげている。
ルクレチウスと科学 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
が、一座の空気は、明らかに一抹いちまつの危機をはらんでいた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
ひやりと一抹いちまつの不安を覚えるのはどうしたことだろうか。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
そう思ってみて、鶴見は一抹いちまつの寂しさを感ずるのである。
その曹操の死は、早くも成都に聞え、多年の好敵手を失った玄徳の胸中には、一抹いちまつ落莫らくばくの感なきを得なかったろう。敵ながら惜しむべき巨人と、歴戦の過去を顧みると同時に、
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それはただ一抹いちまつにぼかされた霞の海であるだけではない。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
「蜀の陣上には、一抹いちまつ、何やら淋しきものが見える」
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
日に光り輝いておった海原に一抹いちまつの墨を加えて来る。
別府温泉 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
ただあるがまま……ただ一抹いちまつの清い悲しい静けさ。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
君等は直ぐ左様さう云ふからこまる——今迄篠田君の身辺まはりには一抹いちまつ妖雲えううんかゝつて居たのだ、篠田君自身は無論知らなかつたであらうが——現に何時いつであつたか
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
竜之助の細くて底に白い光のある眼にぶつかった時に、蒼白かった竜之助の顔にパッと一抹いちまつの血が通うと見えましたが、それもつかで、もとの通り蒼白い色に戻ると、膝を少し進めて、
しかし君子にはまだ一抹いちまつの疑いが残っていた。
抱茗荷の説 (新字新仮名) / 山本禾太郎(著)
一抹いちまつの旅愁を引くのに充分であった。
火と氷のシャスタ山 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
ある日、虚無の胸のかげの 一抹いちまつ
秋の瞳 (新字旧仮名) / 八木重吉(著)
しかし何よりも驚くべきはその美しい色艶いろつやで、燃え立つばかりに紅かったが、単に上辺うわべだけの紅さではなく、底に一抹いちまつの黒さを湛えた小気味の悪いような紅さであり、ちょうど人間の血の色が
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
今日もとより国家存立の重大性について十分に眼ざめているものにとって、この異常な決意の遂行の可能性を疑うべきではないとしても、われわれはなおそこに一抹いちまつの憂慮を消し去るわけにはゆかないのである。
日本文化と科学的思想 (新字新仮名) / 石原純(著)
私はそういう母の一家の消長のなかに、江戸の古い町家のあわれな末路の一つを見いだし、何か自分の生い立ちにも一抹いちまつの云いしれず暗いかげのかかっているのを感ずるが、しかしそれはそれだけのことである
花を持てる女 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
彼が老後に自分のなぐさみに持った画筆のように、墨で一抹いちまついたような東洋的虚無観が、六十年の生涯をびょうとして貫いているすがたなども、僕には、彼の少年時代の家庭が最も重視されるのである。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
おかしいことには「ファイルシェン」という言葉が耳にはいってこの花の視像をそれと認識すると同時に、一抹いちまつの紫色がかった雰囲気ふんいきがこの盛り花の灰色の団塊の中に揺曳ようえいするような気がした。
映画雑感(Ⅳ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
しかし、硝子がらすを飛び、風にいて、うしろざまに、緑林になびく煙は、我が単衣ひとえの紺のかすりになって散らずして、かえって一抹いちまつ赤気せっきはらんで、異類異形に乱れたのである。
灯明之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
だが、この目をほそめて合掌をしている無心そうな菩薩の像には、どこか一抹いちまつの哀愁のようなものが漂っており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。
大和路・信濃路 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
自分が昔現在の家を建てたとき一番日当りがよくて庭の眺めのいい室を応接間にしたら、ある口の悪い奥さんから「たいそう御客様本位ですね」と云って、底に一抹いちまつの軽い非難を含んだような讃辞を頂戴したことがあった。
新年雑俎 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
ですからわたくしは、何処どこに往っても、樹の有る処、花の有る処、乃至ないしは黙々と口噤くちつぐむ石、空を一抹いちまつの雲の有るところでは、決して自分がたった独りでいるのだとは思いはしないのです。
船にとっても無上の内助者であるし、駒井船長にとってもかけがえのない名秘書であることを、ひそかに慶賀しているが、お松の今夜の勉強ぶりに対して、白雲がなんとなく、一抹いちまつの不満を感ずるような心地がされたのは、それは
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
などと、夜がふけるまで、昔をも今をも話しておいでになって、このまま明石夫人のところで泊まっていってもよい夜であるがとはお思いになりながら院のお帰りになるのを見て、明石夫人は一抹いちまつの物足りなさを感じたに違いない。
源氏物語:42 まぼろし (新字新仮名) / 紫式部(著)
勿論法水は、人形の置かれてあった室の状況に一抹いちまつの疑念を残しているけれども、それは彼自身においても確実のものではなく、すなわち、否定と肯定との境は、その美しい顫音せんおん一筋に置かれてあると云っても過言ではない。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
かりあとの粟畑あはばたけ山鳥やまどり姿すがたあらはに、引棄ひきすてしまめからさら/\とるをれば、一抹いちまつ紅塵こうぢん手鞠てまりて、かろちまたうへべり。
月令十二態 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹いちまつの淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石とんぼだまの空のなかにまるき柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高くそびえたる鐘楼しゅろうが沈む。沈んだと女が云う。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
道や枯草、藁積わらぐまなどには白くしもり、金色にさしてくる太陽の光が、よい一日を約束していたが、二十年も正月といえば欠かさず一緒に出かけた松次郎が、もうついてはいないことは一抹いちまつさびしさを木之助の心にいた。
最後の胡弓弾き (新字新仮名) / 新美南吉(著)
「……ウウム。恐らくは事実であろう。夜々、天文を観るに、荊州の天に、一抹いちまつの凶雲がただようているように思うていた。そうか。……だが太傅、まだその儀は、漢中王にご披露せぬがよかろう。にわかに驚かれると、或いはお体をそこねるやも知れぬ」
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
人を切りたくなったりするというのが、いわゆるその妖刀説ですが、しかし、これは村正の刀があまりによく切れすぎるのと、その刀相に一抹いちまつの妖気が見られるところから、いつだれがこしらえたともなくこしらえた伝説で、ほんとうの因縁いわれは、徳川の始祖
——六年間肺病とたたかっていた父の生涯、初めて秋田の女学校へ入るために、町から乗って行った古風な馬車の喇叭ラッパの音、同性愛で教育界に一騒動おこったそのころの学窓気分、美しい若い人たちのその後の運命、彼女の話にはいつも一抹いちまつの感傷と余韻が伴っていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
一抹いちまつのかすみの中にあるいは懸崖千仭けんがいせんじんの上にあるいは緑圃黄隴りょくほこうろうのほとりにあるいは勿来なこそせきにあるいは吉野の旧跡に、古来幾億万人、春の桜の花をでて大自然の摂理せつりに感謝したのである、もし桜がなかったらどうであろう
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
全幅の信頼をおいてやって来た、その結果が、なにひとつとして仰せの通りに実現せず、実現しないどころか、いよいよ飢餓にさらされたとなれば、のぞみありげな勧説かんぜいにも一抹いちまつの疑いを持ち、不安にかられる心情を無視出来ますまい、阿賀妻さん、身どもせんえつ至極ながらえて云いますが
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
歌麿の裸体画には解剖の根柢完全に具備せられたれどその一抹いちまつ一団いちだんうちに節略せられたる裸形は書体風カリグラフィックの線によりてすべて局部の細写さいしゃを除きたるがため、そののつぺりとしたる細長き体躯たいく何となく吾人が西洋画に用ゆる写生用の人体模形マンカンを見るのおもいあらしめたり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)