陽炎かげろう)” の例文
もはや彼は、奔馬のような脈を感じ、錯覚さえも生じて、蘆も土橋も水も何もかも、キラキラした、陽炎かげろうの中に消え去る思いがした。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
土も草も大地は若い女のような熱い息をしている、むしむしと顔の汗からも陽炎かげろうが立ちそうである。そして、ひそりとした春の昼中。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
早いこと、早いこと! 陽炎かげろう電光いなずまのごとく、内ポケットから紙包みを出したかと思うと、もう伯爵はグウッと酒であおりつけている。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
障子を細目に開けて見ると、江戸中の桜のつぼみが一夜のうちふくらんで、いらかの波の上に黄金色の陽炎かげろうが立ち舞うような美しい朝でした。
マダム丘子のツンと高い鼻の背に、露のような汗が載ってい、無闇やたらに明るい太陽が、あたり一面、陽炎かげろうのようにゆれていた。
! 陽炎かげろうを幾千百すぢ、寄せ集めて縫ひ流した蘆手絵あしでえ風のしわは、宙に消えては、また現れ、現れては、また消える。刹那せつなにはためく。
(新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
これも明るい近代的の俳句であり、万葉集あたりの歌を聯想れんそうされる。万葉の歌に「東の野に陽炎かげろうの立つ見えてかえりみすれば月傾きぬ」
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
野と山にはびこる陽炎かげろうを巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷ひとはけなすり付けた、瀲灔れんえんたる春色が、十里のほかに糢糊もこ棚引たなびいている。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、陽炎かげろうのように立ち迷う湯気のなかに、黄いろい木実このみの強い匂いがこもっているのもこころよかった。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
あいかわらず、降りつづく雨が窓ガラスを洗っていて、そのせいで風景も歪み、陽炎かげろうを透かして見るように揺れながら流れつづけている。
歪んだ窓 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
上には知らぬ間の大鯛が尾をねて、二人の抜出した台所に、ぷんと酢の香の、暖い陽炎かげろうのむくむく立ってなびくのは、早鮨はやずしの仕込みらしい。
卵塔場の天女 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
くまなく晴れあがった紺青こんじょうの冬の空の下に、雪にぬれた家々のいらかから陽炎かげろうのように水蒸気がゆらゆらとのどかに立ち上っていた。
林の外側に並んだ幹には残照ゆうばえが映って、その光が陽炎かげろうのように微赤うすあかくちらちらとしていたが、中はもう霧がかかったように暗みかけていた。
太虚司法伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
野末の陽炎かげろうの中から、種蓮華たねれんげを叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。
(新字新仮名) / 横光利一(著)
こまかい和毛にこげの黒いのが一杯に掩うて太陽に面して立った時は、嘘でも御まけでもなく、顔から陽炎かげろうが、ゆらめきのぼって居る様に見える。
農村 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
陽炎かげろうのたち昇る春の日に、雲雀ひばりさえずりをききつつ、私のいつも思い出すのは、「春の野に菫摘まむと来しわれぞ野をなつかしみ一夜宿にける」
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
白味を含んだ蒼い空から、銀笛の音色を思わせるような、雲雀ひばりの声が降って来る。そうしてヒラヒラと野路からは、絹糸のような陽炎かげろうが立つ。
血ぬられた懐刀 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
なよたけ みんな御覧ごらん! ほら! 竹のこずえに、陽炎かげろうがゆらゆら揺れている。……この竹の林は、何でもかでも、お天道様のお恵みで一杯だわ。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
風もなく、冬枯れの牧場には空気がうらうらと陽炎かげろうめいていた。紀久子と敬二郎とは馬にまたがって、静かに放牧場の枯草の上を歩き回っていた。
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
陽炎かげろうという字を用いる者もこれである。さてその陽炎の立っている草原とか堤とかいうようなところに、一匹の老狐は子狐をれて遊んでおる。
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
立迷う陽炎かげろう、よかよか飴屋の太鼓の音、そうしたあかるい色と響きとの間に、せんべやで干す煎餅の種の白さが、汚いその瓦屋根に照り添って
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
物理学の方面だけで見ると一体にドイツ学派の仕事は単色で英国派の仕事には色彩の陽炎かげろうとでもいったものを伴ったものが多いような気がするが
雑記帳より(Ⅱ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
大きくわだちの跡がついているのを名残として、美しい朝日がキラ/\と輝いて、屋根からも路の上からも橋の上からも、悠々と陽炎かげろうを立たせていた。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
冬だと言うのに毎日初夏のような快晴で、見渡す限りの水が陽炎かげろうに揺れていた。海岸にはユウカリ樹が並んで、赤土の崖下に恋人達が昼寝していた。
うらうらと燃える陽炎かげろうを背に、無造作な櫛巻くしまき、小弁慶こべんけいあわせに幅の狭い繻子しゅす博多はかたの腹合わせ帯を締めて、首と胸だけをこううしろへ振り向けたところ
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
小春日和のうららかさに陽炎かげろうが燃えていた。海岸通りには荷役の権三ごんぞうたちが群をしてやかましく呶鳴り合って居た。外国の水夫が三々五々歩き廻っていた。
上海された男 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
朝のうちは霜柱しもばしらが立つが、陽がのぼると相変らず春のようないい陽気。河岸ッぷちの空地の草の上に陽炎かげろうがゆらめく。
顎十郎捕物帳:07 紙凧 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
彼は腕を組んだまま、ちょいと羨しそうな眼を挙げて、その若者を眺めたが、やがて彼等の群を離れて、たった一人陽炎かげろうの中を河下かわしもの方へ歩き出した。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そう思うて見るせいか四条の大橋の彼方に並ぶ向う岸の家つづきや八坂やさかの塔の見える東山あたりには、もう春めいた陽炎かげろうが立っているかのようである。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
悦んで行くとそれは不意に消えてしまって陽炎かげろうであったか、つまり砂が日光に反射して水のようにその辺に現われて居ったものと見える。こりゃ本当に
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
ぎらぎらと、眼もくるめくような陽炎かげろうが、海も、山も、街も、ゆらめかせている暑い日である。風があって、筒抜けの青空を飛ぶ白雲の足も早かった。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
フレンチドアの向うに、芝生がもう大ぶ青くなって、あちらにもこちらにも陽炎かげろうらしいものの立っているのを、一緒になって珍らしそうに眺め出していた。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
山道にはうらうらと陽炎かげろうがゆらぎ、若葉の薫りはむせ返る様。谷間にこだまする冴え返った小鳥の声も楽しかった。
白髪鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
冬中とざされてあったすすけた部屋の隅々すみずみまで、東風こちが吹流れて、町に陽炎かげろうの立つような日が、幾日いくかとなく続いた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そのきびしい冬がぎますと、まずやなぎ温和おとなしく光り、沙漠さばくには砂糖水さとうみずのような陽炎かげろう徘徊はいかいいたしまする。
雁の童子 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
『四郎だ四郎だ、』豊吉はぼんやり立って目を細くして何を見るともなくその狭いの影の多い路の遠くをながめた。路の遠くには陽炎かげろうがうらうらとたっている。
河霧 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
身の軽さはジッスの磯のほとりに天と海との中間に魔の蛛蜘が造り建てた陽炎かげろう宮殿みやのようであった。
人馬のにひ妻 (新字新仮名) / ロード・ダンセイニ(著)
霜解しもどけのしたみちは、ぬかるみのところもあるが、もうひかりかわいて、陽炎かげろうのぼっているところもありました。むらはずれに土手どてがあって、おおきなっていました。
薬売りの少年 (新字新仮名) / 小川未明(著)
ぼうっと陽炎かげろうに霞んで程遠く西の彼方に天主教会堂の高くそびえ立った鐘楼が見え、そこら辺りに高層建築が氷山のように群立っている。正に彼の行こうとする目標だ。
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
雲雀ひばりが子を育てる麦畠の陽炎かげろう、里には石垣のたんぽぽやすみれ、神の森の木の大がかりな藤の紫、今日からあすへの境目も際立たずに、いつの間にか花の色が淡くなり
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
歩くうちに、汗ばむほど暖たかい日で、雪のまだらに残った地面からは、しきりに陽炎かげろうが立っていた。
雪の上の霜 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
陽炎かげろうでも燃え立つように、ちょろりと光る、瞬く間に川に向っている私の室は、朝日が一杯にさしこんで、夕日のように、赤々とまぶしくなる、そのうちに東の山々は
谷より峰へ峰より谷へ (新字新仮名) / 小島烏水(著)
うつうつ気がうっして、待合室の窓からそとのしいの若葉をながめてみても、椎の若葉がひどい陽炎かげろうに包まれてめらめら青く燃えあがっているように見え、外界のものがすべて
灯籠 (新字新仮名) / 太宰治(著)
土橋どばしから少しはなれて馬頭観音ばとうかんのんが有り無しの陽炎かげろうの中に立っている、里の子のわざくれだろう、蓮華草れんげそう小束こたばがそこにほうり出されている。いいという。なるはど悪くはない。
野道 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
そのとき水の上の影は、日光のあんばいで陽炎かげろうのようにゆらゆらしながら、それがまた沼底の方まで輪廓をえがきながら、大きなうっすりした陰影をおとしているのでした。
寂しき魚 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
と、そう云って、コンクリートの路面ながら陽炎かげろうが燃えそうに日が当っている舗道をながめた。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
小石原から立つ陽炎かげろうがゆらゆらと揺れる。砂原の杉菜すぎなの葉末に宿やどった露に、日光が光った。
父の俤 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
潮の退いたあとの湿った砂を踏んで行く中に、先刻から私の前後左右をしきりに陽炎かげろうのような・あるいは影のようなものがチラチラ走っていることに気が付いた。かになのである。
軽い陽炎かげろうがゆらゆらと立昇るのを、蒸し暑い乾いた大気は呑み込んで、重くのろのろと、何処へともなく押し移ってゆき、遠い連山の峰からは、積み重り渦巻き脹れ上る入道雲が
土地 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
時候は立春、暮春ぼしゅん余寒よかんあたたかうらら長閑のどか日永ひながの類をいふ。人事は初午はつうま二日灸ふつかきゅう涅槃会ねはんえ畑打はたうち雛祭ひなまつり汐干狩しおひがりの類をいふ。天文は春雪、雪解、春月、春雨、霞、陽炎かげろうの類をいふ。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)