きぬ)” の例文
然し一時間前の倦怠けんたいではもうありませんでした。私はそのきぬずれのようなまた小人国の汽車のような可愛いリズムに聴き入りました。
橡の花 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
はらはらとその壇のもとに、振袖、詰袖、揃って手をつく。階子の上より、まず水色のきぬつまもすそを引く。すぐにみのかつぎたる姿見ゆ。
天守物語 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
かしこに謙遜へりくだれる聖歌の作者きぬひきかゝげて亂れ舞ひつゝ恩惠めぐみうつはにさきだちゐたり、この時彼は王者わうじやに餘りて足らざりき 六四—六六
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
さやかなきぬずれの音と共に、豊熟な女の匂いが部屋いッぱいにひろがって、さし俯向いている金吾の胸にも悩ましそうでありました。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そうしてとうとうしまいには、その女のそうしているときの息づかいや、やさしいきぬずれの音までがまざまざとよみがえるようになり出した。
曠野 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
こちらへさやさやとつつましやかにきぬずれの音を立てながら、大役におびえおののいているのに違いない菊路が導かれて来た気配けはいでした。
文麻呂 そうか……若竹がすくすくと成長して行く音だったんだな? ひそやかな生成の儀式のかすかなきぬずれの音だったんだな?
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
たちまち恐ろしく嵩高かさだかな、色彩のゆたかなものを肩にかけながら物々しいきぬずれの音をひゞかして出て来たのに、又驚きを新たにした。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
したがって第三に、わたしはいさぎよく自首なさいと、真正面から歯をきぬきせずおすすめしようと思って、ここまでやって来たのです。
たちまちに黒いきぬをきた者三人、いずれも身のたけ八尺ぐらいで、大きい口をあいて向かって来たので、猟師はその場にたおれてしまった。
きぬを商う家、革をひさぐ家、魚をならべる店、わけて薄男すすきおがよく訪れたこうさばく家、それらの店にすわる男らの顔にみな見覚えがあった。
荻吹く歌 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
一人はへさきかいをあやつる少女、一人はともにギタを抱く少年、少女は全身に純白の羽毛のきぬを纒い、少年は真紅の羽毛の衣に包まれている。
地獄風景 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
部屋のなかでは、忠相が威儀いぎをただして、小高い膝頭をそろえたまま庭のほうへ向けたらしい。すわりなおすきぬずれの音がして、やがて
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
公子二人は美服しているのに、温は独り汚れあかついたきぬを着ていて、兎角とかく公子等に頤使いしせられるので、妓等は初め僮僕どうぼくではないかと思った。
魚玄機 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
殺された内儀の妹、——お清には叔母に當る筈のお山は、姉が死ぬともう、齒にきぬを着せずに斯んな事をツケ/\言ふのです。
女は、白地にうす紫の模様のあるきぬを着て、市女笠いちめがさ被衣かずきをかけているが、声と言い、物ごしと言い、紛れもない沙金しゃきんである。
偸盗 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
今度は歯にきぬ着せず言ってやる決心の大谷夫人は機会を待つこと数日にして、丸尾夫人の履物を橋本さんの玄関先に見つけた。
求婚三銃士 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
厚きしとねの積れる雪と真白き上に、乱畳みだれたためる幾重いくへきぬいろどりを争ひつつ、あでなる姿をこころかずよこたはれるを、窓の日のカアテンとほして隠々ほのぼの照したる
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
顔の茜も、まばゆげなる、背後うしろの方に、さらさらと、思ひ掛なききぬの音『たいそう御しんみりでございますねえ』と、鹿子のつつと入来るに。
したゆく水 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
夫人は今宵空色のきぬを着たるが、いと善く似合ひたり。我等は若し此人をして少し痩せしめば、第一流の美人たるべきものをとさゝやきたり。
二三分も経たないうちに、きぬずれの音が、廊下にしたかと思うと、瑠璃子は少女のようにいそいそと快活に、け込んで来た。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それらの人びとは少しの音もさせずに自分たちの席につきましたが、その動いている時、鋪石しきいしの上に靴の音もなければきぬずれの音もないのです。
彼女は白いきぬの上になめされた仔鹿の皮帯を金の釦金でしめていた、きぬはひろがって暖かい風が胸を吹くのにまかせていた。
(新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
きぬの白地の紅に染む事無理ならず、美登利の眼の中に男といふ者さつても怕からず恐ろしからず、女郎といふ者さのみ賤しき勤めとも思はねば
たけくらべ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
みちに迷いて御堂みどうにしばしいこわんと入れば、銀にちりばむ祭壇の前に、空色のきぬを肩より流して、黄金こがねの髪に雲を起せるは
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
深山ニ入テ仙法ヲ学ビ松ノ葉ヲ食シカツ薜茘へいれいヲ服セリ、一旦くうのぼツテ故里ふるさとヲ飛過グルトテ、タマタマ婦人ノ足ヲ以テきぬヲ踏洗フヲ見タリシニ
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
所が、その時きぬ摺れのような音が——たしか天井の、それも簀子の方へ行く、階段の口あたりでしたと思われたのです。
オフェリヤ殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
崩れた土塀に沿うて歩いて行くと、天平人てんぴょうびとたちの亡霊がふいに現われて来そうに思う。彼らの衣の香り、きぬずれの音までがふと聞えてくるようだ。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
倉地の胸から触れ慣れたきぬざわりと、強烈な膚のにおいとが、葉子の病的にこうじた感覚を乱酔さすほどに伝わって来た。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
その光で見ると、白麻のきぬ黒絽くろろ腰法衣こしごろも。年の頃四十一二の比丘尼びくに一人。肉ゆたかに艶々つやつやしい顔の色。それが眼の光をけわしくしているのであった。
備前天一坊 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
ふらふらと歩く姿は、夢遊病患者のようで、やさしい肩から垂れたきぬが、空の光で透き通るほど白く見えました。
レモンの花の咲く丘へ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ふすま手荒らに開かれて現はれたる一丈天、其のきぬの身に合はず見ゆるは、大洞おほほらのをや仮り着せるならん、既に稍々やゝ酒気を帯びたるかほ燈火ともしびに照らしつ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
西洋人でも今少しは歯にきぬをかけた言い方をするであろう。日本人は一時心も形も全部西洋風となったのであった。
戦争史大観 (新字新仮名) / 石原莞爾(著)
ザビーネが店の入口に現われない前から、そのきぬずれの音を聞き分けた。彼女が出て来ると、彼は眼をそらして、いっそう元気な声で母に話しかけた。
その後奥山に山姥が久良支くらき山から出て来て、このかたわらに住んで神様のきぬを織り、それを献納していったから、この名になったのだというそうです。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そのきぬざはりのかすかな響とを、傍に聞くことが出來たから、不安は、羞恥とあはい恐れとになつて、彼女は、上氣じやうきしたやうに、頬を赤くそめてうつむいた。
幸福への道 (旧字旧仮名) / 素木しづ(著)
全然事実とは違うその卑俗な偏見によって昏倒する迄彼を殴りつけた周囲の人々の独善的な小市民気質に対する歯にきぬきせぬ反撥が語られているのである。
あんに知ッていたので、いわゆる虫が知ッていたので,——そのひるがえるふりのたもと、その蹴返けかえきぬつま、そのたおやかな姿、その美しい貌、そのやさしい声が
初恋 (新字新仮名) / 矢崎嵯峨の舎(著)
右のコブナグサであれば、歌の「わがやどに生ふる」にも都合がよく、また「きぬにすらゆな」にも都合がよい。
植物一日一題 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
このごろあたしの書いた小説の揷繪にも、肩からきぬのぬげおちようとしてゐるところ——これは湯上りといへないが——濛々もう/\たる湯氣の中に立つた姿もある。
(旧字旧仮名) / 長谷川時雨(著)
世に栄え富める人々は初霜月の更衣うつりかえも何の苦慮くるしみなく、つむぎに糸織に自己おのが好き好きのきぬ着て寒さに向う貧者の心配も知らず、やれ炉開きじゃ、やれ口切りじゃ
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
車はなめらかに、音も立てず、道路の人を左右によけつつすべるやうに走る。愛子が身じろぐごとにさやさやときぬずれがして、香料の薫りが快く俺の官能をそそる。
畜生道 (新字旧仮名) / 平出修(著)
この深い暗さは、何時いつまでも長続きするものではないが、燈火を消した部屋の中は、あらゆる旅行者の、旅のなごりが、きぬずれのやうに闇の中に動いてゐた。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
かれ匍匐はひ進起しじまひて、庭中に跪ける時に、水潦にはたづみ二五腰に至りき。その臣、あかひも著けたる青摺あをずりきぬ二六たりければ、水潦紅き紐に觸りて、青みなあけになりぬ。
こんな考察にふけっているとき、彼はふときぬずれの音を聞いた。ふりかえって見ると、それはベアトリーチェが、彫刻した入り口の下から現われ出たのであった。
雪之丞の胸は、暗くなり、気弱ささえ出て来たが、そのとき、廊下で、足音がして、きぬずれが近づいた。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
しかしいわゆる歯にきぬを着せず、体裁を飾るための嘘をつかず見たままの有様を率直に、明白に表現せんとするに当たっては、私のような不調法者はなんとしても
現代茶人批判 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
来る夜も来る夜も彼女は書棚の中から、壁炉カミンの中から、部屋の片隅から、じっと彼を見つめていて、彼にはその息づかいや、優しいきぬずれの音が聞こえるのだった。
立派な県庁、陰気な師範学校、石割桜で名高い裁判所の前を過ぎて、四辻へ出る。と、雪白のきぬを着た一巨人が、地の底から抜け出でた様にヌツと立つて居る。——
葬列 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
女は年のころ十七、八で翠袖すいしゅう紅裙こうくんきぬを着て、いかにも柔婉しなやかな姿で、西をさしてしずかに過ぎ去った。
世界怪談名作集:18 牡丹灯記 (新字新仮名) / 瞿佑(著)