ひろ)” の例文
私はそこに自分の心をまざまざとひろげて見せられたやうな心持がして、じつとそれに見入つて居た。漆のやうな暗い闇は長く続いた。
百日紅 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
そこの大きな骨董屋こっとうやへはいってまず直入を出したが、奥から出てきた若主人らしい男はちょっとひろげて見たばかしで巻いてしまった。
贋物 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
杜はバラックの中で、明るい電灯のもとに震災慰問袋の中に入っていた古雑誌をひろげて読みふけっていた。そのとき表の方にあたって
棺桶の花嫁 (新字新仮名) / 海野十三(著)
民助は弟の反省を促そうとするような調子で、今まで誰にも話したことの無いという父の生涯に隠れたものを岸本の前にひろげて見せた。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
森はだんだん深くなって、眼の下に湖水の南岸がひろげられるあたりから、だらだら路になって、カムフェルの村まで下ってゆく。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
体をひねり、持つて来た薄い雑誌をむざ/\花床の上に敷いて片ひじまげる。河の流れへ顔を向けて貝の片殻のやうにひろげたてのひらほおを乗せる。
(新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
急いでその次をひろげて見ると、それは花のような姫君のおもてが、やはり無惨にも同じように針で無数の穴が明けられていました。
大菩薩峠:18 安房の国の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
こう答えた時私は、私の今までの全経歴、全経験を、私の胸の中にぱっとひろげられたのを感じた。不覚ふかくにも私は、かすかな涙を私の眼に宿やどした。
ここに繰りひろげられている心理情景の物しずかな進行プロセスを、身裡に体感するまでには何という労力と時間とを費やし
翻訳遅疑の説 (新字新仮名) / 神西清(著)
そして、その日の質問はそれで止めて、「第十八章、節倹の必要」という章をひろげさせた。校長の微笑はもう見えなかった。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
いま広間の中ほどに、一面の大きな絵図が、小姓たちの手でひろげられた。それは畳二枚ほどもあった。——江州ごうしゅう蒲生郡安土あづち一帯の絵図である。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その絵巻えまきひろげた川筋かわすじ景色けしきを、るともなく横目よこめながら、千きちおに七はかたをならべて、しずかにはしうえ浅草御門あさくさごもんほうへとあゆみをはこんだ。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
仕かかりの仕事をひろげて、その中でのぼせ気味に働くのが好きな彼女は、そこが乱雑になることは一向気にならなかった。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
かわらと人の手のあとの道路や家屋を示すちとの灰色とをもてえがかれた大きな鳥瞰画ちょうかんがは、手に取る様に二人が眼下にひろげられた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
その手紙は、お増の前にもひろげられた。夫婦はちょうどお今をつれて、暮の買物をしに、銀座の方へ出かけて行こうとしているところであった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
みづつて、さつあみ乗出のりだしてひろげたなかへ、天守てんしゆかげが、かべ仄白ほのじろえるまで、三重さんぢうあたりをこずゑかこまれながら、歴然あり/\うつつてた。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
左右一面に氷の面が地平の遙か彼方かなたまで果てしなくひろがっている。けさ運転士は南方に氷塊の徴候のあることを報じた。
紙はひろげられていても、そのような精神状態で、伸子は現在の入り組んだ感情を、どう整理する手段も見出せなかった。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
これに至って私達は雲の領を脱したのであろう、眼の前がパッと開けて、脚の下に椈倉峠の頂上が草原らしい緑をひろげる、雪田も間近に光っている。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
巻くことがひろげることと同義になる。巻くというのも展げるというのも畢竟ひっきょう形式である。形式はその内容をなす生命の流動によってかされるのである。
と、清吉は暇を告げて帰ろうとする娘の手を取って、大川の水に臨む二階座敷へ案内した後、巻物を二本とり出して、先ず其の一つを娘の前に繰りひろげた。
刺青 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ところが、机の上に「日本文学全集」が載っていた。フト見ると、「片岡鉄兵」や「葉山嘉樹よしき」などの巻頭の写真のところがひろげられたまゝになっていた。
党生活者 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
卓子テーブルの上へひろげた油布あぶらぎれへ、拇指おやゆび程の大きさの現像フィルム。——ああ、怪殺人事件の犯人とのみ思ったのは誤り、敵はそれ以上の恐るべきスパイだったのだ。
劇団「笑う妖魔」 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
やがて風が出て霧がちぎれ初めると紫色に染みながら、団々として飛んで行き、麓にひろがる三次平野や、めぐり流れる川々のパノラマがひろがって行く。
光り合ういのち (新字新仮名) / 倉田百三(著)
眼前にひろがる蒼茫そうぼうたる平原、かすれたようなコバルト色の空、懸垂直下けんすいちょっか、何百米かの切りたったがけの真下は、牧場とみえて、何百頭もの牛馬が草をんでいる。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
朝は、昧暗から次第に薄明に目ざめて行くのである。淡墨の霧の底に、瀬音ばかりを響かせていた楢俣沢は、夜が明けると白い河原を渓の両側にひろげているのだ。
香熊 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
戸口では急にもついが始まり、板戸がコトリと鳴って月の出前の薄暗うすやみを五、六寸ばかりひろげられた。
手品 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
彼は彼女の先々に涯知れずひろがるかもしれない、さびしく此土地に過ごされる不安を愚しく取越して、激しい動搖の沈まらない現在を、何うにも拭ひ去れなかつた。
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
老人が夕刊紙に目を注ぐのは偶然夕刊紙がその手に触れて、その目の前にひろげられたが故であろう。
百花園 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
持って出たまままだ開いてみなかった新聞をひろげると、こんな見出しが、ふと彼女の眼にとまった。
初雪 (新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
半截を赤毛氈あかもうせんの上にひろげて、青楓氏が梅の老木か何かを描き、そこへ私に竹を添えろと云われた時、私はひどく躊躇ちゅうちょしたものだが、幼稚園の子供のような気持になって
御萩と七種粥 (新字新仮名) / 河上肇(著)
食物や手遊品おもちやの店を見て𢌞はつたりした光景を、小池は頭の中で繪のやうにひろげながら、空想は何時いつしか十五年前の現實に飛んで、愛宕あたごさんの祭のことを追懷つゐくわいしてゐた。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
密林は崖の下から再び始まり、斜面を下るにしたがってまばらになり、それが尽きるところから田がひろがっていた。もみの山が何か玩具じみて点々と遠く視野を連っていた。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
そこは峠の絶頂で眼の下に底知れぬ闇の如く黒くひろがつてゐる千々岩灘ちゞはなだが一眼に見え、左手にはさながら生ける巨獣の頭の如く厖大に見える島原の温泉嶽うんぜんだけ蜿々ゑん/\と突き出てゐる。
そうした注視を知っているのか知らないのか、がさがさとひろげて、彼は誰にともなく云った。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
やましずかで、ほととぎすが、昼間ひるまからいていました。かっこうも、うぐいすも、いていました。ふもとの高原こうげんには、あかいつつじのはなが、ほのおうみとなってひろがっていました。
僕が大きくなるまで (新字新仮名) / 小川未明(著)
ところが皺くちやな執事が、土蔵から取り出して観山氏の前にひろげたのはそんな小切こぎれでは無かつた。まるで呉服屋の店先に転がつてゐる緋金巾ひがねきんか何ぞのやうに大幅おほはゞのものだつた。
かつ子は出勤前なので、露骨にうるさいと云つた表情で、髪にこてをかける手を休めない。その前に、アルバムをひろげて、紫色にせた自分の嬰児の写真からいちいち説明するのだ。
現代詩 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
細君はそれをひろげて見ても意味をさとることができなかったが、しかし促織が見えたので、胸の中に思っていることとぴったり合ったように思った。細君さいくんは喜んで帰って成に見せた。
促織 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
草山の出鼻を曲ると、やや曇った西の空に、蝙蝠傘こうもりがさひろげたような雪の山が現われた。
白峰の麓 (新字新仮名) / 大下藤次郎(著)
彼は庭土をみがいていた、そして百つぼのあふるる土のかなたに見るものはただ垣根だけなのだ、垣根がとこになり掛物かけものになり屏風びょうぶになる、そこまでひろげられた土のうえには何も見えない
生涯の垣根 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
『相乗り幌かけほっぺた押付おっつけてけれつのぱあ』そうしたお浦山吹とからかわれそうなその後家さんと自分との上に繰りひろげられるだろう光景を考えてはゴクリ、ごくりと生唾を飲み込んだ。
寄席 (新字新仮名) / 正岡容(著)
或はただ彼の目の前へだらしなくひろげられてゐるこの古い古い世界を、全然別箇のものにして見せるやうな、或はそれを全く根柢からくつがへしてめちやめちやにするやうな、それは何でもいい
女房の権幕に作造はやおらち上った。村の下にひろがっている沼を見ると、女房とは反対に、いい按配風もないようである。鯰でも捕って売れば五十銭一円は訳のない腕を彼は持っていたのだ。
おびとき (新字新仮名) / 犬田卯(著)
青々と晴れた大空の下に、この新年の絵巻がひろげられている。その混雑の間をくぐりぬけて、私たちは亡き人の柩を送って行くのである。世間の春にくらべて、私たちの春はあまりに寂しかった。
正月の思い出 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
その間も館内は寂然としていて、全く人の気勢けはいはなく、人家に離れているところから、他に物音も聞こえなかった。充分に腹を養ったため、とみに正次は精気づき、心ものびのびとひろがって来た。
弓道中祖伝 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
『どうもわからん』とつゞけて、ひざうへうたひろげ、片眼かためながら
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
好奇心、眼に見えぬ自然の理法を学ぼうとするじつに熱心な研究、それが眼の前にひろげられた時の、有頂天に似た歓び、こういうものが、私の憶い出すことのできるもっとも幼いころの気もちなのだ。
明るい紫紺のひろがりが、円くふたをなしてかれのうえにある。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
錦子がひろげると、孝子が首をのばして
田沢稲船 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)