しな)” の例文
私は音のしないようにソーッと歩いて、扉の所に立っていた蛞蝓なめくじへ、一円渡した。渡す時に私は蛞蝓のしなびた手を力一杯握りしめた。
淫売婦 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
多くの草花がへとへとにしなびかかつてゐる灼熱しやくねつの真つ昼間を、瞬きもせず澄みきつた眼を開いて、太陽を見つめてゐるのはこの花です。
石竹 (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
三吉は三升樽をブラ下げて、ともしやがみました。五十六七、すつかり月代さかやきが色付いて、鼻も眼も口もしなびた、剽輕へうきんな感じのする親爺です。
そして新らしき心と、新らしい技法とをその正確にして深き技法の修練の上に建てなければ油絵という技法はしなびて行くであろう。
油絵新技法 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
「ウン。——」長造は、言おうか言うまいかと、鳥渡ちょっと考えたのち「こう世間が不景気でしなびちゃっちゃあ、何もかもおしまいだナ」
空襲葬送曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
マーキュ はて、うさぎではない、うさぎにしても脂肪あぶら滿ったやつではなうて、節肉祭式レントしき肉饅頭にくまんぢうはぬうちから、ふるびて、しなびて……
鯨骨げいこつ入りのコルセットのなかで見るもあわれにしなびながら、この七年、ベッドに縛りつけられ、天井をながめて暮らしている。
我が家の楽園 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
日陰の唐茄子とうなすしなびているごとく、十分に大気に当り、十分に太陽の光線を浴びぬ奴は心身共に柔弱になる。東京の電車に乗ってもそうだ。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
下町育ちらしい束髪の細君が、胸をはだけてしなびた乳房を三つばかりの女の子にふくませている傍に、切り髪のしゅうとめや大きい方の子供などもいた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
長吉はきいろにしなびた手を出した。音蔵もそれと見ると思わず一方の手を出してそれを握った。音蔵の頬には涙が流れていた。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「ああ、さようではございません、閣下モンセーニュール! しかし亭主は、あそこに、しなびた草が少しばかりかたまって生えているところの下におります。」
この血の気のないしなびた皮膚、青白い細い手足、肋骨の一本一本見えすく胴、五尺に足らぬ躯幹、それから、あはははは
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
土かづく黄の福寿さう、蕗の薹、しなへ葉の霜の苺や、裏藪の小すみれもまだ、楉枝しもとべのつくつくしまだ、日あたりの枯れし芝生の、下萠したもえもまだ。
(新字旧仮名) / 北原白秋(著)
俄跛の姉妹のことをれ/″\も夫にたのんでつたお辻の死顔のあおざめたしなびたほお——お辻は五十で死んだのである。
老主の一時期 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
ゴットフリートは実際、老いぼれしなび縮みいじけた様子をしていた。かすかな短い小さな息をしていた。クリストフはやたらにしゃべりつづけた。
見ると、それは大きな肩掛をし、片一方の眼のいやに小さな、しなびた女であつた。小声で——「兄さん、電車に乗りはりますやろ」と云ふのである。
釜ヶ崎 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
丁度相手の女学生が、頸のきずから血を出してしなびて死んだように絶食して、次第に体を萎びさせて死んだのである。
女の決闘 (新字新仮名) / 太宰治(著)
眉目は清秀で、唇はあかく、皮膚は白皙はくせきでありながらしなびた日陰の美しさではない。どこやらに清雅縹渺せいがひょうびょうとして、心根のすずやかなものがにおうのである。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
野菜にしても、しなびて精気を欠いていては、味も香気もなく、ただもうつまらない食物にしかならないのである。
味覚馬鹿 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
籠の中には、しなびた玉葱と、半分腐った茄子とが一杯詰っていた。もうこの時期から、このように野菜に苦しんでいるようでは、冬のことが思いやられる。
ツンドラへの旅 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
頭はおおかた禿げているが諸所ところどころ白髪しらががある。河原に残った枯れすすきと形容したいような白髪である。黄色い色のしなびた顔。蛇のようにうねっている無数の皺。
大鵬のゆくえ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それはお前おれも知っているが、うきすの竹はそれだからしなびたようになって面白くない顔つきをしているじゃないか。これはそうじゃない。どういうことを
幻談 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
まだ焮衝きんしょうが残っているらしく、こころもち潮紅ちょうこうしたまましなつぶれていて、乳首とあばらとを間近く引き寄せた縫い目の処には、黒い血のかたまりがコビリ着いたまま
一足お先に (新字新仮名) / 夢野久作(著)
が照りすぎてしなびてしまったんだよ。慈悲深い神様なら、なんだって人を困らせておよろこびになるんだね?
町々を飾る青い竹の葉が風にしなびてガサガサ音のするような日の午後に、捨吉は勝手口の横手にある井戸のわきを廻って物置から草箒くさぼうき塵取ちりとりとを持って来た。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
青くしなびたおとがいや、かすかな呼吸ごとにヒクついているせた小鼻のあたりを、じッとみているうちに、急に寒さを感じて、鷲尾はあわててドテラをひっかけた。
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
肉はひからび、皮しなびて見るかげもないが、手、胸などの巌乗がんじょうさ、渋色しぶいろ亀裂ひびが入つて下塗したぬりうるしで固めたやう、だ/\目立つのは鼻筋の判然きっぱりと通つて居る顔備かおぞなえと。
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
場末まちらしい小さい床屋に黄色くなつた莢隠元アリコ・ヹエルしなびた胡瓜コンコンブルの淋しく残つた八百屋、やすい櫛や髪針ピンの紙につけたのから箒、茶碗、石鹸などまでを並べた荒物屋
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
ただしなびて居るだけである……。彼は太鼓のひびきに耳を傾けて、その音の源の周囲をとりかこんで居るであらう元気のいい若者たちを、うらやましく眼前に描き出した。
今はもう目がはつきりとめ、見露みあらはさうとする鋭い注意力で、私は直ぐにその手に注目した。それは老人のしなびた手ではなく、私の愛する人のにほかならなかつた。
松岡は黄色いしなびた声でそういうと、突然頭の毛の中へ指を入れて、髪の毛をくしゃくしゃにした。
三階の家 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
熱帯的な美をつはずのものも此処では温帯文明的な去勢を受けてしなびているし、温帯的な美をつべきはずのものも熱帯的風土自然(殊にその陽光の強さ)の下に
二十五歳の公爵総裁は、若夫人同様おっとりとして、鷹揚おうようで典雅で上品で、その代り悪くいえばじじい青年のようにしなびている。若さなぞというものは薬にしたくもない。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
しなびた栄光の手ハンド・オヴ・グローリーの一本一本の指の上に、死体蝋燭ろうそくを差して、それが、懶気ものうげな音を立ててともりはじめた時の——あの物凄い幻像が、未だに弱い微かな光線となって
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
幾羽もいる籠へ、しなびた手をあらあらしく差し込んで、二羽つかみ出して、空籠からかごに移し入れるのである。それでめすおすが分かるかと云えば、しぶしぶ「へえ」と返事をした。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
各自の望みを追うにいとまのない世人は、たまに彼のしなびたてのひらに一片の銅貨を落す人はあっても、おそらくはそれはただ自分の心の中の慈善箱に投げ入れるに過ぎぬであろう。
(新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
母に死別れたあとのあのしなえるような気持、それがそのまま現実となって身にせまって来るような感じがして、きょうは朝から誰とも口をきく気になれなかったのである。
次郎物語:04 第四部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
しなびた梨のように水々しさがなくなったり、脚がはれたりするのを恐れてはいられなかった。
浮動する地価 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
年頃はまだ七十にはなるまい。もしかすると六十を幾つも越していないのかも知れない。髪はそれほど白くはない。それでも腰が少し曲がっているし、顔もしなびかけている。
落穂拾い (新字新仮名) / 小山清(著)
最後に坊さんは細長い箱の前に来て、如何にも注意深く蓋をあけると、中にはありふれた日本の蛇のしなびた死骸があり、また小さな黒い物が二つ、箱の中にころがっていた。
仙台から牡鹿半島の突端まで二十五、六里、その間の山坂ばかりの長い道中を、スプリングの弾力がしなびてしまったバスに揺られて漸く鮎川の町へ着いてみると、馬鹿に臭い。
海豚と河豚 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
「あゝ辛度しんどや。」と疲れたさまをして、薄くなつた髮を引ツ詰めに結つた、小さな新蝶々の崩れを兩手で直したお梶は、忙しさうに孫を抱き上げて、しなびた乳房を弄らしてゐた。
鱧の皮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
自分で自分を侮蔑ぶべつする、その歓喜のようなもので眼を光らせ、全身に壮烈な力をみなぎらせている感じだったが、打ち壊してしまうと、急にガタッと身体が小さくしなびたみたいで
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
と、のぞき出した半白半黒、それをおばこにったのが、ばらばらに乱れて、細長くしなびた、まばら歯の婆さん——その顔が提灯かんばんの灯に、おぼろに照されて、ばけ物じみている。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
「とてもゴムの乳っ首くらいじゃ駄目なんですもの。しまいには舌を吸わせましたわ」「今はわたしの乳を飲んでいるんですよ」妻の母は笑いながら、しなびた乳首ちくびを出して見せた。
子供の病気:一游亭に (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
もう枯れ枯れにしなび返って、葉のさきはインキをしたように、黒くなって、縮れている——で、夏ならば緑一色のちょんぼりした林が、今朝は二、三倍も広くなったような気がする。
雪中富士登山記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
ダチュラはもうしなび始めていた。一体丹尾は何で五郎をつけ廻すのか。つけ廻す理由があるのか。五郎はもう考えたくなかった。いちいち心配していては、気分の方で参ってしまう。
幻化 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
そのことはだんだん重苦しく彼の心にのしかかって来た。そのうちに彼は晴ればれとした往来へ出ても、自分にしなびた古手拭のような匂いがみているような気がしてならなくなった。
ある崖上の感情 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
「この竹葉たかばの青むがごと、この竹葉のしなゆるがごと、青み萎えよ。またこの鹽のるがごと、盈ちよ。またこの石の沈むがごと、沈み臥せ」とかくとこひて、へつひの上に置かしめき。
一度繭の中に隠れた虫は、丁度死にかゝつたものゝやうにしなび縮む。第一に、背中の皮が割れる。それから彼方此方を引つぱつて痙攣を繰り返す。虫は非常な難儀でその皮を引きはがす。