くう)” の例文
誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
白娘子はそう云って口の裏で何か云って唱えた。と、の道人は者があって彼を縄で縛るように見えたが、やがて足が地を離れてくうにあがった。
蛇性の婬 :雷峰怪蹟 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
両手で左の胸を押えてくうに身をらすとよろよろと夜具の上を逃げて来たが、私の眼の前にバッタリとうつ向けに倒れて苦しそうに身を縮めた。
あやかしの鼓 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
隻眼隻腕の稀代の妖剣、丹下左膳——しかも、その左腕に握っているのは、濡れ紙を一枚くうにほうり投げて、落ちてくるところを見事ふたつに斬る。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
いかに、わが世の、あだなるや、くうなるや、うつろなるや。げに、人間のあとかたの覺束おぼつかなくて、數少なき。いたづらなるは月日なり。
米友が距離に誤まられて、意外に時間をつぶしたことの申しわけをしているのを、道庵はくうに聞き流し、それより道庵の揮毫きごうがはじまります。
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
王受け取ってこれを焼きその勇者に武士号を与え金また銀に金をかぶせたる環中かんなかくうにして小礫こいしまた種子を入れたるを賜う。
一人が、組みつくと、銭湯屋ふろや溝溜どぶたまりから、どす黒い水が、ねあがったのと、一緒で、草履ぞうりは、くうに、とんでいた。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一向いっこう気のない、くうで覚えたような口上こうじょうことばつきは慇懃いんぎんながら、取附とりつのない会釈をする。
国貞えがく (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
幻覚? というと、何かぼうっと今にも消えてなくなりそうにくうに浮かんでいるもののようだけれども、私が見たのはそんな生やさしいものではない。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
はゝ親心附おやごゝろづけれどもなんこととも聞分きゝわけぬとおぼしく、見開みひらきながらくうながめて
うつせみ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
私はふと口をいて出たその文句が自分の胸を一ぱいにするがままにさせながら、なぜか知ら、撫子の悲しいまなざしをくうに浮べ出していた。
ほととぎす (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
いぬころはたゞちに四ッあしそろへてくうあがりさま、よろこいさんで其枝そのえだえつきました
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
草深い土の中から掘り起したもので、五輪の塔とは云うけれども、地・水・火の三輪をとどむるだけで、ふうくうの二輪は見当らなかったと云う。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
ただソレをくうに信じてい気になって居ては大間違おおまちがいが起るから、大抵たいてい江戸の学者の力量を試さなければならぬと思て
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
ツと寄ッた昇がお勢のそばへ……くうで手と手がひらめく、からまる……としずまッた所をみれば、お勢は何時いつか手を握られていた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
しかも一たび「因縁の原理」に目覚め真に「般若はんにゃくう」に徹したものは、生のはかなさを知ると同時にまた、生の尊さを知るのです。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
積まれ積まれる白紙は、所定の、高さにかさむと、目の廻る速度でまた除去して、くうにし、空へまた奔って来て乗る白紙へ備えねばならぬ。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
それで後ろ向きになるやいなや、石炭の土手が足の下でくずれて、両足をのばし、両手はくうをつかんだまま、かれはまっ暗なあなの中に落ちこんだ。
今度の殴打はどうした加減か、照子を前のめりにのめらせた。照子は手をくうに泳がせて、倒れる身体を支えようと矢萩のチョッキに手をかけた。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
そこで三人はにやにや笑って何事か囁き合い乍ら、今度は茶の間の畳の上を廓大鏡を出して、検査したが、やはり、彼等の努力はくうに帰した。
犬神 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
すると突然、すっくと立上り、両腕をくうに打振り、それから一塊の物質のように、地面へ俯向うつむけにばたりと倒れたのが、クリストフの眼についた。
というのは、彼が聞えもせぬなにかの物音に耳をすましてでもいるように、非常に注意深い態度で長いあいだじっとくうを見つめているのを見たからである。
義男も疲れてゐた。二人の神經はある悲しみの際に臨みながら、その悲しみを嘲笑のくうの中にお互に突つ放さうとする樣な昂奮を持つてゐた。
木乃伊の口紅 (旧字旧仮名) / 田村俊子(著)
くうに聳えた感じのする橋で、下の方に電車が走っており、更に下の方に、掘割のどす黒い水が淀んでいて、夜分のこと故、その水に灯が映って夢のようです。
かいなが動き出した。片手は、まっくらなくうをさした。そうして、今一方は、そのまま、岩牀いわどこの上を掻きさぐって居る。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
そして、そこに、青ざめて身動きもせず坐ったまま、脣をかんで、じっとくうを見つめている、まるで人が違ったかと思われる、千代子の姿を発見したのです。
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
わたくしは息を呑んだとも、手にくうを掴んだとも形容し切れない気持で、たゞ追い眺めていますと、霧の中から先生の声が聞えて来ました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
夜目にもさかんな月見草が微風そよかぜに揺れてゐる河堤で漸く私は馬車のうしろにぶらさがつた。鞭の昔が痛々しくくうに鳴つてゐた。
武者窓日記 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
そのとき、正吉しょうきちのからだも、いっしょにからはなれて、くうでもんどりち、地上ちじょうへとちました。
心の芽 (新字新仮名) / 小川未明(著)
さて暫くくうにらみいて、忽ち激しき運動にて両手を顔に覆い、両肱りょうひじを机に突き、死人の如く動かずにすわりいる。
㷔々えん/\たる猛火まうくわうみてらして、同時どうじ星火せいくわはつする榴彈りうだんはつぱつくう
そして、まるで、闇太郎その人が、目の前にいでもするように、歯がみをして、くうにらんだものの、やがて、瞳の光を消し下唇をくわえて、うなだれた。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
信一郎は、いらいらしくなつて来る心を、ぢつと抑へ付けて、湯河原の湯宿に、自分を待つてゐる若き愛妻の面影を、くうに描いて見た。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
自分にも明瞭はっきりとは分らない、ただ憎いと思う者をなぐる気で、頭の横のくうを打ち払い打ち払い歩いて来たのだが
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
それをばピンセットの尖に持ち上げられた腱を凝視しながら理解しようとしてる者もあれば、くうを睨んで理解しようとしてる者もある。
レンブラントの国 (新字新仮名) / 野上豊一郎(著)
はっと思って二人ににん退さがる途端に身をかわしてくうを打たせ、素早く掻潜かいくゞって一人いちにんの利腕を捩上げ、一人ひとり
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
作者はくうりて想ひ得しなるべく、又まことに空に憑りて想ひ得たりとせんかた、藍本らんぽんありとせんよりめでたからん。
二本の指先で、頬にある奇妙な生毛の一つをつまんで、四半時ぐらいそれをひねり廻しながら、彼はくうを見つめて、一行も進まない。
トリスタン (新字新仮名) / パウル・トーマス・マン(著)
この話を聞いてから、ボブロフは第七号舎に帰つて見た。併しブランはまだなんの用意もしてゐない。只あちこち歩き廻つて、くうを見て独語を言つてゐるのである。
その常の如く汝をくうにむかはしむ、そも/\汝の見るものは、誓ひを果さゞりしためこゝに逐はれしまことの靈なり 二八—三〇
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
「いや、さうぢやねえ。俺がくうに考へて居たんぢや、本當か嘘か見當が付かねえ。房州まで行つて本當のところを突き止めて歸つたから、安心して出向かれるんだ」
第八 冬日地中ヨリ発スル蒸気ヲ遏抑あつよくシ冬天以テ暗晦ヲ致サズ もし冬日ノ地気ヲシテほしいままくうニ満タシムレバ冬日更ニ昏暗ヲ致スベキナリ
(新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
しかし、彼女が一口も返事をせず、ぢつとくうを見つめた眼にだんだん涙がにじんで来るのを見て、たうとう根気負けがしたらしく、
落葉日記 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
ある晩医学士が来た時、病人は丁度ショペンハウエルの一巻を布団の上に伏せて、いやな顔をしてくうを見ていた。そばには女が手為事てしごとをしていた。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
私はただかうして、その幻しのつづいてゐる間、このまなかひの、くうの空なるその空間スペースを眺めてゐればいいのである。
(旧字旧仮名) / 三好達治(著)
そうなると、鏡のうちの彼女からは、彼がくうを見ているように眺められて、眼と眼がぴったりと出合わないために、かえって相互の心を強く接近させるかとも思われた。
「一切の苦厄をだしたまう、舎利子、しきくうに異らず、空は色に異らず、色すなわち是れ空、空即ち是れ色、受想行識じゅそうぎょうしきもまた是の如し」
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
元より見事に、——と思ったのに、八人おそって、八人仕損じたことのない直人の剣が、どうしたことかゆらりとくうに泳いだ。
流行暗殺節 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
れ我国たるや、現今戦勝後の隆盛を誇るも、然れども生産力の乏しきと国庫のくうなるとは、世評の最も唱うる処たり。
関牧塲創業記事 (新字新仮名) / 関寛(著)