みなぎ)” の例文
一種、眼のくらみそうなにおいが室内にみなぎって、周蔵は起上って坐っていたが、私の入って来ると同時にまたごろりところんでしまった。
黄色い晩 (新字新仮名) / 小川未明(著)
二十六年の来し方が夜明け前の朝靄に包まれていたとすれば、いま雲をひき裂いて日が昇り、朝の光が赫燿とみなぎりだすような感じだ。
菊屋敷 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
夜気やき沈々たる書斎のうち薬烟やくえんみなぎり渡りてけしのさらにも深け渡りしが如き心地、何となく我身ながらも涙ぐまるるやうにてよし。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
稲荷町へ行き着いてみると、富蔵の家は半焼けのままでくずれ落ちて、せるような白い煙りは狭い露路の奥にうずまいてみなぎっていた。
半七捕物帳:17 三河万歳 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
私も、その日ほどおびただしいのは始めてだったけれど、赤蜻蛉の群の一日都会にみなぎるのは、秋、おなじ頃、ほとんど毎年と云ってもいい。
縷紅新草 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
噴水の銀線は日にかゞやけり。柱弓せりもちの下にはたふあまた置きたるに、家の人も賓客も居ならびたり。群衆は忽ち寺門よりみなぎり出でたり。
その月よりも青い死色がみるまに面上へみなぎって来たとき、ふしぎにも少しのみだれもない小声で、光秀は、のあとを、こうつづけた。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かおを洗い全身の冷水摩擦れいすいまさつでもすると、体中の血液はみなぎあふるる様な爽快を感ずることは、今日も青年時代と少しも異なるところがない。
いや、怪しいと云ったのでは物足りない。私にはその顔全体が、ある悪意を帯びた嘲笑をみなぎらしているような気さえしたのである。
黒衣聖母 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
東は富士河みなぎりて流沙りうさの浪に異ならず。かかる所なればおとなふ人もまれなるに、加樣かやう度々たび/\音信おんしんせさせ給ふ事、不思議の中の不思議也。
あかりのみなぎっている賑やかな広間であるにも拘らず、彼は何だか遠く懸離かけはなれた、暗いところへ島流しにでもされたような気持がした。
孤独 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
肴屋さかなや、酒屋、雑貨店、その向うに寺の門やら裏店うらだなの長屋やらがつらなって、久堅町ひさかたまちの低い地には数多あまたの工場の煙筒えんとつが黒い煙をみなぎらしていた。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
一九二八年製——をSIPしようてんだから、これは仲なかどうして地球的に荒っぽい意気さのみなぎるじんぎだと言わなければならない。
食後の一服を氏は予想していなかったが、そう問われてみると、押えがたい喫煙の欲が、冷えた指の先々までみなぎってくるのだった。
地図にない街 (新字新仮名) / 橋本五郎(著)
軟かい飯粒を、一粒一粒つまみあげて、静かに味わって喜ぶほど、彼女のうちにはこまやかな、芳醇ほうじゅんな情緒がみなぎっていたのである。
日は輝けり (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
それはさて置き、若い血汐のみなぎっている有難さ、新夫婦はズン/\回復した。看護婦もお暇が出て、初めて水入らずの新家庭になった。
女婿 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
いまだほどへざるに悲鳴み、これに代えてさらに怖るべき物のを聞き出でたるがごとく、恐怖の流れ、みなぎり脈打つがごとき間。
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
翌日あくるひ文鳥は鳴かなかった。粟を山盛やまもり入れてやった。水をみなぎるほど入れてやった。文鳥は一本足のまま長らく留り木の上を動かなかった。
文鳥 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
復習さらい直しをしていた老妓は、三味線をすぐ下に置くと、内心口惜しさがみなぎりかけるのを気にも見せず、けろりとした顔を養女に向けた。
老妓抄 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
だが土用を過ぎると急に天地の色から一つ何物かが引去られ、寂寞せきばくと空白がみなぎり初める。私はいつもその不思議な変化をあじわって眺める。
怒る時は鼻柱から眉宇びうにかけて暗澹あんたんたる色をみなぎらし、落胆する時は鼻の表現があせ落ちて行くのが手に取るように見えるまで悄気しょげ返る。
鼻の表現 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
彼は、奥歯をじっと噛んで、ますます殺気のみなぎる瞳で、門倉平馬のめ下ろす視線を、何のくそと、はじき返そうと足掻あがくのだった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
暫くして女がふと心付くと、く寐た跡のように爽快な感じが体中からだじゅうみなぎっていた。女は立ち上がって、卸してあった窓掛を巻き上げた。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
しかし外面おもてからたのとはちがって、内部なかはちっともくらいことはなく、ほんのりといかにも落付おちついたひかりが、へや全体ぜんたいみなぎってりました。
心の奥底には一つの声が歌となるまでにみなぎり流れている。すべての疲れたる者はその人を見て再びその弱い足の上に立ち上がる。
二つの道 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
惟念には初めての薪作務が、なんとなく嬉しかった。彼は僧堂の生活に入って以来、両腕にみなぎってくる力の過剰に苦しんでいた。
仇討三態 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
一方国際的には、支那事変が漸く本格的なかおあらわして来て、今更研究どころではないという風潮がそろそろ国内にみなぎり出した時期である。
原子爆弾雑話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
語調の可笑しさの正體がそれと知れてくると、その可笑しさが次から次へと移つて行つて、ひそやかなどよめきが教室の中にみなぎつた。
猫又先生 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
彼は手記の中に書いている「このすばらしい自然の風光を眺めながら私の心はみなぎり溢れる。しかも私のそばに彼女はいない!」と。
ここが、助かるか助からないかの瀬戸際という意気が、目にも顔にも、燃えるようにみなぎっている。案の定、セルカークはうっとりとした声で
人外魔境:10 地軸二万哩 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
まぶしいような電燈の灯影ほかげみなぎったところに、ちょうど入れ替え時なので、まだ二人三人のたちが身支度をして出たり入ったりしている。
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
従ってトスカニーニの演奏したものは、五分の隙もない精緻な美しいものであると同時に、驚くべき情熱と気魄とがみなぎっている。
日によって庭にはどうかすると、砲兵工廠から来る煙がみなぎり込んで、石炭かすが寒い風に吹き寄せられて縁の板敷きに舞っていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そこで、ぷっつりと得意の鼻唄を断ち切って、悲愴きわまりなき表情を満面にみなぎらしてみたが、やがて櫓拍子は荒らかに一転換を試みて
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
一種微妙な人間性を、直截簡潔の筆で描き、醒気を紙面へみなぎらせたのは、小酒井さんとしては常套手段、それでいて矢張やはり結構であります。
二つの作品 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「先生が……では先生がそんなことを……」彼女の表情にはまぎれもない憤怒ふんぬの色がみなぎった。僕はここぞとたきつけることを忘れなかった。
或る探訪記者の話 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
これ位ならまだいいとして、汗臭氛々ふんぷん用捨なく室内にみなぎるには、日光行きのハイカラ先生少なからず顔をしかめておったわい。
劈頭へきとうの「汝らのみまことに人なり、智慧は汝らと共に死なん」とある語をはじめとし、以下すべてにこの冷笑的気分がみなぎっている。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
ニタニタ笑いを顔一杯にみなぎらせながら、彼の口を私の耳のそばまで持って来て、前よりは一層低い、あるかなきかの声で、こういったのである。
二銭銅貨 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
草木の葉が、素晴らしいいきおいで、一度に新芽を吹くと同時に、己の体にも何だか生き生きとした気力がみなぎり溢れて来るようだ。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
文吉ぶんきちみさおを渋谷にうた。無限の喜と楽と望とは彼の胸にみなぎるのであった。途中一二人の友人を訪問したのはただこれが口実を作るためである。
愛か (新字新仮名) / 李光洙(著)
もう、早くから、はじまっていたらしく、座には、殺気のようなものが、みなぎっているのが感じられた。むんむんする人いきれがただよっている。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
突然、順一は長火鉢ながひばちの側にあったネーブルの皮をつかむと、向うの壁へピシャリとげつけた。狂暴な空気がさっとみなぎった。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
いや、この庄司と云う人は例外的な人で、恐らくいくつになってもみなぎるような意気と、良心とを捨てる人ではないと思う。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
自分のたなごころのなかに彼女の手をにぎめていると、わたくしのこの胸には、それまで想像だもしなかったほどの愉しい気持ちがみなぎって来るのでした。
(新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
家内うちればわたしそばばつかりねらふて、ほんに/\かゝつてなりませぬ、何故なぜ彼樣あんな御座ござりませうとひかけておもしのなみだむねのなかみなぎるやうに
十三夜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
みなぎつた朝の日光が、高い玻璃戸から側の窓硝子から輝かに清く靜寂の浴場のなかにみなぎつて、湯つぼは碧色に深く濃く湖のやうに平かであつた。
三十三の死 (旧字旧仮名) / 素木しづ(著)
どうしたことか今までとは打って変って、その顔色はひどく蒼褪あおざめ、烈しい疑惑と苦悶の色が、顔一パイにみなぎっていた。
三狂人 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
庖丁をとぐ音、煮物揚物の用意をする音はお三輪の周囲まわりに起って、震災後らしい復興の気分がその料理場にみなぎあふれた。
食堂 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
五月頃は水田に水がまんまんとみなぎつてゐて、ところどころに白鷺しらさぎが下りてゐる。白鷺は必ず小さな群を成して、水田に好個の日本的画趣を与へる。
智恵子抄 (新字旧仮名) / 高村光太郎(著)