彼岸ひがん)” の例文
上目黒へ移ってから三年目の夏が来るので、彼岸ひがん過ぎから花壇の種蒔たねまきをはじめた。旧市外であるだけに、草花類の生育は悪くない。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
八五郎がやつて來たのは、彼岸ひがん過ぎのある日の夕方、相變らず明神下の路地一パイに張り上げて、走りのニユースを響かせるのでした。
彼岸ひがんのころの雨降りあげくにかわきかけた町中の道が正香らの目にある。周囲には今か今かと首を延ばして南の方角を望むものがある。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それは真に現実を遊離した彼岸ひがんの楽境である。社会は今かかる理想を描くことを余儀なくするほど、悪と醜さと苦しさとに沈んでいる。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
この意味で此岸と彼岸との別は現世と死後との別ではないであろう。死後と生前とを問わず、真理に入れる生活が彼岸ひがんの生活なのである。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
と言うのはその秋の彼岸ひがん中日ちゅうにち、萩野半之丞は「青ペン」のお松に一通の遺書いしょを残したまま、突然風変ふうがわりの自殺をしたのです。
温泉だより (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
昭和十一年の秋の彼岸ひがんに私は多磨墓地に行った。雨のしきりに降る日で事務所で調べるのに手間どったがついにたずね当てることが出来た。
三筋町界隈 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
四月にいたれば田圃たはたの雪もまだらにきえて、去年秋の彼岸ひがんまきたる野菜やさいのるゐ雪の下にもえいで、梅は盛をすぐし桃桜は夏を春とす。
妙見の長い山脚を越えて、千々岩岳、吾妻岳、九千部くせんぶ岳などが蒼茫そうぼうとして暮行くれゆく姿を見せ、右方うほう有明海の彼岸ひがんには多良たら岳が美しい輪廓りんかくを描く。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
けれども、お彼岸ひがんのおまいりにいったかえりなので、やんまをたすけてやったとおもうと、いいことをしたともかんがえたのでした。
やんま (新字新仮名) / 小川未明(著)
多くそのときの季節や月日にちなんだ話であった。彼岸ひがんのことや屈原くつげんについての小話があったのを覚えている。私を除いた三人の先生が話をした。
西隣塾記 (新字新仮名) / 小山清(著)
人々は「さび」や「渋味」や「枯淡」やの老境趣味を愛したけれども、青空の彼岸ひがんに夢をもつような、自由の感情と青春とをなくしてしまった。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
「まいちど、叡山へのぼるがよい。そして、あせらず、逃避せず、そして無明むみょうをあゆむことじゃ。歩むだけは歩まねば、彼岸ひがんにはいたるまいよ」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
春秋はるあき彼岸ひがんにはお寺よりも此人の家の方が、餅を澤山貰ふといふ事で、其代り又、何處の婚禮にも葬式にも、此人のばれて行かぬ事はなかつた。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
松葉越まつばごしに見えましょう。あの山は、それ茸狩たけがりだ、彼岸ひがんだ、二十六夜待やまちだ、月見だ、と云って土地の人が遊山ゆさんに行く。あなたも朝夕見ていましょう。
縁結び (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
いちばんよく知られているのは神を祭る日、正月とぼん彼岸ひがん、その他節供せっくといって一年のうちに何回か、業を休んで祝う日にもしながわりができた。
母の手毬歌 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
まだ彼岸ひがんだといふのに、ある朝、合服あひふくを着て往来へ出たら、日蔭の片側が寒くて、われ知らず日の当る方を歩いて居た。やはり信濃路だなと思つた。
野の墓 (新字旧仮名) / 岩本素白(著)
彼岸ひがんに達せんとすれどもながれ急なればすみやかに横断すべくもあらず。あるひは流に従つて漂ひあるひは巌角がんかくぢていこひ、おもむろにその道を求めざるべからず。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
丁度秋の彼岸ひがんの少し前頃のことだと覚えている。その時分毎日のように午後の二時半頃から家をでては、中川べりの西袋にしぶくろというところへ遊びに出かけた。
蘆声 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
秋の彼岸ひがんごろに花咲くゆえヒガンバナと呼ばれるが、一般的にはマンジュシャゲの名で通っている。そしてこの名は梵語ぼんご曼珠沙まんじゅしゃから来たものだといわれる。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
しかし相対原理が一般化されて重力に関する学者の考えが一変しても、りんごはやはり下へ落ち、彼岸ひがん中日ちゅうにちには太陽が春分点に来る。これだけは確実である。
春六題 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
……彼岸ひがんの中日から以後十日までのあいだは中川の川口、それ以後は、つくだと川崎が目当て場になります
顎十郎捕物帳:04 鎌いたち (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
これに対して、理想の世界、悟れる自由な世界を称して、かの岸、すなわち「彼岸ひがん」といっています。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
彼岸ひがんぎてうだことつちやおべえてからだつで滅多めつたにやねえこつたかられからぬくとるばかしだな、むぎ一日毎いちんちごめらこしたな」卯平うへいやゝこゝろよげにいつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
式部が此の教義に直接に照らされ現実と理想に距離を感ずれば感ずる程人生の複雑矛盾を発見したことであったろう。嘆きの深さは此岸しがん彼岸ひがんとの距離の幅より来る。
昨日きのう彼岸ひがん中日ちゅうにちである事を自分はこの牡丹餅によって始めて知ったのである。自分はあによめの顔を見て真面目に「食べませんか」と尋ねた。彼女はたちまち吹き出した。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
いちばん最初の事件は……なんでも、芝神明しばしんめい生姜市しょうがいちの頃でしたから、九月の彼岸ひがん前でしたかな……刑事部の二号法廷で、ちょっとした窃盗事件の公判がはじまったんです。
あやつり裁判 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
しかしながら最高絶対の真理や価値は、地上の人間にとっては、ただ無限の彼岸ひがんでのみ認識せられ得るもので、この世の中で簡単にとらえ得るようなものではないのである。
政治学入門 (新字新仮名) / 矢部貞治(著)
子には襤褸ぼろを下げさせ家とては二畳一間のこんな犬小屋、世間一体から馬鹿にされて別物にされて、よしや春秋はるあき彼岸ひがんが来ればとて、隣近処に牡丹ぼたもち団子と配り歩く中を
にごりえ (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
瀬戸を過ぐれば秋の彼岸ひがん蚊帳かやを仕舞う。おかみや娘の夜延よなべ仕事が忙しくなる。秋の田園詩人の百舌鳥もずが、高い栗の梢から声高々と鳴きちぎる。栗がむ。豆の葉が黄ばむ。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
一舟の中に乗ぜば安全なる彼岸ひがんに達せしむるまでは、共に力を此に致さざるべからず、来れ老人よ、青年よ、仏教家よ、「クリスチァン」よ其相互の感情に於ては冷かなるも
首尾しゅび彼岸ひがんに達して滞在たいざい数月、帰航のき、翌年うるう五月を以て日本に安着あんちゃくしたり。
つまり海面と防潜網との隙間を行くものではあるが、こいつを何千何万せきとぶっ放すと、彼岸ひがんに達するまでに、彼我ひがの水上艦艇に突き当るから、ただちに警報を発せられてしまう。
去年きよねん彼岸ひがんが三月の二十一日なれば今年ことし彼岸ひがん丁度ちやうど其日そのひなり。かつ毎年まいねん日數ひかず同樣どうやうなるゆゑ、一年とさだめて約條やくでうしたること丁度ちやうど一年の日數ひかずにて閏月しゆんげつため一箇月いつかつき損徳そんとくあることなし。
改暦弁 (旧字旧仮名) / 福沢諭吉(著)
三月末の彼岸ひがんざくらがほころびそめる時分のことで、きらきらしい日ざしの底にまだ何処となく肌寒さが感ぜられたが、要はうすい春外套がいとうたもとの外へこぼれている黒八丈の羽織の生地きじ
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
物語はこれより大潮に乗って、一路、怒濤重畳どとうちょうじょう彼岸ひがんをさしてすすみます。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
今年の寒さはいつまでも続いて、彼岸ひがんが過ぎたというのに、冬装束を脱することの出来ぬ有様ですけれど、硝子ガラス戸越しに書斎にはいって来る太陽の光は、何となく春めいた暖かい感じを起させました。
体格検査 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
くだんの男色蛇に似た事日本にもありて、『善庵随筆』に、水中で人を捕り殺すもの一は河童、一はすっぽん、一は水蛇、江戸近処では中川に多くおり、水面下一尺ばかりを此岸しがんより彼岸ひがんへ往くはやのごとし。
彼岸ひがんと調和との思慕に急ぐのは必然かつ当然なることである。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
「そうです。もう彼岸ひがんじゃというのに」
二十四の瞳 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
彼岸ひがんだといふのに、暑いことはこれ
畑の祭 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
命婦みょうぶより牡丹餅たばす彼岸ひがんかな
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
彼岸ひがんまいりにさそわれて
たにしの出世 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
彼なぞの最も知りたく思うことは、いかにしてあの大先輩がそれほどの彼岸ひがんに達することができたろうかというところにある。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
四月にいたれば田圃たはたの雪もまだらにきえて、去年秋の彼岸ひがんまきたる野菜やさいのるゐ雪の下にもえいで、梅は盛をすぐし桃桜は夏を春とす。
彼岸ひがんを過ぎたばかり、秋の行樂の旅にはまだ早過ぎますが、海道筋は新凉を追つて驛馬の鈴の音も、日毎にしげくなる頃です。
作る者はこの世の凡夫であろうとも、作る器においてはすでに彼岸ひがんの世に活きる。自らでは識らずとも、すべてが美の浄土に受けとられている。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
爺は後生が恐ろしいと申すが、彼岸ひがんに往生しょうと思う心は、それを暗夜あんや燈火ともしびとも頼んで、この世の無常を忘れようと思う心には変りはない。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そしてこの恋人は、過去にも実在した如く、現在にも実在し、時間と空間の彼岸ひがんにおいて、永遠に悩ましく、恋しく、追懐深く慕われるのである。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
「何、かまいません。友が生涯の彼岸ひがんに迷っていることを思えば、一日の道をもどるくらい、何のことでもありません」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)