ほう)” の例文
いや、司馬懿しばいは自らほうを請うて西涼州へ着任しました。明らかに、彼の心には、魏の中央から身を避けたいものがあるのでしょう。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しん王以下は、永楽えいらくに及んで藩に就きたるなれば、しばらくきて論ぜざるも、太祖の諸子をほうじて王となせるもまた多しというべく
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
阿部家はついで文政九年八月に代替だいがわりとなって、伊予守正寧まさやすほういだから、蘭軒は正寧の世になったのち足掛あしかけ四年阿部家のやかた出入いでいりした。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
西軍の将のほうを失う者八十余人、その結果浮浪の徒が天下に満ち、後の大阪陣には、これら亡命変を待つの徒が四方から馳せ集ったために
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
これ程の人物なら、大臣にでもすれば好かつたとか、国王にでもほうずれば好かつたとか云ふだらう。君だつて考へて見給へ。
唐国に使いして多くの文書宝物を得て帰った吉士長丹きしのちょうたんの労をよみして位をのぼし、ほう二百を給し、呉氏くれうじの姓を賜わった如きは、唐国をクレと称し
国号の由来 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
太公望呂尚は、せいほうぜられて、人民に生業のみちを教えたので、海辺の人々が、そこの利益の多い生活を慕って、斉の国にやってきたのです。
翌年七月、けんもつ忠善は三河のくに吉田城へとほうを移された。それでみよも吉田へゆく決心をした、六兵衛と家人たちは言葉をつくしてとめた。
日本婦道記:箭竹 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
... きみとくをさめずんば(八六)舟中しうちうひとことごと敵國てきこくたらん』と。武矦ぶこういはく『し』と。(八七)すなは呉起ごきほうじて西河せいがしゆす。はなは(八八)聲名せいめいり。
かれは伊達綱宗つなむね側室そばめで、その子の亀千代かめちよ綱村つなむら)が二歳でほうをつぐや、例のお家騒動が出来しゅったいしたのである。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
媾和の交渉は色々曲折があるが、明使、「なんじほうじて日本国王と為す」の国書をもたらした為、秀吉を怒らしむることになり、媾和も全く破れて再度の朝鮮出兵が起る。
碧蹄館の戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
寛永十五年島原の切支丹きりしたん宗徒の乱が平定したとき、祖父の摂津守忠房せっつのかみただふさ島原城主として四万石をみましたが、間もなく旅先で歿し、父の左近太夫高長そのほうを継ぎました。
いわばそこへほうぜられたようなものでそこにはその地に属するところの平民がある。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
小牧山こまきやま合戦の際には秀吉も入城したことがあったというのだが、天下が家康に帰してからは、尾州びしゅう侯の家老成瀬隼人なるせはやとほうぜられ、以来明治維新まで連綿として同家九代の居城として光った。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
元封げんぽう元年に武帝が東、泰山たいざんに登って天を祭ったとき、たまたま周南しゅうなんで病床にあった熱血漢ねっけつかん司馬談しばたんは、天子始めて漢家のほうを建つるめでたきときに、おのれ一人従ってゆくことのできぬのをなげ
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
左様な要害なればこそ、この国が天領であって、柳沢甲斐守以外にはほう
およそ安政、万延のころに井伊大老を手本とし、その人の家の子郎党として出世した諸有司の多くは政治の舞台から退却し始めた。あるものはほう一万石を削られ、あるものはろく二千石を削られた。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「私はほうというものです。范十一娘のれでした。」
封三娘 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
「いちど呉へかえって、同志を語らい、ひそかに計をほどこして給わらぬか。もし成功なせば、貴下を三公にほうずるであろう」
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
然らば宗家のほうを削らせて、我家の禄を増させようとでもしたのだらうか。これは亀千代が八歳の時の出来事である。
椙原品 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
景帝けいてい太子たりし時、博局はくきょくを投じて呉王ごおう世子せいしを殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯ちょうさくの説を聴きて、諸侯のほうを削りたり、七国の変は実にこれに由る。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
唐に欧陽詢おうようじゅんという大学者がありまして、後に渤海男ぼっかいだんほうぜられましたが、この人の顔が猿に似ているというので、或る人がいたずらにこんな伝奇を創作したのであって
往古いにしへに富める人は、四〇天の時をはかり、地の利をあきらめて、おのづからなる富貴ふうきを得るなり。四一呂望りよぼうせいほうぜられて民に産業なりはひを教ふれば、海方うなべの人利に走りて四二ここに来朝きむかふ。
老子らうし隱君子いんくんしなり。老子らうしそうそうしやうり、段干だんかんほうぜらる。そうちうちうきうきう玄孫げんそんかん孝文帝かうぶんていつかふ。しかうしてかい膠西王卬かうせいわうかう(一六)太傅たいふる。
さん、伊の三ヵ国は、阿波を蜂須賀正勝に、讃岐さぬきを仙石権兵衛に、伊予いよを小早川隆景に、それぞれ分割してほうぜられた。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かくの如きの人にして、みかどとなりて位を保つを得ず、天に帰しておくりなあたわず、びょう無く陵無く、西山せいざん一抔土いっぽうどほうせずじゅせずして終るに至る。嗚呼ああ又奇なるかな。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
明治元年に徳川家があらたにこの地にほうぜられたので、正直は翌年上総国市原郡いちはらごおり鶴舞つるまいうつった。城内の家屋は皆井上家時代の重臣の第宅ていたくで、大手の左右につらなっていた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「ぜひ自分に代って、徐州侯のほうを受けてもらいたい、自分には子もあるが、柔弱者で、国家の重任にたえないから——」
三国志:03 群星の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
淳化三年進士及第して官に任じて、其政事の才により功を立てて累進して丞相じょうしょうに至り、真宗の信頼を得、乾興元年には晋国公にほうぜらるるに至った。蘇州節度使だった時、真宗の賜わった詩に
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
太田は祖父伝左衛門が加藤清正に仕えていた。忠広がほうを除かれたとき、伝左衛門とその子の源左衛門とが流浪るろうした。小十郎は源左衛門の二男で児小姓こごしょうに召し出された者である。百五十石取っていた。
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「甘寧の功は大きい。都尉といほうじてやろう」といい、また江夏の城へ兵若干をのこして、守備にあてようとはかった。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
元禄げんろく庚午かうごの冬、しきりに骸骨がいこつを乞うて致仕ちしす。はじめ兄の子をやしなうて嗣となし、つひにこれを立て以てほうがしむ。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
松下嘉兵衛まつしたかへえは、遠州えんしゅうの産で、根からの地侍じざむらいであったが、今川家からほうを受けているので、駿河旗本するがはたもとの一人であり、ろく三千貫、頭陀山ずだやまとりでを預かっている。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
よろこぶときは度を外して歓ぶ。信長の性情に見る特質である。彼はまた朱印しゅいんをもって、秀吉を播州ばんしゅう探題たんだいほうじた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
昨秋、伊勢長島城に移って、伊賀、伊勢、尾張三州で百七万石のほうを持ち、位官は従四位下右近衛中将。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
越後中将光長えちごちゅうじょうみつながほうを没収して幽閉ゆうへいし、連累れんるいをことごとく処分に付したのだから、当時の官民は
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
臣が、西涼のほうを望んだのは、決して私心私慾ではありません。その地の重要性にかんがみて、ひそかに蜀に備えんがためであります。どうかもう少しご静観ください。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「お兄上の長可ながよしどのにも、信濃四郡のほうを受けられ、まことにおおぼえのめでたいことで」
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
曹操は、田疇の功を賞して、柳亭侯にほうじたが、田疇はどうしても受けない。
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
柳沢美濃守吉保やなぎさわみののかみよしやすほうぜられている甲府城の外濠そとぼり
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)