口惜くちお)” の例文
いかほどお前たちが口惜くちおしく存じてもせんない事さ。とかく人の目を引くような綺麗なものは何ののとねたまれ難癖を付けられるものさ。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
まして宮中のことではなしさ、ほかからは結構なお身の上に見られておいでになっても、口惜くちおしいこともあれでは多かろうじゃないか。
源氏物語:35 若菜(下) (新字新仮名) / 紫式部(著)
それを思いますと、あらためてまた桃花坊のあの口惜くちおしい日のことも思いいでられ、この胸はただもう張りさけるばかりでございます。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
それであッてこのありさま,やいばくしにつんざかれ、矢玉の雨に砕かれて異域の鬼となッてしまッた口惜くちおしさはどれほどだろうか。
武蔵野 (新字新仮名) / 山田美妙(著)
葛木は、これさえあれば、何事もない、と自覚したのに、実際無いのを口惜くちおしそうに、も一度名刺入を出して、中を苛立いらだって掻廻かきまわしたが
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しかも摩利信乃法師の容子ようすでは、私どももただ、神仏をなみされるのが口惜くちおしいので、闇討をしかけたものだと思ったのでございましょう。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
いわゆる一山とんで一山来るとも云うべき景にて、眼いそがしく心ひまなく、句も詩もなきも口惜くちおしく、よどの川下りの弥次よりは遥かに劣れるも
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
「これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜くちおしまぎれの、負けおしみなどと思われましても……」
剣侠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
今朝けさから、わしの作は、十幾振も試しておるのじゃ、それと互角には申されまいが、口惜くちおしくば、猶、二刀三刀、数を重ねて、試してみよ』
山浦清麿 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あゝ、ほんとうに、他人の其方そちが聞いてさえ好い心持はしないのですもの、その時のわたしの口惜くちおしさはどれほどでしたか。
油汗を鼻頭はなさきににじませて、下唇したくちびるを喰締めながら、暫らくの間口惜くちおしそうに昇の馬鹿笑いをする顔を疾視にらんで黙然としていた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
「歯に喰ひあてし」という言葉のひびきに、如何いかにも砂をむような味気あじきなさと、忌々いまいましさの口惜くちおしい情感が現われている。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
もっと詳しく話を聞けば同気相求めて佳境にったでもあろうにと、それなりになったのを、口惜くちおしくも思っている。
南無三なむさんわなにてありけるか。おぞくもられし口惜くちおしさよ。さばれ人間ひとの来らぬ間に、のがるるまでは逃れて見ん」ト。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
ただもう謹直無事な日を送って、華族社会の悪党共——当時青竹の手摺と言われた人種を口惜くちおしがらせて居りました。
『ああ。あの花さえ無ければ、私はあんなにほかの国へ行かなくともよかったのに。そうしてこんなに恥かしい、口惜くちおしい思いをせずともよかったのに』
オシャベリ姫 (新字新仮名) / 夢野久作かぐつちみどり(著)
いはんやメエルハイムの如く心浅々しき人に、イイダ姫嫌ひて避けむとすなどと、おのれ一人にのみ係ることのやうにおもひされむこと口惜くちおしからむ。
文づかひ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
定めて心変りよと爪弾つまはじきせらるるならんと口惜くちおしさ悲しさに胸は張りくる思いにて、もおちおち眠られず。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
僕はそれを想うごとに、友情を表明し得なかった腑甲斐なさを、口惜くちおしく思い、残念に思い、不本意に思って、浅からぬ罪をになっている様な心持がして堪らなかった。
友人一家の死 (新字新仮名) / 松崎天民(著)
所詮しょせんそれは女に生れついたゆえであろうが、さりとは口惜くちおしいことであると、深夜ひそかに鏡の前で、つやつやした吾れと吾が腕をぎゅっとつねってみる光枝だった。
什器破壊業事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
何十人という警官隊が、このたった一挺のおもちゃのピストルの為に、思うがまま飜弄ほんろうされたかと思うと、馬鹿馬鹿しさ、口惜くちおしさに、笑いどころではなかったのだ。
黄金仮面 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
一刀ひとかたなとて怨むこともかなわぬとは、神仏にも見離されしか、かくの如き尾羽打ち枯した身の上になり、殊に盲目の哀しさには、口惜くちおしくも匹夫ひっぷ下郎の泥脛どろずねに木履を持って
「しかも、一人、二人のいのちではない——三人、四人、五人——あるいはそれ以上、その人々の中、手にかけぬうちせるものがあったら、さぞ口惜くちおしかろうが——」
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
うでもひゞ々を義務つとめばかりにおくりて此處こゝこゝろ何處いづこそら倘佯さまよふらん、一〻にかゝることども、女房にようぼうひとられてらぬは良人おつとはなしたゆびさゝれんも口惜くちおしく
われから (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
此の本(千里駒及龍馬伝)の様に誤謬が多くつては私は本当に口惜くちおしいですヨ……。
千里駒後日譚 (新字旧仮名) / 川田瑞穂楢崎竜川田雪山(著)
過ぎ去った事はとがめないにしてもそれがために私までが長い間苦しい思いをしなければならんかと口惜くちおしくなりまして、三百円位の金子きんすなら私の実家さとへ話して出しておもらいなさい
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
名もなき鬼に襲われて、名なき故に鬼にあらずと、いて思いたるに突然正体を見付けて今更眼力のたがわぬを口惜くちおしく思う時の感じと異なる事もあるまい。ウィリアムは真青まっさおになった。
幻影の盾 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
さるを今しもかう無き名など世にうたはれてはじめて処せくなりぬるなん口惜くちおしとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやしき物なりかし、この頃降りつゞく雨の夕べなどふと有し閑居のさま
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
余りの無念口惜くちおしさ。それに因果な身をもはじ入りて、多摩川に身を投げて死のうとしたことが八たびに及んだ。それを発狂と見られて、土蔵の中を座敷牢にして、三年ばかり入れられていた。
怪異暗闇祭 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
それが決して冗談に言っているのではなく、いかにも此の男の無事なのを口惜くちおしがる、つまり自分が前から期待していたような惨劇の犠牲者にならなかったことを憤っているように響くのだ。
虎狩 (新字新仮名) / 中島敦(著)
娘は情こわく笑ッていて、返しそうな様子もないから、自分は口惜くちおしくなり、やッきとなり、目を皿のようにして、たくさんあるところを、と、見廻わした、運よくまた見つけた、向うの叢蔭むらかげ
初恋 (新字新仮名) / 矢崎嵯峨の舎(著)
すゝむる声耳に入りたれどもとより起き上がる事さえ出来ざるわれの渋茶一杯すゝる気もなく黙って読み続くるも実はこのようなる静穏の海上に一杯の食さえかなわぬと思われん事の口惜くちおしければなり。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
しかし畜生ながらに賢いもので、その日の失敗しくじり口惜くちおしく思うものと見え、ただ悄々しおしおとして、首を垂れておりました。二重※ふたえまぶちの大な眼は紫色に潤んで来る。かすかもらす声は深い歎息ためいきのようにも聞える。
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
夫人は口惜くちおしそうに、ジッと美和子をにらみつめながら
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
私耻づかしくて、口惜くちおしくて堪りませんの——
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
それを思ひますと、あらためてまた桃花坊のあの口惜くちおしい日のことも思ひいでられ、この胸はただもう張りさけるばかりでございます。
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
うわさに歌われるような恋をして、最後には捨てられたということを、今度始まったことのように口惜くちおしく悲しくばかり思われるのであった。
源氏物語:10 榊 (新字新仮名) / 紫式部(著)
王子おうじ宇治うじ柴舟しばぶねのしばし目を流すべき島山しまやまもなく護国寺ごこくじ吉野よしのに似て一目ひとめ千本の雪のあけぼの思ひやらるゝにやここながれなくて口惜くちおし。
口惜くちおしゅう思いまする。浅野の御一門には、しゅうにも家来にも、左様な不覚な方は、居らっしゃらない筈でございますのに』
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の寺詣てらもうでに気づかなかった事を口惜くちおしく思った。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ト歯を喰切くいしばッて口惜くちおしがる。その顔を横眼でジロリと見たばかりで、お勢はすまアし切ッて座舗を立出でてしまッた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
この時ぞく周章しゅうしょうの余り、有り合わせたる鉄瓶てつびんを春琴の頭上に投げ付けて去りしかば、雪をあざむ豊頬ほうきょうに熱湯の余沫よまつ飛び散りて口惜くちおしくも一点火傷やけどあととどめぬ。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
いな彼がためにその細君より疑い受けて、そのまま今日に及べるこそ思えば口惜くちおしく腹立たしき限りなれ。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
あんまり羨ましくて情なくて口惜くちおしくて、思わずホロホロと水晶のような露を机の上に落しました。
白椿 (新字新仮名) / 夢野久作海若藍平(著)
例えば、十一番目の「都会」の伴奏の如き、もう少し素直に弾いて、この歌の持っている絵画的な効果を出させたらどんなに良かったろうと口惜くちおしいことに思っている。
口惜くちおしや、口惜しや、焦熱地獄の苦しみ、生きていがたい。のろわしや。土部つちべ浜川はまかわ、横山——にくらしや、三郎兵衛、憎らしや、広海屋ひろうみや——生き果てて、早う見たい冥路よみじの花の山。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
吾らにとっては大敵ながら、花村甚五衛門殿のご器量には、恐れもし敬いもしておったるところ、その人の現在のご子息を、むざむざ殺した口惜くちおしさ、まことに千秋の恨事でござる。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
しかしこの時頭の中にたまった涙は、今が今でも、同じ羽目になれば、出かねまいと思う。苦しい、つらい、口惜くちおしい、心細い涙は経験で消す事が出来る。ありがた涙もこぼさずに済む。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
無念の情は勃然ぼつぜんとして起これり。繊弱かよわ女子おんなの身なりしことの口惜くちおしさ! 男子おとこにてあらましかばなど、言いがいもなき意気地いくじなさをおもい出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それを残念に思うよりも、こんな忍び姿の自身のだれであるかを見現わしてののしられていることが口惜くちおしくてならなかった。
源氏物語:09 葵 (新字新仮名) / 紫式部(著)