あぶ)” の例文
窓を開けて仰ぐと、溪の空はあぶはちの光点が忙しく飛び交っている。白く輝いた蜘蛛の糸が弓形に膨らんで幾条も幾条も流れてゆく。
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
四目垣よつめがきの裾には赤い百合が幾株も咲いていた。わたしは飛んでいるあぶを追おうとして、竹切れでその花の一つを打ち砕いてしまった。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
あぶが刺し、蜂が刺す、大きな毒蟻どくありが噛み、文覚の五体は、しばらくすると無慚むざんな有様となったが、彼は足の指一つ動かさなかった。
それやこれやの思いに暮れて、鶴子はハンケチを口にくわえたまま台所の柱に身をよせかけ、葡萄棚に集るあぶの羽音を聞いていた。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
彼の生の意味と欲望は、婆娑羅ばさらな道にあるだけだ。この世は、欲望の園であり、じぶんは花に飽かないあぶの大王だと思っている。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
大神ゼウスあぶを放ちて馬をさしめ、飛馬狂うてベを振り落し自分のみ登天す。ベは尻餅どっしりさてあしなえとなったとも盲となったともいう。
事務長はあぶに当惑したくまのような顔つきで、がらにもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
東風こち すみれ ちょう あぶ 蜂 孑孑ぼうふら 蝸牛かたつむり 水馬みずすまし 豉虫まいまいむし 蜘子くものこ のみ  撫子なでしこ 扇 燈籠とうろう 草花 火鉢 炬燵こたつ 足袋たび 冬のはえ 埋火うずみび
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
昼の中多く出たあぶは、潜んでしまったが、蚊は仲秋になると、益々あばれ出して来る。日中の興奮で、皆は正体もなく寝た。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
蝶でもあぶでも蜻蛉とんぼでもかげろうでもおよそ水面に近い空間を飛んでいる虫を見れば水中から躍りだして、一気にそれを、ぱくりと食ってしまう。
魔味洗心 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
憂鬱ゆううつな眼付をして、三吉が昼寝からめた時は、あぶにでも刺されたらしい疼痛いたみを覚えた。お俊は髪に塗る油を持って来て、それを叔父に勧めた。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そのあぶ羽音はおとを、くともなしにきながら、菊之丞きくのじょう枕頭ちんとうして、じっと寝顔ねがお見入みいっていたのは、お七の着付きつけもあでやかなおせんだった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
何だろうとそこいらを見まわしますと、そこの白壁によせかけてあったサイダーのビンに一匹のあぶが落ち込んで、ブルンブルンと狂いまわりながら
虻のおれい (新字新仮名) / 夢野久作香倶土三鳥(著)
そして、あぶや黄金虫や——それまで彼女にたかっていた種々いろいろな虫どもが、いきなりおののいたようないっせいに、羽音を立てて、飛び去ってしまった。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
主人が骨牌かるたをやっている間、ピラムはじっとしている。脚をめる。人が通って、その脚を踏もうとすると引っ込める。あぶを噛み殺す。くしゃみをする。
疲れ果てたそして極めて靜かなその場の氣持を壞さない樣に、私はわざわざ座を立つてその蟲を逃がさうとした。見ると、それは大きなあぶであつた。
大山の足に、本来、馬につくべき、ツクツクボーシほどもあるあぶが、血を吸いかけて、その鋭い嘴を刺したのだった。
ようやく筆の持てる頃から絵が好きで、使い残りの紅皿を姉にねだって口のはたを染めながら皿のふちに青く光る紅をとかしてあぶ蜻蛉とんぼの絵をかいた。
折紙 (新字新仮名) / 中勘助(著)
夏近くなって庭の古木は青葉を一せいにつけ、池を埋めたなぎさの残り石から、いちはつやつつじの花があぶを呼んでいる。
老妓抄 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そうして当時の評論を調べて見ると、是等これらの作物が全く問題になって居ない。青木健作氏の「あぶなどは好例である。
長塚節氏の小説「土」 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
あぶが一匹、座敷を横切って庭へ飛去ると、真夏の日はカッと照り出して、青葉の反映が、藤左衛門の帷子かたびらや、白い障子を、深海の色に染めるのでした。
かんかん炎天えんてんにつツつて、うしがなにかかんがえごとをしてゐました。あぶがどこからかとんできて、ぶんぶんその周圍まはりをめぐつてさわいでゐました。
ちるちる・みちる (旧字旧仮名) / 山村暮鳥(著)
春の花にはあぶがうなって、ゲンツィヤナの空色を見つめてると、気が遠くなるようだ、空にはながながと一条の雲が、クリンムルの谷を西南に横ぎって
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
菊、茶山花の香を含んで酒の様に濃い空気を吸いつゝ、余はさながらあぶの様に、庭から園、園から畑と徘徊はいかいする。庭を歩く時、足下に落葉がかさと鳴る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
まるでおよびもつかないわ。青いチョッキのあぶさんでも黄のだんだらのはちめまでみなまっさきにあっちへ行くわ。
ひのきとひなげし (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
嫁御が俯向うつむけの島田からはじめて、室内を白目沢山で、あぶの飛ぶように、じろじろと飛廻しにみまわしていたのが、肥った膝で立ちざまにそうして声を掛けた。
革鞄の怪 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その大都市が、ぶうんぶうんとあぶの飛び交っているこの山中の真昼の睡った空気と瑠璃色の空の下に、今忽焉こつえんとしてその全貌をさらけ出しているのであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
片側には泉嘉門の屋敷の、古びた障子の玄関があって、一匹のあぶが障子の桟へ唸り立てながらぶつかっていた。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
尻尾しっぽでピシッと腹のあぶを打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄せんりつを覚え
人間失格 (新字新仮名) / 太宰治(著)
ヴェランダの上にのせた花瓶かびん代用の小甕こがめに「ぎぼし」の花を生けておいた。そのそばで新聞を読んでいると大きなあぶが一匹飛んで来てこの花の中へもぐり込む。
沓掛より (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
払子は一度それを振ると、大抵の邪念はあぶのやうに飛んでしまひさうに思はれた。「ぢや、これをさし上げるとしよう。掘出し物なんだが、まあ仕方がない。」
遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りてひとり郊外の村々をめぐりたり。その馬はくろき海草をもって作りたる厚総あつぶさけたり。あぶ多きためなり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
晩方ばんがたになると、あぶが、木の繁みに飛んでいるのが見えた。大きな石がいくつも、足許あしもとに転がっている。
過ぎた春の記憶 (新字新仮名) / 小川未明(著)
ビラの代りに、工場の中にあぶか蜂の一匹でも迷いこんだ方が、それより大きな騒ぎになるかも知れないのだ。「虻」と「ビラ」か! それさえ比較にならないのだ。
工場細胞 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
菜の花のそれが眼に浮ぶ、菜の畑の中にかがんで、あぶのブンブンうなるのを聴きながら、本を読んだり
菜の花 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
ぶーんと飛んで行つたのでジガ蜂だといふことを知つた。そして彼が急降下で落下したところには、肥えふとつた大きなあぶがだらしなく足をすくめてころがつてゐた。
ジガ蜂 (新字旧仮名) / 島木健作(著)
けれどもなにごとも取付とっつきが肝心だから、途中でいけなかったなんていうことになるとあぶはちとらずだからね、あたしもよく考えてみて、それからもういちど相談しようよ
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
木の間がくれに洩れる六月の陽が汗をにじませた。羽虫が目先をちらついた。あぶが追いかけて来た。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
赤土の道では油断をすると足をすくわれて一、二回滑りおち巌石がんせきの道ではつまづいて生爪を剥がす者などもある。その上、あぶの押寄せる事はなはだしく、手や首筋を刺されて閉口閉口。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
それから吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、あぶが御腕をいましたのを、蜻蛉とんぼが來てその虻を咋つて飛んで行きました。
朱柄しゆえ麈尾しゆびをふりふり、裸の男にたからうとするあぶや蠅を追つてゐたが、流石さすがに少しくたびれたと見えて、今では、例の素焼すやきの瓶の側へ来て、七面鳥のやうな恰好をしながら
酒虫 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
九谷焼の花瓶に射干ひあふきと白い夏菊なつぎくの花を投込なげこみに差した。中から大きいあぶが飛び出した。紅の毛氈を掛けた欄干てすりの傍へ座ると、青い紐を持つて来て手代が前の幕をかかげてくれた。
住吉祭 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
あぶのような羽虫はむしも飛んでいる。河上ではつりをしている人もいる。何が釣れるのか知らない。底まで澄んでみえるような水の青さだった。時々、客を乗せた屋形船やかたぶねが下りて来る。
田舎がえり (新字新仮名) / 林芙美子(著)
わづかにかく言ひしのみにて、彼は又ためらひぬ、そのひげあぶに苦しむ馬の尾のやうにふるはれつつ
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
六月の末になると、アメリカの花どもがいよいよ猖獗しょうけつして、朝から、蜂がくるあぶがくる。
我が家の楽園 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
蝶もやはりさういふ風にしてゐるし、あぶやあの牛の血を吸ふ大きな蠅も飛んでゐる。場所は上等の処だ。さて、それから仕事だ! じよらうぐもは水際の柳のてつぺんに攀ぢ上る。
翅音はおとをたてて舞っている眼の先のあぶを眺めていたが、不図其奴が鼻の先に止まろうとすると、この永遠の木馬は、矢庭やにわに怖ろしい胴震いを挙げて後の二脚をもって激しく地面を蹴り
ゼーロン (新字新仮名) / 牧野信一(著)
着物も、頸も、下の草も、赤黒く染まって、疵口にはあぶが止まって動かなかった。
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
それは蟻が一生懸命で生殺なまごろしのあぶに取りついているように、ズルズルと引張っては、またはなしてしまい、また引張っては離れ、離れては引張り、引張っているうちに自分の腰が砕け
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
関白の威勢や、三好秀次や浅野長政や前田利家や徳川家康や、其他の有象無象うぞうむぞう等の信書や言語が何を云って来たからと云って、とりの羽音、あぶの羽音だ。そんな事に動く根性骨では無い。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)