へさき)” の例文
フランスの本土とこの「美しき島ベリイルアンメール」をつなぐ定期船は、八月の青いブルタアニュの波をへさきで蹴りながら、いま岩壁を離れたところだ。
へさきの斜の行手に浪から立ちのぼって、ホースの雨のように、飛魚の群が虹のような色彩にひらめいて、繰り返し繰り返し海へ注ぎ落ちる。
河明り (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
玉枝は、その揺れうごくへさきから、身を躍らしかけていたが、咄嗟に、それを見つけた町人の腕にひき戻されて、仰向けに、転がった。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
だが、波浪はろうは、なんとなしに、怒った表情に見える。船のへさきむ白いしぶきが、いまにも檣のうえまでとびあがりそうに見える。
幽霊船の秘密 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「なる程、それが宜しゅう御座いましょう。さアこちらへ……こうなると市助どん、お前は邪魔だから、へさきの方へ行っていなさい」
悪因縁の怨 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
トその垣根へ乗越して、今フト差覗さしのぞいた女の鼻筋の通った横顔を斜違はすっかいに、月影に映す梅のずわえのごとく、おおいなる船のへさきがぬっと見える。
妖術 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「友田」の提灯にとりかこまれて、憂鬱そうに、金五郎が、そのへさきに立っていた。金五郎の乗って来た小伝馬は、とも曳航えいこうされている。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
下京しもきょうの町を離れて、加茂川を横ぎったころからは、あたりがひっそりとして、ただへさきにさかれる水のささやきを聞くのみである。
高瀬舟 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
渡舟はぽんと岸辺をついた竿さおの勢いで、水の面にすべり出た。筒井の渡舟は西の方にへさきを向け、男の渡舟は東の上流に向いて舳を立てた。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
先ほどからへさきへ出て、やや呑み過ごした酔心地えいごこちもいわれぬ川風に吹払わせていた二人の門人種員たねかず仙果せんかは覚えず羨望せんぼうまなこを見張って
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
やがてへさきに経づくえをおなおしなされ、水のおもてにむかってたなごゝろを合わされしずかに御ねんじゅあそばされましたのは
盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
うねる流を傍目わきめもふらず、へさきに立って舟を導く。舟はいずくまでもと、鳥のに裂けたる波の合わぬしたがう。両岸の柳は青い。
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
一人はへさきかいをあやつる少女、一人はともにギタを抱く少年、少女は全身に純白の羽毛のきぬを纒い、少年は真紅の羽毛の衣に包まれている。
地獄風景 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
けれども次第に慣れて来て、ただ時々へさきをぶっつけたり顔に白波をぶっかけられたりするだけで、波の間を革舟を進めて行った。
俊寛も、胸が熱くるしくなって、目頭めがしらが妙にむずがゆくなってくるのを感じた。見ると、船のへさきには、一流の赤旗がへんぽんとひるがえっている。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
砂浜にもやわれた百そう近い大和船は、へさきを沖のほうへ向けて、互いにしがみつきながら、長い帆柱を左右前後に振り立てている。
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
河楊かはやなぎせて、あかかくした枸杞くこえだがぽつさりとれて、おほきなたで黄色きいろくなつてきしふねはがさりとへさきんだのである。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
舟はおの/\二客をへさきともとに載せて、漕手こぎては中央に坐せり。舟の行くことの如く、ララと我との乘りたるは眞先に進みぬ。
ともへさきの二カ所に赤々とかがりを焚いて、豪奢ごうしゃきわまりない金屏風を風よけに立てめぐらし、乗り手釣り手は船頭三人に目ざむるような小姓がひとり。
神州を守るくろがねのうきしろは、へさきに白く波をけり、わが無敵の『富士』は、翼をひろげて、凱旋の羽ばたきをするのである。
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
我にあらはれしかの淑女が、さながら水軍ふなての大將の、ともに立ちへさきに立ちつゝあまたの船につかはるゝ人々を見てこれをはげまし
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
しかして定遠鎮遠以下数艦は、わがその背後に回らんとするより、急にへさきをめぐらして縦陣に変じつつ、けなげにもわが本隊に向かい来たる。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
船が揺れた拍子に、波のあおりを食って、どの舟も一様にゆらゆらと小さな動揺を始めました。為吉はへさきへ行って、立ったまま沖を眺めました。
少年と海 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
水棹みずさおしていつもするようにへさきを砂浜によせ、母親の乗りこむのをまっている大吉の横顔に、いつもとちがったことばがいち早くとんできた。
二十四の瞳 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
素峰子そほうしへさきに立って、白に赤の黒の彩雲閣のフラフを高く高くふりなびかす。ちょうど鉄橋をくぐって出たところである。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
海から細く入江になっていて、伝馬てんまはしけがひしひしとへさきを並べた。小揚人足こあげにんそくが賑かなふしを合せて、船から米俵のような物を河岸倉かしぐらへ運びこんでいる。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
莚包と焼明を持っていた背の高い男のけた焼明の火がへさきにとろとろと燃えだした。小舟は本流へ入って法華寺の別院の前を上流の方へ向っていた。
赤い土の壺 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「——宝船に何か区別があるのかもしれない。へさきが左になってたり右になってたりするんで区別するのかもしれない」
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
よせばいいのに、ボースン——海軍出のおもしろい男だった——は、伝馬のへさきにつっ立って、その功を誇りでもするように、ハンケチを振っていた。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
かかる時浜には見わたすかぎり、人らしきものの影なく、ひき上げし舟のへさきに止まれるからすの、声をも立てで翼打はうちものうげに鎌倉のほうさして飛びゆく。
たき火 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
彼は、慌てて、オールを取り直すと、夢中で池の中心に向つてへさきを向け、遠藤の乗つてゐるボートを捜しはじめた。
双面神 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
図563はへさきにある意匠で、木材に刻み込まれ、線は広くて深く、緑色に塗ってあるが、これを除いては船体のどこにも、ペンキもよごれも見当らぬ。
そこで、徳次はへさきにどつかりと腰を下し、普通とは反対に前にとりつけた舵棒を握るのだ。どぶ、どぶ、どんぶり、ど、といふ風に水が船縁ふなべりをたゝく。
医師高間房一氏 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川たまがわの少し下流で、雷が小舟に落ち、へさきに居た男はうたれて即死、而してともに居た男は無事だった、と云う事を報じた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
沢山の赤や青の藻で飾り立てまして、おかの方から吹く朝風に一度にさっと帆を揚げますと、湧き起るときの声と一緒にへさきを揃えて、沖の方へと乗り出しました。
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
喚きは喚きを呼んで、忽ち太平丸は速力を緩め、推進機の逆廻転をしながらへさきをやや右へ転じた。その刹那に、霧の中からぽっかりと一艘の船影が現われた。
流血船西へ行く (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
へさきに立っている五十近い男が今呼びかけたのは私ではなくて、さっきから私の絵を見ていた中学生であった。
写生紀行 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
これも只の酒をしたゝかにあふつてを押す手も覺束なくなつた船頭の直助と二人、もやつた船のへさきともに別れて、水を渡つて來る凉しい風に醉を吹かれて居たのです。
三四丁のぼると、すきを伺って、相手の頸もとへひらりと飛びこんでくるシャモのように、へさきの向きをかえ、矢のように流れ下りながら、こちらへ泳ぎついてきた。
国境 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
ただ雲の間を潜って、へさきに据えた羅針盤を頼りに、どこをそれというあてもなく昇って行くのである。
月世界競争探検 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
見よ! あちらのへさきすがつた、或霊の腕のたくましさを! と思ふとこちらのともにも、シヤアロンのかいに払はれたのか、真逆様まつさかさまに沈みかかつた、或霊の二つの足のうら!
LOS CAPRICHOS (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
底は平面の長方形でへさきの真中に蛇の頭がぬるっと首を出して居るところの彫刻物が食い付いて居る。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
王は船のへさきに坐っていでいる船頭とささやいていた。それは親しくしている人のようであった。
庚娘 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
帆桁ほげたは水にもぐっては出、出てはもぐり、へさきは波に埋まっているといってよいほどだった。ときどき、大波がのしかかってきて、船をうちまかしてしまうかとも見えた。
船旅 (新字新仮名) / ワシントン・アーヴィング(著)
へさきの近くに小さな艙口ハッチが一つあるだけで、この艙口ハッチはストロムを渡ろうとするときには、例の狂い波の海にたいする用心として、しめておくのが習慣になっていました。
飛沫しぶきのなかを、消えあるいは点いて……闇の海上をゆく微茫びぼうたる光があった。その頃は、小雨が太まってき長濤うねりがたかく、へさきは水に没して、両舷をしぶきが洗ってゆく。
潜航艇「鷹の城」 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
片方が小屋のなかからかいさおを持ちだすと、他方が丸木舟の綱をひきよせていた。岸にごつんと当って乗りあげたへさきのわきから、先の男がとびこんだ。水垢みずあかきだした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
舟のへさきの方を見ると折よくモリがあつたので、これを右手に奮ひつてふなべりに足をかけ、鱶の頭へとおして手綱をともにかけ、そのまま発動機を鳴らして港へ帰つて来たのである。
東京湾怪物譚 (新字旧仮名) / 佐藤垢石(著)
道づれになつた二人の青年は默つて、へさきの方に頬杖をついて山ばかり見てゐた。二人とも切り立ての脊廣に赤靴をはいて、ゲイトルもかけてゐなければ洋傘も持つてゐなかつた。
湖水めぐり (旧字旧仮名) / 野上豊一郎(著)
へさきにも、ともにも、船頭が、川の方を向いて、両手を突いていた。船中の侍は、駕の側、前後に、膝をついていた。駕の中に、垂れをあげた津軽越中守が、腕組して、水を眺めていた。
三人の相馬大作 (新字新仮名) / 直木三十五(著)