いぶ)” の例文
既にして群集ぐんじゆ眸子ぼうしひとしくいぶかしげに小門の方に向へり、「オヤ」「アラ」「マア」篠田長二の筒袖姿忽然こつぜんとして其処に現はれしなり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
その夜万年屋のいないのを、同宿の者がいぶかって女房に聞いたが、ただちょっと田舎へとのみで、くわしいことは言わなかった。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
圖「いや犬になって来た此の書面は海禪坊主の書いた書面でも有ろうけれど、どうも手前はいぶかしい、これ/\此奴こいつを縛ってなたゞして見ろ」
家臣に仕えられて育った成信すら、ときには済まないと思い、なぜこんなにして呉れるのかと、いぶかしくなることもあった。
泥棒と若殿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「こはいぶかし、路にや迷ふたる」ト、彼方あなたすかし見れば、年りたるえのき小暗おぐらく茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
細川が入って来てもかしらを上げないので、愈々いぶかしくく見るとあおざめたほおに涙が流れているのが洋燈ランプの光にありありとわかる。校長は喫驚びっくりして
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
「何だらう。」裕佐はやゝ不安の気に襲はれていぶかり始めた。「事によつたら、あの一人はフェレラではなからうか。もしさうだとすれば……」
いぶかる眼で、どこからか風に吹きとばされて来たように、突然私達のそばへ寄って来たこの上品な容貌の老人を見た。
再度生老人 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
それが現実であるかのような暗愁が彼の心をかげっていった。またそんな記憶がかつての自分にあったような、一種いぶかしい甘美な気持が堯を切なくした。
冬の日 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
「優善は初午の日にまいりましたきりで、あの日には晩の四つ頃に帰りましたが」と、五百はいぶかしげに答えた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
これでは、出汁が出たかどうかといぶかられるかも知れませんが、これで充分、出汁ができているので、出たか出ないかは、ちょっと汁をなめてみるのです。
日本料理の基礎観念 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
それを聞いた知人で、いぶかしがらぬ者はありません。祖父があまりに頑固がんこだと誹謗ひぼうする人さえあったのです。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
二郎は心のうちで、どうして姉が斯様こんな山道をくわしくしっていようか……斯様なに暗いのにどうして斯様なにみちが分るだろうかといぶかしがりながらるいていた。
稚子ヶ淵 (新字新仮名) / 小川未明(著)
われはかくよしなき妄想を懷きてしばしあたりを忘れ居たるに、ふと心づきて畫工の方を見やれば、あないぶかし、畫工は大息つきて一つところを馳せめぐりたり。
境遇としてはずいぶん奇抜なのだが、それが一向いぶかしく思わないのが、むしろ不思議なくらいである。
夜中に起きて細工をするとは何だろう?——といぶかしみながら寝床に帰った源右衛門は、かちかちという音を耳にしながら、いつの間にか眠ってしまったのだった。
少しの反抗もない警戒に、一懇願こんがんをまじえたような目であった。どうしてそのように近々と私たちを見るのかと、いぶかるような心持も感じられぬことはなかった。
彼等は、入口に立っている陳と山崎に気づくと、ふと口をつぐんで、いぶかしげに、二人を見すえた。
武装せる市街 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
ようやく不利な情勢から立ちなおりかけたチチコフを、ややいぶかしげに見やりながら、訊ねた。
どこからそれを眺めて居るのか、眺めている自身がその白さなのか、はっきり判らぬ。聖者はいぶかって「慧鶴(聖者の法名)!」「慧鶴!」と自分の名を二声、三声呼んだ。
宝永噴火 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
或る日のこと、熊谷の家、鴻の巣で寝ているはずの某が訪ねて来た。女の衣服きものの上へ法衣ころもていた。まことに異装であった。でも別にいぶかることもなく、色々と話をまじえた。
取り交ぜて (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
「へえ、中身をネ」老人はいぶかしそうにつぶやいた。「中身というと、あの酸の入っている……」
疑問の金塊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
それだけに、重荷を背負って遠いみちにかしまだちするようにも感ぜられる。またそれだけの余力がこの老年の身にもなお残っていたのかということがいぶかしくも感ぜられる。
重態の病人が自身に来るはずはないから、紅葉の使いのものか、さなくば尾崎違いであろうといぶかりながら店へ出て見ると、せ衰えた紅葉が書棚しょだなの前で書籍をあさっていた。
……ふと心づきて画工の方を見やれば、あないぶかし、画工は大息つきて一つところを馳せめぐりたり。……その気色けしきたゞならず覚えければ、われも立ちあがりて泣きいだしつ。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
楊曁ようきという一官人が、この矛盾むじゅんいぶかって、こんどは直接、魏帝曹叡そうえいにこれをただしてみた。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
此話に拠ると、会津に蒲生氏郷を置こうというのは最初から秀吉の肚裏とりに定まって居たことで、入札はただ諸将の眼力を秀吉が試みたということになるので、そこがちといぶかしい。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
その時は、何の気もなしに傍観していた二人の情交なかや心持が、お島にはいくらか解るように思えて来たが、どこが好くて、あの女がそんなに男のために苦労したかがいぶかられた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
いぶかしく思へて耳を澄まして見ると、もう森閑として何のもの音も聞えて来なかつた。
測量船 (新字旧仮名) / 三好達治(著)
天地の間に生れたるこの身をいぶかりて、自殺を企てし事も幾回なりしか、是等の事、今や我が日頃無口の唇頭しんとうを洩れて、この老知己に対する懺悔となり、ときのうつるも知らで語りき。
三日幻境 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
泰助も続いて入込いりこみ、突然いきなり帳場に坐りたる主人にむかいて、「今の御客は。と問えば、いぶかしげに泰助の顔を凝視みつめしが、頬の三日月を見て慇懃いんぎんに会釈して、二階を教え、低声こごえにて、「三番室。」
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
いぶかしく思いながら、近づいて行った。伏せた姿勢のまま、見張の男は、栗の木の陰に、私の跫音あしおとも聞えないらしく、じっと動かなかった。地面に伸ばした両手が、何か不自然に曲げられていた。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
しづめておのれ今頃登山とざんなすからは強盜がうたうか但し又我が如き心願にて夜參りする者なるか何にもせよいぶかしと星明ほしあかりにすかし見れば旅人とおぼしく菅笠すげがさ眞白まつしろに光りたりこゝに又彼の石川安五郎は上新田村の無量庵むりやうあん
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
万顆匀円訝許同 万顆ことごとくつぶらにしてかくも同じきかをいぶかる
詩人への註文 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
「太宰先生は、」みなまで云わせず、「僕が太宰ですが、ま、お上り。」私のその少しんだ調子に微笑を見せたが、いぶかる様子もなく、「では少しお邪魔させて戴きます。」神妙な物腰である。
メフィスト (新字新仮名) / 小山清(著)
と、かれいぶかるようにちょっとまゆせて微笑びしょうする。
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
そはいぶかしきかな、兄上、倉の内には
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
いぶかしに訊く春生に
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
「今そんな笠などを出して」より女はいぶかしそうに眼をみはった、「……あなたどうなさるおつもりなの、あきつさん」
日本婦道記:萱笠 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「沢野忠庵」と裕佐は其名札を持つて立つた儘いぶかし気に首をひねつた。「聞いた事のある名だがどんな人ですね。」
いぶかしく思いながら——そろりそろり跫音あしおとを盗んで、喬之助は、台所の戸のこっち側に立った。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
梅子はしひて平然と装へり、れど制すべからざるは其顔なり、よ、其のすさまじ蒼白さうはくを、芳子は稍々やゝ予算狂へるが如く、いぶかしげに姉のかほ見つめて、居たりしが、芳子々々と
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
そしてあのかえった細弁の真紅の巻き花が、物の見事に出現した。驚いたのは島人で、夢ではなかろうかといぶかった。この海中の一小島がまさに楽園の観を呈したのである。
澄みとおった水音にしばらく耳を傾けていると、聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになってしまって、変な錯誤の感じとともに、いぶかしい魅惑が私の心を充たして来るのだった。
筧の話 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
「流芳」の二字が横書にしてあります。ほかの幅と様子が違うので、いぶかしのぞきましたら、「これは貫名海屋という人の書で、南画の人だけれど、書にも秀れているのだよ」
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
と持って来た手紙を出すを、山三郎はいぶかしげに受取って開いて読下よみくだすと、驚きました。
... さるに怎麼いかなればかく、おぞくも足をやぶられ給ひし」ト、いぶかり問へば黄金丸は、「これには深き仔細しさいあり。原来某は、彼の金眸と聴水を、倶不戴天ぐふたいてんあだねらふて、常に油断ゆだんなかりしが。 ...
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
われは暫くこれに注目せしに、少女は我前に歩み寄りて、傍なる小卓を指し、おん敵手あひてにはなるまじけれどと耳語さゝやきたり。わが輕くいなみて數歩を退しりぞき去るを、少女はいぶかしげに見送り居たり。
生空しやうくう唯薀ゆゐうんに遮し、我倒がたうを幻炎に譬ふれば、我がいかるなる我やそれいづくにか有る、瞋るが我とおぼすか我が瞋るとおぼすか、思ひと思ひ、言ふと言ふ万端よろづのこと皆真実まことなりや、いぶかれば訝かしく
二日物語 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
車夫三吉を取挫とりひしぎて、美人をいたわりたる屠犬児いぬころしは、いぶかしげに傾聴せり。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)