憤怒ふんぬ)” の例文
なるほど、憤怒ふんぬの相もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、当今大和一だと言はれる男たちの顔そのまゝだと言ふのである。
死者の書:――初稿版―― (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
ラスコーリニコフはこらえかねて、憤怒ふんぬに燃える黒い目を毒々しげに、ぎらりと彼の方へ光らせた。と、すぐにはっとわれに返った。
彼女の家庭のひとびとは、彼女を捨てたその男をのろってやまなかった。中でも一番ふかい憤怒ふんぬをいだいたのは、次兄にあたる人だった。
恐しき通夜 (新字新仮名) / 海野十三(著)
クリストフは憤怒ふんぬのあまりあおくなり、恥ずかしくなり、亭主や女房や娘を、締め殺すかもしれない気がして、驟雨しゅううを構わず逃げ出した。
だが、ある時、遂に主人が、この忍男しのびおとこを発見する。すさまじき憤怒ふんぬの形相。煩悶はんもん懊悩おうのうの痛ましい姿、彼は真底から女を愛していたからだ。
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ホテルの門に辿たどり着いたときにも、長い道をけ続けたために、身体こそやゝ疲れていたものの、彼の憤怒ふんぬは少しも緩んではいなかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「先生が……では先生がそんなことを……」彼女の表情にはまぎれもない憤怒ふんぬの色がみなぎった。僕はここぞとたきつけることを忘れなかった。
或る探訪記者の話 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
憤怒ふんぬの対象は、いつもきまって同居のかの壮年の男に向けられ、恐ろしい老人のいっこくさで執拗しつように争いつづけるのであった。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
いたずらに蔭口かげぐちを云うくらいですごしていたが、若い娘の胸の火はこの頃の暑さ以上に燃えて熱して、かれの魂は憤怒ふんぬに焼けただれていた。
半七捕物帳:35 半七先生 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
自分に新しい学問の必要を教えてくれたのは、あの少年の頃の医者の欺瞞ぎまんだ。あの時の憤怒ふんぬが、自分に故郷を捨てさせたのだ。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
すわとばかりに正行まさつら正朝まさとも親房ちかふさの面々きっ御輿みこしまもって賊軍をにらんだ、その目は血走り憤怒ふんぬ歯噛はがみ、毛髪ことごとく逆立さかだって見える。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
その痛みが、露八の血管に一度息を絶っていた憤怒ふんぬに再び呼吸いきをさせ初めた。彼は、っても、江戸へゆくぞと思った。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、たちまち悪魔のような憤怒ふんぬが私にのりうつった。私は我を忘れてしまった。生来のやさしい魂はすぐに私の体から飛び去ったようであった。
黒猫 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
なにをいきどおっているのか、憤怒ふんぬに目を光らして、荒々しく位牌堂の中へ飛び込んでいくと、やにわに千萩をにらみつけながら、あびせました。
自身、手を下すまでのこともなかろうに、憤怒ふんぬのあまり、神尾主膳は九尺柄の槍の鞘を払うと共に、縁の上からヒラリと庭へ飛び下りましたから
かれ與吉よきち無意識むいしき告口つげぐちからひどかなしく果敢はかなくなつてあとひとりいた。憤怒ふんぬじやうもやすのにはかれあまりつかれてた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
しかしともかくもそうした直接行動によって憤怒ふんぬの緊張は緩和され、そうして自己を客観することのできるだけに余裕のある状態に移って行くのである。
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
……さらぬだに、病み果て疲れ果てた頭脳に、極度の緊張を加えた葉子は、ぐらぐらとよろけた足もとが廊下の板に着いていないような憤怒ふんぬに襲われた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
悲嘆と憤怒ふんぬと哀憐の念が、嵐のように彼の心をみたしました。哀憐の念というのは、久美子に対してと言うより、おもに裏切られた自分自身に対してです。
Sの背中 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
妙念 (破るるがごとき憤怒ふんぬの声)悪蛇の化性だな。そんな男体に姿をかえて上って来たのが、睫毛まつげまで焼きちぢらした己の眼をくらませると思うのかい。
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
予は予自身に対して、名状し難き憤怒ふんぬを感ぜざるを得ず。その憤怒たるや、あたかも一度遁走とんそうせし兵士が、自己の怯懦けふだに対して感ずる羞恥しうちの情に似たるが如し。
開化の殺人 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
今では我々は私的生活というべきものを持っていないのだから、全生涯的感情をもって(しもこんな言葉が許されるとしたら)、憤怒ふんぬし、憎悪するのだ。
党生活者 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
たがいに相手を憤怒ふんぬに燃える眼で見はっていたが、新しい競争者があらわれようものなら、共同の目的のためにただちに結束して襲いかかってくるのだった。
訶和郎はつるぎを握ったまま長羅の顔から美女の顔へ眼を流した。すると、憤怒ふんぬに燃えていた彼の顔は、次第に火を見る嬰児えいじの顔のようにゆるんで来て口を解いた。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
微笑は必ずしも心和かな時の所産でなく、かえって憤怒ふんぬに憤怒をかさねた後の孤独な夢であったかもしれない。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
三羽さんば四羽しは憤怒ふんぬ皷翼はゞたきともごと氣球きゝゆう飛掛とびかかる、あつといふに、氣球きゝゆうたちまそのするどくちばし突破つきやぶられた。
それが爲めに、申しわけがなく、お鳥は文通を斷念したのか知らんと、胸に憤怒ふんぬをみなぎらして考へた。
泡鳴五部作:03 放浪 (旧字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
女子の悋気りんきはなほゆるすべし。男子が嫉妬しっとこそ哀れにも浅間あさましき限りなれ。そもそも嫉妬は私欲の迷にして羨怨せんえんの心憤怒ふんぬと化して復讐の悪意をかもす。野暮やぼ骨頂こっちょうなり。
桑中喜語 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
そういう男に対する嫌悪けんお憤怒ふんぬのいろが、白く、彼の額部ひたいを走った。同時に、お高に対しては、すこしくやさしい心になったらしい。腕を組んで、庭へ眼をやった。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
「愚に耐えよ」という言葉は、自嘲じちょうでなくして憤怒ふんぬであり、悲痛なセンチメントの調しらべを帯びてる。蕪村は極めて温厚篤実の人であった。しかもその人にしてこの句あり。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
大人の世界は相変らずせきとした静かさであった。その前に、彼は何かひざまずくような重々しい気持で、きたつ自分の憤怒ふんぬを、唇をかみつけることによってのみこんだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
まゆを釣り上げ眼をいからせ唇を左右に痙攣けいれんさせ、憤怒ふんぬ形相ぎょうそうを現わしている様子が、奇病人面疽にんめんそさながらである。ヒ、ヒ、ヒという笑い声はその口から来るのであった。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
いずれも山人と名づくるこの島国の原住民の、ほとんと永遠に奪い去られた幸福であったことを考えると、山の人生の古来の不安、すなわち時あって発現する彼らの憤怒ふんぬ
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
平次の言葉はもってのほかでした。嫁入ってから半年あまり、ツイ荒い言葉も聞いたことのないお静は、あまりの事に仰天して、平次の憤怒ふんぬとも、疑惑ともつかぬ顔を見上げました。
そうすると稼がない私に対して、彼女の仮借ない憤怒ふんぬ。私はアドルムを飲むと、羊が狼に代り、絶対君主の彼女をなぐったり、蹴ったりするのを、桂子は極端に恐れているのだ。
野狐 (新字新仮名) / 田中英光(著)
彼は、屈辱(!)と憤怒ふんぬに背が焦げそうだった。それを、やっと我慢して押しこらえていた。そして、本部の方へ大股に歩いて行った。……途中で、ふと、彼は、きびすをかえした。
渦巻ける烏の群 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
自分デ勝手ニ、コレハコウイウワケナノカ、イヤソウデハナクテコウナノカト、サマザマナ場合ヲ想像シテ嫉妬ヤ憤怒ふんぬニ駆ラレテイルト、際限モナク旺盛ナ淫慾ガ発酵シテ来ル。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
その第一例なる衣裳を汚したる方は、何ほどか母に面倒を掛けあるいは損害をこうむらしむることあれば、憤怒ふんぬの情に堪えかねて前後の考えもなく覚えず知らず叱り附くることならん。
家庭習慣の教えを論ず (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
手ぬるし手ぬるしむごさが足らぬ、我に続けと憤怒ふんぬの牙噛み鳴らしつつ夜叉王のおどり上って焦躁いらだてば、虚空こくうち満ちたる眷属、おたけび鋭くおめき叫んでしゃに無に暴威を揮うほどに
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
寂しさと憤怒ふんぬとに私はもうかっとしていた。つと立ち上って私は瀬川の部屋を出た。
云から待てゐよ必ず忘るゝ事なかれと憤怒ふんぬ目眥まなじり逆立さかだつてはつたと白眼にらみ兩の手をひし/\とにぎりつめくひしばりし恐怖おそろしさに忠兵衞夫婦は白洲しらすをも打忘うちわすれアツと云樣立上りにげんとするを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
折角犬を楽しませてもいざ血を採るとなると大いにいかるので、結局怒りの曲線に近いものが出来、それかといって犬を麻酔せしむれば、無情緒の曲線しか取れない訳で、たゞ憤怒ふんぬの際
恋愛曲線 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
いま二足三足の足の運びで、それを眼のあたりに見なければならない運命を思うと鼈四郎べつしろうは、うんざりするより憤怒ふんぬの情が胸にこみ上げて来た。ふと蛍雪館の妹娘のお絹の姿がおもかげに浮ぶ。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
彼は憤怒ふんぬと失望に熱狂して、ひと睨みで彼女を萎縮させてやろうと思いつめていたのであるが、さて彼女の実際の姿に接すると、すぐに振り切ってしまうにはあまりに強い魅力があった。
或る時、平三は酒を呑んでいて、ふと憤怒ふんぬ眼醒めざめた。彼はその憤怒を一入ひとしお燃え立たそうとして酒をあおった。酒を酒を、あおってあおって彼はぐでんぐでんに酔っ払って出掛けて行った。
或る部落の五つの話 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
すくなくとも、彼はそう感じて、その自暴自棄じぼうじき憤怒ふんぬ——かなり不合理な——が彼を駆って盲目的に、そして猪進ちょしん的に執念しゅうねんの刃をふるわせ、この酷薄な報復手段をらしめたに相違あるまい。
女肉を料理する男 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
司馬遷しばせんの場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒ふんぬがすべてであった。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
と、叫んで、憤怒ふんぬが、血管の中を、熱く逆流した。その瞬間、七八人の兵が
近藤勇と科学 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
反感と憤怒ふんぬとがふくめられているその言葉を聴いたとき、雪之丞以外の一座の男女も、はじめて、この二人の間に、いつもとは全く反対な、暗い、怖るべき空気が流れているのに気がついた風で
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
だが、彼はふと、いつもきっさきのように彼に突立ってくるどうにもならぬ絶望感と、そこからね上ろうとする憤怒ふんぬが、今も身裡みうちを疼くのをおぼえた。殆ど祈るような眼つきで、彼は空間を視つめていた。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)