寂寞せきばく)” の例文
恥を知らない太陽の光は、再び薔薇に返って来た真昼の寂寞せきばくを切り開いて、この殺戮さつりくと掠奪とに勝ち誇っている蜘蛛の姿を照らした。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
吾人かつて各地に遊びその封建城下なるものを見るに、寂寞せきばくたる空壕くうごう、破屋、秋草茫々ぼうぼうのうちにおのずから過去社会の遺形を残せり。
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
蔦が厚く扉をつつんだ開かずの門のくぐりから、寂寞せきばくとした境内けいだいにはいって玄関の前に目をつぶって突立った。物音一つ聴えなかった。
父の出郷 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
それは自分が感傷に打克とうと努力していたからではあるが、矢張り人生の事実と、人間の寂寞せきばくとの経験が足りないためであった。
光り合ういのち (新字新仮名) / 倉田百三(著)
平次は仮借かしゃくしません。八五郎に手伝わせて押込むようにそれぞれの部署に就かせると、家の中はしばらく、死の寂寞せきばくが領しました。
だが土用を過ぎると急に天地の色から一つ何物かが引去られ、寂寞せきばくと空白がみなぎり初める。私はいつもその不思議な変化をあじわって眺める。
六畳の座敷はみどり濃き植込にへだてられて、往来に鳴る車の響さえかすかである。寂寞せきばくたる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
家の中は永遠の寂寞せきばくそのもののごとくに、佇んでいると何かは知らず、冷え冷えと一種の鬼気を感ぜずにはいられなかったのであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
間遠まどおに荷車の音が、深夜の寂寞せきばくを破ったので、ハッとかくれて、籐椅子とういすに涼んだ私の蔭に立ちました。この音は妙に凄うございました。
甲乙 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
吾人は寂寞せきばく閑雅なる広重の江戸名所においておのずから質素の生活にあまんじたる太平の一士人いちしじん悠々ゆうゆうとして狂歌俳諧の天地に遊びし風懐ふうかいに接し
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
いづれの家も寝静まつた深夜の、寂寞せきばくの月をんで来るのが、小米である、ハタと行き当つたので、兼吉の方から名を呼びかけると
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
際涯はてし無く寂寞せきばくの続く人生の砂漠さばくの中に自然に逆ってまでも自分勝手の道を行こうとしたような、そうした以前の岸本では無かった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
先生の御蔭で夏目先生に御目にかかる事が出来て大変悦んで居りました処、夏目先生は死なれましてまた寂寞せきばくを感ずるようになりました。
漱石氏と私 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
森閑しんとした寂寞せきばくが彼を押しつつみ、ただ時計のチクタクばかり、闇の中でせわしげに時を刻んでいたが、彼にはその時刻もわからなかった。
孤独 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
さらぬだに寂寞せきばくたる山中の村はいよ/\しんとして了つて、虫の音と、風の声と、水の流るゝ調べの外には更に何の物音もぬ。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
呼吸いきを凝らしている文次の耳へ、陰深たる寂寞せきばくを破って、かすかに聞こえてくるのは、かの猫侍は内藤伊織のじゃらじゃら声ではないか。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
寂寞せきばくとした、拝殿の階段きざはしに腰かけたが、覆面の侍は、いつまでたっても、黙然として、唯じっとお延を睨みつけているようなさま
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かくのごとく、寂寞せきばくたる深夜におきましては、遠方のことの近く聞こえるものであります。これらはただその一例であります。
妖怪談 (新字新仮名) / 井上円了(著)
まして大宮浅間の噴泉の美は、何とであろう、磨きあげた大理石の楼閣台榭ろうかくだいしゃも、その庭苑ていえんに噴泉がなかったら、とみ寂寞せきばくを感ずるであろう。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
 この句を解する者いわく、ただ神無月の寂寞せきばくたる有様を現はしたるのみ。しかも禅寺の松葉と見つけたる処神韻しんいんあり、云々と。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
生涯しょうがいわれわれを結びつける、この結婚という習慣の連鎖に比ぶれば、自分の寂寞せきばくもさほど悲しくないように彼には思われた。
ましてや人は山に住んでも寂寞せきばくいとい、行く人に追付き、来る人に出逢おうとつとめるから、自然に羊腸ようちょうが統一するのである。
峠に関する二、三の考察 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
詩人の墓所を歩く聖堂守の遠い足音にさえも、異様な寂寞せきばくとしたひびきがあった。わたしは、ひるまえに歩いたみちをゆっくりともどって行った。
寂寞せきばくたる光りの海から、高くぬきでて見える二上の山。淡海公の孫、大織冠たいしょくかんには曾孫。藤氏族長太宰帥、南家なんけの豊成、其第一嬢子だいいちじょうしなる姫である。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
その声はさのみ高くもないのであるが、深夜の山中、あたりが物凄いほど寂寞せきばくとしているので、その声が耳に近づいてからからと聞えるのである。
くろん坊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
夕靄ゆうもやの奥で人の騒ぐ声が聞こえ、物打つ音が聞こえる。里も若葉もすべてがぼんやり色をぼかし、冷ややかな湖面は寂寞せきばくとして夜を待つさまである。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
遠く戦陣のとどろきをもたらす片すみの人なき広い野原、昼間の寂寞せきばく、夜間の犯罪、風に回ってる揺らめく風車、石坑の採掘車輪、墓地のすみの居酒屋
みずからを無用の人間と観ずる寂寞せきばくほど深いものはあるまい。踏みなれたなつかしい道を、足は郷里に向って急いでいたが、話すことも無いらしかった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
その音が寂寞せきばくを破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の根を締めつけられるように感じて、全身の肌にあわを生じた。
寒山拾得 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
船のゆらぐごとに木と木とのすれあう不快な音は、おおかた船客の寝しずまった夜の寂寞せきばくの中にきわ立って響いた。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
しかしてパリよりもむしろこの古都において、寂寞せきばくとして、「市にそぼ降る雨のごと、我が心にも降るものあり」
雨の日 (新字新仮名) / 辰野隆(著)
汽笛のゆるごとき叫ぶがごとき深夜の寂寞せきばくと云う事知らぬ港ながら帆柱にゆらぐ星の光はさすがに静かなり。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
しばらくするとまた前と同じような靴の音がコツコツとして、そのあとはまた以前と同じような寂寞せきばくに帰った。
六月 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
末路寂寞せきばくとしてわずか廓清かくせい会長として最後の幕を閉じたのはただに清廉や狷介けんかいわざわいしたばかりでもなかったろう。
三十年前の島田沼南 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
其外そのほかの百姓家しやうやとてもかぞえるばかり、ものあきないへじゆんじて幾軒いくけんもない寂寞せきばくたる溪間たにま! この溪間たにま雨雲あまぐもとざされてものこと/″\ひかりうしなふたとき光景くわうけい想像さう/″\たまへ。
湯ヶ原より (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
山ノ宿の、文殊堂——もうじき、大川も近い、寂寞せきばくたるお堂で、小さいが、こんもりした木立を背負っていた。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
雲が重苦しく空に低くかかった、ものい、暗い、寂寞せきばくとした秋の日を一日じゅう、私はただ一人馬にまたがって、妙にものさびしい地方を通りすぎて行った。
疾風は林をかすめ、森を掠め、野を掠め、雲乱れて飛び、蜩の泣声止んで、寂寞せきばくとして天地は静まりかえった。
森の妖姫 (新字新仮名) / 小川未明(著)
しかし、寂寞せきばくとした広間の中で彼の見たものは、御席みましの上に血にまみれて倒れている父の一つの死骸であった。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
夕暮が近いのであろう、蒼茫そうぼうたる薄靄うすもやが、ほのかに山や森をおおうている。その寂寞せきばくわずかに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音であるのだろう。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
孤独な母親の身のまわりを取りいている寂寞せきばく、貧苦、妹が母親の手元にのこして行った不幸な孤児に対する祖母の愛着、それが深々と笹村の胸に感ぜられて来た。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
父の棺輿はしばし堤の若草の上にたたずんで、寂寞せきばくとしてこの橋を眺める。橋はまた巨鯨の白骨のような姿で寂寞として見返す。はだらはだらにし下ろす春陽の下で。
雛妓 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
代目だいめ時代じだい鷄屋とりや番人ばんにん老人らうじんて、いろ/\世話せわをしてちやなどれてれてたが、其老人そのろうじんもなくんだので、んとなく寂寞せきばくかんじたのであつた。
柿の樹の下に並んだ稲鳰いなにおの上に、落ち散った柿の葉が、きらきらと月光を照り返している。桐の葉や桑の葉は、微風さえ無い寂寞せきばくの中に、はらはらと枝をはなれている。
蜜柑 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
と淋しく云って私に別れを告げた彼をあとにしながら、私は何とも云いようのない寂寞せきばくにおそわれつつ、雨の中をわざと車にも乗らず一人とぼとぼと帰途についたのでした。
彼が殺したか (新字新仮名) / 浜尾四郎(著)
女は其の無言無物の寂寞せきばくの苦に、十万億土を通るというのは斯様いうものででもあるかと苦んでいたので、今、「コレ」と云われると、それが厳しい叱咤であろうと何であろうと
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
しかし……何しろ人跡絶えた山奥の谿谷けいこくで、水の音ばかり聞こえる寂寞せきばく境ですからね。
キチガイ地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
その愉快なることいわん方なく、膝栗毛の進みもますます速く、来た処は、音に名高き胸突き八丁の登り口。日ははや暮れかかり、渓谷たにまも森林も寂寞せきばくとして、真に深山の面影がある。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
いわゆる囘憶おもいでというものは人を喜ばせるものだが、時にまた、人をして寂寞せきばくたらしむるを免れないもので、精神たましい縷糸いとすでに逝ける淋しき時世になお引かれているのはどういうわけか。
「吶喊」原序 (新字新仮名) / 魯迅(著)
猛獣や毒蛇どくじゃおびやかされることもあった。夜は洞穴ほらあな寂寞せきばくとして眠った。彼と同じような心願しんがんを持って白竜山へ来た行者の中には、麓をさまようているうちに精根しょうこんが尽きて倒れる者もあった。
仙術修業 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)