鉄瓶てつびん)” の例文
火鉢の向うにつくばって、その法然天窓ほうねんあたまが、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶てつびんより低いところにしなびたのは、もう七十のうえになろう。
国貞えがく (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
鉄瓶てつびんが約束通り鳴っていた。長火鉢ながひばちの前には、例によって厚いメリンスの座蒲団ざぶとんが、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そして、鉄瓶てつびんを買ってきたり、箪笥たんすを買ってきたりしたが、それを値踏みするのは、いつも、近所の、岡本という古着屋の人であった。
死までを語る (新字新仮名) / 直木三十五(著)
長い月日の間、火を焚く烟で黒くすすけた天井のはりからは、煤が下っている。其処そこから吊された一筋ひとすじ鉄棒かなぼうには大きな黒い鉄瓶てつびんが懸っていた。
越後の冬 (新字新仮名) / 小川未明(著)
「寝ている顔の上へ、二階から大火鉢を投げられたんです。その火鉢には煮えくり返っている鉄瓶てつびんを掛けてあったとしたらどんなものです」
つひに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀ぜんわんをあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶てつびんの湯のたぎれるを見たり。
遠野物語 (新字旧仮名) / 柳田国男(著)
道具と言つては唯これ一つしかないと言つても好い長火鉢、その上には鉄瓶てつびんがかゝつて、しかもえ立つてプウ/\白い湯気を立ててゐた。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
鼻を鳴らしてまつわりつく犬をいたわりながら、鉄瓶てつびんの湯気などの暖かくこもった茶の間へ、二人は冷たい頬をでながら通った。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そこまで考えて行くうちに、鉄瓶てつびんの湯もちんちん音がして来た。その中に徳利とくりを差し入れて酒を暖めることもできるほどに沸き立って来た。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「こっちへおよんなさい。寒いから。」と母親のお豊は長火鉢の鉄瓶てつびんおろして茶を入れながら、「いつおひろめしたんだえ。」
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
板谷との長閑のどかな間柄が恋いしくなって来る。きんは、がっかりした気持ちで、しゅんしゅんと沸きたっているあられの鉄瓶てつびんを取って茶をれた。
晩菊 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
大木は鉄瓶てつびんを呼んで、自分ずから茶を入れる、障子に日がかぎって、風も少し静かになった。大木はなおひそかに矢野のようすに注意している。
廃める (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
例えば、湯を入れたる鉄瓶てつびんに足の触るるありて、火上を渡りし夢を結び、冷水を入れたる鉄瓶に足の触るるありて、氷雪を踏みし夢を結ぶ等なり。
妖怪報告 (新字新仮名) / 井上円了(著)
八畳に六畳ばかりの二間つづきの座敷の片隅には長火鉢を置いて、鉄瓶てつびんにしゃんしゃん湯が煮立っている。女主人はその向う側に座を占めていた。
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
いずれにせよ、鉄瓶てつびんであるか白炭であるかは知らね、柄にもない風流な役目が、現在のところ飜訳家の肩にのしかかっていることは否めないと思う。
翻訳遅疑の説 (新字新仮名) / 神西清(著)
あたりを片付け鉄瓶てつびんに湯もたぎらせ、火鉢ひばちも拭いてしまいたる女房おとま、片膝かたひざ立てながらあらい歯の黄楊つげくし邪見じゃけん頸足えりあしのそそけをでている。
貧乏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
登は平吉の寝ぐあいを直してやり、それから病人の湯呑を取って、火鉢にかかっている鉄瓶てつびんの湯を注ごうとした。しかし佐八は水が欲しいと云った。
畳一枚ほどに切れている細長い囲炉裡には、この暑いのに、燃木まきが四、五本もくべてあって、天井から雁木がんぎるした鉄瓶てつびんがぐらぐら煮え立っていた。
耽溺 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
その真中に切られた囲炉裡にはそれでも真黒にすすけた鉄瓶てつびんがかかっていて、南瓜かぼちゃのこびりついた欠椀かけわんが二つ三つころがっていた。川森は恥じ入るごと
カインの末裔 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
上甲板の方で、何処かのパイプからスティムがもれているらしく、シー、シ——ン、シ——ンという鉄瓶てつびんのたぎるような、柔かい音が絶えずしていた。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
「御門弟さん、おかんは、そこでつけますから、小出しのお徳利に鉄瓶てつびんを貸して下さいましな。その方が、御面倒が無くってようござんしょうから——」
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
勝手の間に通ってみると、母は長火鉢ながひばちの向うに坐っていて、可怕こわい顔して自分を迎えた。鉄瓶てつびんには徳利が入れてある。二階は兵士どもの飲んでいる最中。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
鉄瓶てつびんは、ちんといて、行燈あんどんが、ともっているし、寝酒の二本も、いつものとおり、猫板に乗っているではないか。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それをよく洗ってお醤油したじを半分ほど入れてお酒のかんをするように鉄瓶てつびんの中へ入れてよくお湯を煮立たせておくれ。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
時にとってのよい点心てんじんになるかも知れない、と思ったけれど、あたりに鉄瓶てつびんもなければ、火鉢もない——ああ、やっぱり寝ていた方がいいなと思いました。
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
この時ぞく周章しゅうしょうの余り、有り合わせたる鉄瓶てつびんを春琴の頭上に投げ付けて去りしかば、雪をあざむ豊頬ほうきょうに熱湯の余沫よまつ飛び散りて口惜くちおしくも一点火傷やけどあととどめぬ。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
その晩彼女は長火鉢の前に、ぼんやり頬杖ほおづえをついたなり、鉄瓶てつびんの鳴る音に聞き入っていた。玄象道人の占いは、結局何の解釈をも与えてくれないのと同様だった。
奇怪な再会 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
今の騒ぎで鉄瓶てつびんがくつがえり、大きなきり角火鉢かくひばちからは、噴火山の様に灰神楽はいかぐらが立昇って、それが拳銃ピストルの煙と一緒に、まるで濃霧の様に部屋の中をとじ込めていた。
灰神楽 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
鉄瓶てつびんがかかってるだろう。正月の用意のもちけてあるだろう。子供がそれをねだっているであろう。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
伯爵はとうと鉄瓶てつびんのやうに癇癪を起して原稿を卓の上に投げつけた。そして大声で執事を喚び立てた。
鉄瓶てつびん薬鑵やかん、どんぶり鉢、何んでも手あたり次第に清江に投げつけ、「出て行け、帰れ。」といいつづける参右衛門の口癖も、今夜は結婚式で上機嫌に歌を謡っている。
話の途切れ目をまたひとしきり激しくなりまさる風雨の音、なみの音の立ち添いて、家はさながら大海に浮かべる舟にも似たり。いくは鉄瓶てつびんの湯をかうるとて次に立ちぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
風呂敷包みを、玄関口に出しておいてから、右手に提灯、左手に、鉄瓶てつびんを持って、寝室に入った。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
沈黙におちると、鉄瓶てつびんの湯がチインと松風の音をたてて、江戸の真ん中にいながら、奥まった露地のはずれだけに、まるで人里はなれた山家ずまいの思いがするのだった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
怖々こわ/″\あがって縁側伝いに参りまして、居間へ通って見ますと、一間いっけんは床の間、一方かた/\地袋じぶくろで其の下に煎茶せんちゃの器械が乗って、桐の胴丸どうまる小判形こばんがたの火鉢に利休形りきゅうがた鉄瓶てつびんが掛って
鉄瓶てつびんの湯気は雲をくことしきりなれど、更に背面を圧するさむさ鉄板てつぱんなどや負はさるるかと、飲めども多くひ成さざるに、直行は後をきてまず、お峯も心祝こころいはひの数を過して
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
それでは——と、大きな鉄瓶てつびんから熱い湯を茶碗に注いで、がやがやとうしろに送った。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
これはマダムの部屋なのであろう。まだ新しい桑の長火鉢と、それと揃いらしい桑の小綺麗な茶箪笥とが壁際にならべて置かれていた。長火鉢には鉄瓶てつびんがかけられ、火がおこっていた。
彼は昔の彼ならず (新字新仮名) / 太宰治(著)
婢は廊下まで持って来てあった黒い飯鉢めしばち鉄瓶てつびんって来たところであった。
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
と妻がう。ペンをさしおいて、取あえず一わんかたむける。銀瓶ぎんびんと云う処だが、やはりれい鉄瓶てつびんだ。其れでも何となく茶味ちゃみやわらかい。手々てんでに焼栗をきつゝ、障子をあけてやゝしばし外を眺める。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
「早く奥へおいでな」と、小万は懐紙で鉄瓶てつびんの下をあおいでいる。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
しばし、鉄瓶てつびんのたぎるおとのみが、部屋へやのしじまにあかるくのこされた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
母親は長火鉢にかかった鉄瓶てつびんの湯気の上に封じ目をかざした。
快走 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
夜は屋の外の物音や鉄瓶てつびんの音に聾者ろうじゃのような耳を澄ます。
冬の日 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
なべ蒲団ふとん鉄瓶てつびん茶盆ちやぼん
(新字旧仮名) / 石川啄木(著)
鉄瓶てつびんもひるね。
智恵子抄 (新字旧仮名) / 高村光太郎(著)
今朝けた佐倉炭さくらずみは白くなって、薩摩五徳さつまごとくけた鉄瓶てつびんがほとんどめている。炭取はからだ。手をたたいたがちょっと台所まできこえない。
文鳥 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ついに玄関よりあがりたるに、その次の間には朱と黒との膳椀ぜんわんをあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ひばちありて鉄瓶てつびんの湯のたぎれるを見たり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
此方こつちへおよんなさい。寒いから。」と母親のおとよ長火鉢ながひばち鉄瓶てつびんおろして茶を入れながら、「いつおひろめしたんだえ。」
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
彼が火鉢ひばちだ炭取りだ鉄瓶てつびんだと妻の枕もとを歩き回るたびに、深夜の壁に映るひとりぼっちの影法師は一緒になって動いた。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)