そばだ)” の例文
空には星がまばたきをしてゐる。平な雪の表面が際限もなく拡がつてゐる。そして地平線には、暗い森がそばだち、遠い山の頂が突出してゐる。
高田の下男銀平は、下枝を捜しいださんとて、西へ東へ彷徨さまよいつ。ちまた風説うわさに耳をそばだて、道く人にもそれとはなく問試むれど手懸り無し。
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
銀色の十字架を胸にびてゾロゾロと乗込んで来たので、居住居いずまいを崩していた羽織袴連中は、今更のように眼をそばだてて坐り直した。
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
勘次かんじたゞしなにのみこがれてたのであるが、段々だん/\日數ひかずつて不自由ふじいうかんずるとともみゝそばだてゝさういふはなしくやうにつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
(戸口に走り寄り、荒らかに戸を開け、叫ぶ。)ヘレエネさん。(画家は暫く耳をそばだている。四辺あたりはひっそりとして物音無し。 ...
応接室に沿う縁側の椅子いすに、主客には見えないように、そっと腰をかけながら、一語ももらさないように相手の話に耳をそばだてた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
遠くより望んだよりはさらに一層の険峻で、岩は悉く削ったようにそばだっている。それを伝って段々と昇って行ってやっとの事で絶頂に達した。
月世界跋渉記 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
近づいて見れば、幾百段とも知れぬ、純白の石階は、空を圧してそばだち、見上げた丈けでも、身内みのうちがむず痒くなるばかりです。
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
先日こなひだ東京美術倶楽部で行はれた水戸家の売立会には、色々好者すきしやの眼をそばだてさせる物が、それ/″\素晴しいで取引せられたやうであつたが
私はとっさに思いついて、そんなでたらめを云い、耳をそばだてたんです。すると綾子さんは涙を拭きながら立ち上って
蛇性の執念 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
あの人の帰る時刻をなか/\見積りかねて、幾度か時計を見上げては、瓦斯の火を細めたり強めたりして居る、足音が表を過ぎるたびに耳をそばだてる。
脱殻 (新字旧仮名) / 水野仙子(著)
唇から唇へと漁り歩く浅ましい姿は、さすがにそんな事には馴れ切っている筈の芝居者も、眼をそばだてたり、後ろ指を差したりする有様だったのです。
百唇の譜 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
種彦は慄然りつぜんとしてわが影にさえ恐れを抱く野犬のいぬのように耳をそばだてたが、すると物音はそれなり聞えず二階の夜は以前の通り柔かな円行燈の光ばかり。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
忽ち隻翼は又そばだち起り、竹をく如き聲と共に、一翼はひたと水に着き、一翼ははげしく水をしぶきを飛ばすと見る間に、鳥も魚も沈みて痕なくなりぬ。
祖母もそのわきにいた。私は別室で独りいた。叔父は何か小さな声で父に話していた。私はそれをききつけたいと耳をそばだててきいたが、ききとれなかった。
だから十三世紀以前には、少くとも人の視聴をそばだたしめる程度に、彼は欧羅巴ヨオロッパの地をさまよわなかったらしい。
さまよえる猶太人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
それから耳をそばだてると彼方でも此方でも『助さんの講義はよく出来た、驚いた。』というような囁きが聞える。
鳴雪自叙伝 (新字新仮名) / 内藤鳴雪(著)
まだ若かった私は、兄と知名の方たちとのお話を、いつも片隅で耳をそばだてて、飽く時なく聞いていたのでした。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
左に高くそばだちたるは、いはゆるロットマンが岡にて、「湖上第一勝」と題したる石碑せきひの建てる処なり。右に伶人れいじんレオニが開きぬといふ、水にのぞめる酒店さかみせあり。
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
その藤葛が横に靡けば、前岸かわむこうそばだったたいらかな岩のぱなに往かれそうである。彼はそれに眼をつけた。
仙術修業 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
絵甲斐絹ゑかひきの裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物やはらかもので、角帯も立派、時計も立派。中にもお定の目をそばだたしめたのは、づつしりと重い総革の旅行鞄であつた。
天鵞絨 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
或る晩、ふっと眼がさめて、習慣から峯子は敏感に枕から頭を離すようにして耳をそばだてた。暗い夜がどこまでもこめているばかりで、その闇をつんざく例の音はなかった。
杉垣 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
「ちえつ! 他人の不具な足をじろ/\見るなんて奴があるものか! 女がそんな愼みのないことでどうする!」圭一郎は癇癪を起して眼をそばだてて千登世に突掛つた。
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
帰期かえりらせに来た新造しんぞのお梅は、次の間の長火鉢に手をかざし頬をあぶり、上の間へ耳をそばだてている。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
七兵衛は心得きって、いざといえばこの裏戸を蹴破って走り出す用意万端ととのえていながら、なおじっと辛抱して、混入して来た一行の言語挙動に耳をそばだてている。
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
話の応答の時に一々肩をそばだて首を深く傾げ『さァそれはさ様』と慎重に思ひ合せ、思ひ付けば笑ひの皺を深め『そう/\』と掌で膝を叩く所作なぞあり、敏感で骨つぽい。
坊つちやん「遺蹟めぐり」 (新字旧仮名) / 岡本一平(著)
ト口早に制して、お勢が耳をそばだてて何か聞済まして、たちまち満面にわらいを含んでさもうれしそうに
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
ラジオの高声器のある戸毎家毎には、近隣の者や、見も知らぬ通行人までが、飛びこんで来て、警備司令部の放送がこれから如何になりゆくかについて、耳をそばだてるのだった。
空襲葬送曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
世人の眼をそばだててその成行を見ておった一事件のみは、そのままにして引継いでしまった。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
その宏壮な建築も(今なら高が知れていようが)当時の人目をそばだたしめたものだった。
日本橋附近 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
キリキリという、轍の軋るような音を聞き、頼母は、枕から顔を放し、耳をそばだてた。
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
まつかしはは奥ふかくしげりあひて、二一青雲あをぐも軽靡たなびく日すら小雨こさめそぼふるがごとし。二二ちごだけといふけはしきみねうしろそばだちて、千じん谷底たにそこより雲霧くもきりおひのぼれば、咫尺まのあたりをも鬱俋おぼつかなきここちせらる。
すぐ前にキネマ館が白い壁をそばだててゐるので、夜前の雨にぬぐはれ切つた空が、狭く細い一部分しか見えない。しかし重役はそこから輝き落ちる青藍の光芒くわうばうをぢつと見やつて眼をしばたゝいた。
手品師 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
彼女は何かしらトリオらしい室内楽の美しい旋律のなかから、自身の夢想を引き出そうとするように耳をそばだてていたが、楽器の音を聴いていると、少し頭脳あたまが安まるくらいの程度であった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
併しまだ跡を読まぬうちに、覚えず何か物音がしはせぬかと耳をそばだてた。
耳をそばだて聞きいると、母答えて汝はちょうどアブ・ハサンが屁を放った晩に生まれたと言うを聞きて、さてはわが放屁はここの人々が齢を紀する年号同然になりおり永劫忘らるべきにあらずと
周三は耳をそばだてゝ、「ほ、御前ごぜん、何處へかおなりとお出でなツたな。」
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
(右の方に向き、耳をそばだてて聞く様子にて立ちおる。)何だか年頃としごろ聞きたく思っても聞かれなかった調しらべででもあるように、身に沁みて聞える。かぎりなきくいのようにもあり、限なき希望のようにもある。
源斎巌げんさいがんが左に、むかって高くそばだつ天柱岩がある。このあたりから丘陵の間はやや斜面にひらけて赤松の細い幹が縁辺えんぺんに林立し、怪奇な岩層の風致に一種の繊細味をまじえてゆく。対松崖たいしょうがいはこれと映照えいしょうする。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
部屋の中で、参木はいつ秋蘭の足音が遠のくかと耳をそばだてている自身に気がつくと、ああ、また自分はここで、今まで何をしてたのだろうと、ただぐったりと力がぬけていくのを感じるだけであった。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
遠からず世人の目をそばだたしめるであらうと結んでゐる。
双面神 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
大和は耳をそばだてぬ、戸をたゝく音なり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
耳をそばだてたのでした。
「火事——」と道の中へと出た、人の飛ぶ足よりはやく、黒煙くろけむりは幅を拡げ、屏風びょうぶを立てて、千仭せんじん断崖がけを切立てたようにそばだった。
瓜の涙 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それより南の方へ谷間を縫うて行くと、沼津ぬまづ領の境近き小山の中腹に高さ一丈五六尺、幅六尺ばかりの大岩がそばだっていた。それが鸚鵡石であった。
丹那山の怪 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
三日たたないうちに、千代之助はその師匠と落っこって、弟子達の眼をそばだてさしたことは言うまでもありません。
百唇の譜 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
寝室の口に立った修験者は耳をそばだてました。几帳のかげの話は、生暖かな夜の空気に融け込んでなまめかしく聞えました。修験者は狂人きちがいのようになってけ込みました。
宇賀長者物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
わたし戸外そとみゝそばだて、それからすこくびをもたげてしづかな部屋へやなか見廻みまはしながら、自問自答じもんじたふをした。
日の光を浴びて (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
「ピアノ」の響する儘に耳そばだつれど、彼君の歌は聞えず。二聲三聲試みる樣なるは、低き「バツソオ」の音なり。樂長ならずば彼群の男の一人なるべし。幸ある人々よ。
母なる人は、鼓楼の蔭あたりで、一刻も早く温かなる手の拾い主を期待していたのだが、容易に人の視聴をそばだてないことほど、この棄てられた子がおとなしい子でありました。
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)