いぶ)” の例文
「灰が湿しめっているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せてふたをとると、赤い絹糸でくくりつけた蚊遣灰がいぶりながらふらふらと揺れる。
一夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
中には自分の重みの上になほその子供を帯にくゝりつけ垂れ下げられてゐる。そしてそれを遠巻に焚木の煙がじり/\といぶしてゐる。
「お父さんな、まだ帰らんのか。」と浅七は外から這入はいって来た。家の中は暗かった。囲炉裏いろりの中には蚊遣かやりの青葉松がいぶって居た。
恭三の父 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
お組とやらいふ娘一人の命ではなく、その奧にもつと/\複雜な犯罪が潜んで今ブスブスいぶつてゐる樣な氣がしてならなかつたのです。
裏戸口うらとぐちかきしたゑられた風呂ふろにはうししたしてはなめづつてやうほのほけぶりともにべろ/\とつていぶりつゝえてる。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
晃 うるさ薮蚊やぶっかが押寄せた。裏縁でいぶしてやろう。(納戸、背後うしろむきに山を仰ぐ)……雲の峰を焼落やきおとした、三国ヶ岳は火のようだ。
夜叉ヶ池 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
妙だ、變な匂ひがするつて、ヘツ、する筈だあな、線香で鰯の匂ひを消さうと思やがつて、和尚おしやういぶしたてるんだ、たまらねえ。
佃のわたし (旧字旧仮名) / 長谷川時雨(著)
いぶさけの小皿と一しょに、新蔵の膳に載って居るコップがもう泡の消えた黒麦酒をなみなみと湛えたまま、口もつけずに置いてあります。
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
その後姿うしろでに、ゆらすとみえた、紫煙シガアのけむの一片。それが白い。ぽんと、げすてられたその殻。地におちて、なほいぶる余燼。
(新字旧仮名) / 高祖保(著)
底深い群青色ぐんじやういろの、表ほのかにいぶりて弓形に張り渡したる眞晝の空、其處には力の滿ち極まつた靜寂しじま光輝かがやきがあり、悲哀かなしみがある。
いぶかしげな乱れた思案が、ぼやけた部屋の明るみをいぶるやうに湧き漂ひ、うなだれた呂木の心を無限の遠さへ連れていつた。
Pierre Philosophale (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
さてその農民小屋のうみんごやにはひつてると爐邊ろへんにはまきやされてあつて、その地方ちほう風俗ふうぞくをしたぢいさんがたばこをいぶらしてゐたり
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
が、泥が深かったので、一足もはいることは出来なかった。半かけの月に照らされて、水はいぶした銀のように、朦朧もうろうとした光を浮かべていた。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そのとき母親と娘との眼路のはてに、まだ春浅い茜いろにいぶされたような桃花村が静かすぎる空につづいて長閑のどかげに見えた。
みずうみ (新字新仮名) / 室生犀星(著)
ほかの時はえず小さな口笛を吹きながら、用もないのにいているのだが、その鍋のひびだらけの腹の下で、消えかかった二本のまきいぶっている。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
「古記」によると、焦土しょうどとなるもの五百戸、人畜の死傷もおびただしく、曠野の空のいぶること七日七夜に及んだという。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
斎藤豊作ほうさく氏の「落葉する野辺」など昔見たときは随分けばけばしい生ま生ましいもののような気がしたのに、今日見ると、時のいぶしがかかったのか
二科展院展急行瞥見 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
近代生活も、短歌としての匂いにいぶして後、はじめて完全にとりこまれ、理論の絶対に避けられねばならぬ詩形が、更に幾許いくばくの生命をつぐ事が出来よう。
歌の円寂する時 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
履物はきものの類では同じ町に見かける阿檀葉あだんば草履ぞうりを挙げねばなりません。よくいぶして海水で洗いますが、これを繰り返すこと二十年にも及ぶものがあります。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
晩春の午後の陽射しを受けて淋しくいぶぎん色に輝く白樺の幹や、まばらな白樺の陰影に斜めに荒い縞目をつけられて地味に映えて居る緑の芝生を眺めて居た。
決闘場 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
湯島のほうから延びて来る火は、もう佐久間町さくまちょうあたりの大名屋敷を焼きはじめたとみえ、横さまに吹きつける風はいぶされたように、煙と熱気に充ちていた。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
となえつつ、自由にどこの家にも入って、自在鉤じざいかぎのあたりまでもいぶしまわったからで、ヨガとは日中のカすなわちぶよに対して、夜の蚊をそういうのである。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
薮蚊やぶかの群がわびしい音をさせて襲って来る頃で、縁側には蚊遣かやりいぶらせた。かわずの鳴く声も聞えた。家内は、遊び疲れた子供の為に、蚊帳を釣ろうとしていたが
芽生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
頂に固く凍った雪の面は、太陽にまともから照らされて、眩ゆい銀色に輝きわたり、ややうすれたいぶし銀の中腹から深い紺碧の山麓へとその余光を漂わせている。
禰宜様宮田 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
幾多の苦難を苦難として迎へようとする殉教者の覚悟と、理想の高きを攀ぢ、秘境の深きを探る開拓者の根気とのいぶし銀を交へた、明暗多彩な刺繍図であります。
大阪の煙でこの世界からいぶり出しますぜ……今日限りあなたは大阪の土地を一切見ることを許しませんよ
空中征服 (新字新仮名) / 賀川豊彦(著)
私の心の奥底には確かに——すべての人の心の奥底にあるのと同様な——火が燃えてはいたけれども、その火をいぶらそうとする塵芥ちりあくた堆積たいせきはまたひどいものだった。
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
其夏、毎晩夜遅くなると、健のうち——或る百姓家を半分しきつて借りてゐた——では障子を開放あけはなして、居たたまらぬ位杉の葉をいぶしては、中でしきりに団扇であふいでゐた。
足跡 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
そうした劃期的かっきてきの悲しみは悲しみとしても、彼は何か小さい自身の人生の大部の痕迹こんせきが、その質素な一室の煙草たばこやにいぶしつくされた天井や柱、所々骨の折れた障子
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
石油の燃えたしるしに、それの上つらだけが黒くいぶされて居る薪を竈の外へ、一たんとり出した。
昔宮中で小官吏がかがりに火を付けて大声に鼠いぶし鼠燻しと呼んで庭内を曳きずり廻した後、王様から穀物のったのを入れた袋を賜わった事が民間に伝わったものであると。
プスリプスリといぶるような気燄きえんを吐いて、散々人を厭がらせた揚句に、僕は君に万斛ばんこくの同情を寄せている、今日は一つ忠告を試みようと思う、というから、何を言うかと思うと
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
木や陶器や海泡石かいほうせき煙管パイプがお目どおりをした——すっかりいぶしのかかったのも、まだ燻しのかからないのも、鞣革なめしがわに包まれたのも、包まれないのもあり、つい最近に骨牌カルタでとった
人間も其の有力な仲間になつて、海の食物の分前を取るのにいそがしい。人間は大船隊でもつて魚に向つて行つて、それを干物にしたり、塩漬にしたり、いぶしたりして、荷作りする。
いぶしをかけることを知っている控え目な腕のえとから、生まれたものであろう。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
明るいようでも、それはいぶされている。何かしらまた空にも寒いもやがかかって、窮みもなく日の光が光らずに流れてゆく。小樽を出てからの展望はいよいよ北海らしい感じを深めて来た。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
つぎに豚の頭をいぶし焼きにしたのが耳鼻をつけた姿であらわれた。船頭が庖丁で薄身うすみいでみなに渡す。昨日、鯨の脂身だと思ったのはこれだったのかと、気色が悪くなって寒気が出た。
重吉漂流紀聞 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
茶の間の真中に真四角のゐろりがきられて、煤けた鍵竹かぎたけの先には、黒焦に焦げた薬罐がかゝつて、木のころがぶすぶすとその下にいぶつて居る。女房は下座の爐辺ろばたにすわつて挨拶さへもしない。
夜烏 (新字旧仮名) / 平出修(著)
そのなかには肌脱ぎになった人がいたり、柱時計が鳴っていたり、味気ない生活が蚊遣かやりをいぶしたりしていた。そのうえ、軒燈にはきまったようにやもりがとまっていて彼を気味悪がらせた。
ある崖上の感情 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
すべてがいぶされたようで、白昼の黄昏に、気が遠くなるばかりである。
雪中富士登山記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
そのまわりに暖かそうな月暈おかさが銀をいぶしたようにかすんで見えている。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
ところが、あの手燭には、鉄芯が真黒にいぶっているだけで、蝋は完全に燃焼してしまってる。するとそれが、ホンのわずかでも蝋燭の形をしたものが残っていて、そのまま燃え終った証拠じゃないか。
聖アレキセイ寺院の惨劇 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
鰻をいぶして一日ほどしてバターで焼く料理もありますし、牛のスープで煮てゼラチンで寄せるのもあります。しかし鰻は血液のうちに毒分を持っていますから生焼なまやけ生蒸なまむしのものを食べてはいけません。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
後年のほうがいぶし銀のような渋さに磨きがかかり
さてその椅子は、彼等に甚だ親切で、かちいぶされ
「早くからださかさにして、松葉の煙でいぶすが可い。」
少年の死 (旧字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
鉢に五徳に鋭いまさかり、洗う水もいぶす火も、何もかも
いぶるよに、じじと一つ
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
思はず脊延びして見渡すと遠く相模湾の方には夏の名残の雲の峯が渦巻いて、富士も天城あまぎいぶつた光線に包まれて見えわかぬ。
岬の端 (新字旧仮名) / 若山牧水(著)
七之助は憤怒と汚辱感にブスブスいぶりながらも、その刀を手水鉢のところへ持って来て、自分の手で洗う外は無かったのです。