あふ)” の例文
力松はさう言つて口惜くやしがるのです。一國らしい中年者で、田園の匂ひが全身にあふれるだけに、此男にうそがあらうとは思はれません。
「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、ことごとく俗語ならぬはない。しかも一句の客情かくじやうは無限の寂しみにあふれてゐる。
芭蕉雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
それがひとうように規則的きそくてきあふれてようとは、しんじられもしなかった。ゆえもない不安ふあんはまだつづいていて、えず彼女かのじょおびやかした。
伸び支度 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
季節とは関係なしに工場の中は暑く、石灰粉の微粒は渦を巻いたり、しまを描いたりしながら、白くて厚い幕のように漂いあふれていた。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
松があって雑樹が一叢ひとむら、一里塚の跡かとも思われるのは、妙に低くなって、沈んで島のように見えた、そこいらも水があふれていよう。
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その太鼓を、梁にかけた下締したじめの下へ置いて、そうして身繕みづくろいをして、そのひもへ両手をかけた時には、なにかしら涙があふれて来ました。
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
それは女の肉体の動作が柔らかくしなやかで、猫のように静かなことであった。そのくせ、彼女は力に満ちあふれた体躯たいくを持っていた。
何ものをも忘れて、何からも解き放たれて、自由な、気楽な、その上何かこう血をわき立たせるような力があふれて来た、あの一時を。
気丈な母ですから、懐剣を抜いてあふおちる血をぬぐって、ホッ/\とつく息も絶え/″\になり、面色めんしょく土気色に変じ、息を絶つばかり
女どもは、あふれ出ようとする愚痴を、切なく抑えて胸が一ぱいになっていた。子供らは荷物の間にはさまって干菓子などを噛んでいた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
かおを洗い全身の冷水摩擦れいすいまさつでもすると、体中の血液はみなぎあふるる様な爽快を感ずることは、今日も青年時代と少しも異なるところがない。
僕も勿論愉快があふれる……、宇宙間にただ二人きり居るような心持にお互になったのである。やがて二人は茄子のもぎくらをする。
野菊の墓 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
「君はき人なりと見ゆ。彼のごとくむごくはあらじ。またわが母のごとく」しばしれたる涙の泉はまたあふれて愛らしきほおを流れ落つ。
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その話はそれだけの話です。しかしわれわれはそのときのカーライルの心中にはいったときには実に推察の情あふるるばかりであります。
後世への最大遺物 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
読むにたえない時ちゃんの手紙の上に私はこんな筈ではなかったと涙が火のようにあふれていた。歯が金物のようにガチガチ鳴った。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
一時は鴨川があふれるかとも危ぶまれた今年のさみだれも、五月の末から俄に晴れつづいて、六月にも七月にも一滴の雨がなかった。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
もちろん淡い夢のような作品その物にも、彼女独得の情熱と情緒じょうしょがいかにあふれていたにしても、一般に受ける性質のものではなかった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
甚七の足が、岡崎まで走らないうちに、彼は、或る一宿場にあふれている千駄に近い小荷駄隊と、約二千ばかりの軍勢に行き会った。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
、三このいのりをりかえしてうちに、わたくしむねには年来ねんらいみこと御情思おんなさけがこみあげて、わたくし両眼りょうがんからはなみだたきのようにあふれました。
路地の片側はアパートで伊沢の小屋にのしかかるように年中水の流れる音と女房どもの下品な声があふれており、姉妹の淫売が住んでいて
白痴 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
爾時そのとき、優におぼろなる、謂はば、帰依の酔ひ心地ともいふべき歓喜よろこびひそかに心の奥にあふれ出でて、やがておもむろに全意識を領したり。
予が見神の実験 (新字旧仮名) / 綱島梁川(著)
彼は不思議そうにその眸に視入った。と忽ち、もっと無心なものが、もっと豊かなものが妻の眸のなかに笑いながらあふれていた。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)
親身の情があふれて出ている——二人の親に死別れやら生き別れして顔も知らねえ俺にとっては——意気地もなく人様の親兄弟が羨ましい。
瞼の母 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
このいもなかりせば国内の食物はつとに尽きて、今のごとく人口のあふれる前に、外へ出て生活のたつきを求めずにはいられなかったろう。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そこで許宣は舗を出て、銭塘門せんとうもんのほうへと往った。初夏のようなかがやきの強いの照る日で、仏寺に往き墓参に往く男女が街路にあふれていた。
蛇性の婬 :雷峰怪蹟 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
あふるゝ浄福、なごやかな夢見心地、誇りが秘められなくて温厚な先生の時間などには、私は柄にもなく挑戦し、いろ/\奇矯きけうの振舞をした。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
刑務所は学校と同じことに、立派な人間ばかりいて、立派な友情があふれるほど存在しているものだとばかり誤解していたことだ。
柿色の紙風船 (新字新仮名) / 海野十三(著)
その音波の一波毎に、彼の全身が総毛立つ程も懐しい、彼女の甘い声音には、彼はまぶたにあふれる熱い涙をどうすることも出来なかった。
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
離るるとも、ちかいさえかわらずば、千里を繋ぐつなもあろう。ランスロットとわれは何を誓える? エレーンの眼には涙があふれる。
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
鶴子は酒屋の男の去った後あたりにはもう誰もいないと思うと、こらえていた涙が一時にあふれ落るのを急いでハンカチで押えた。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
こういう文藻ぶんそうあふるる記録に至っては、まったく中尉独自の領域でありまして、この後を引き受け得るものなぞはただの一人もおりませぬ。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
それかのものの汝に見えしは、汝が言遁いひのがるゝことなくしてかの永遠とこしへの泉よりあふれいづる平和の水に心を開かんためなりき 一三〇—一三二
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
彼の屋敷下の小さな谷を流るゝ小川は、何処から来るのか知らぬが、冬は大抵れて了う。其かわり夏の出水には堤を越して畑にあふれる。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
物は最も広大にして鞏固きょうこなる容器の中に収めて置くことが最も安全です。一斗の水を一升ますに入れようとすれば必ずあふれます。
三面一体の生活へ (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
暫くの間、私はこのあたりに無言でせっせっとくわを入れて来た自分の相棒の内生活をのぞく興味にあふれ、なお高次郎氏の歌集を読んでいった。
睡蓮 (新字新仮名) / 横光利一(著)
目まぐるしい坂下の町をしばらくながめていると天から地から満ちあふれた日光の中を影法師のような一隊が横町から現われて坂を上って来た。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
しづい、しづい』と彼は心に繰返くりかへしながら室内をのそ/\歩いて居たが、突然ソハの上に倒れて両手を顔にあてゝあふるゝ涙をおさへた。
節操 (新字旧仮名) / 国木田独歩(著)
ふと下宿屋の庭先に置かれてあった「へご鉢」を見ますると、おりふしの雨で、そのへご鉢の水があふれんばかりの水嵩みずかさに増しておりました。
俳句の作りよう (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
いて見るとき麦粒が満ちいる。長者大悦して倉にれるとあふれ出す。因って親族始め誰彼に分って合国一切恩沢を蒙った。
それがいかにもよろこびにあふれ、青春を持てあましている食後の夜の町のプロムナードの人種になって、特に銀座以外には見られぬ人種になって
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
「川も春になると、雪解ゆきどけで水かさが増えるでええのう。かう水があふれて、ゆつたり流れてゐるのは、気持のええものだわい。」
良寛物語 手毬と鉢の子 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
これを見た青眼先生の眼からは、忽ち涙がハラハラとあふれ落ちました。そうして慌てて走り寄って、女王を抱きけながら——
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
直也の二つの眼には、あつい湯のような涙が、くようにあふれていた。初めて、顔を見たばかりの少女の、厚いなさけに対する感激の涙だった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
道にあふれて流れている水に口づけて飲んだり、梅干の種を向うの笹藪ささやぶに投げたりして、出来るだけ長く休む方がらくであった。
遍路 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
伯爵は其箱を見、この答えを聴くより、たちまち露子の腕を取って、其腕に玉村たまむら侯爵から贈って来た腕環うでわめ満面にあふるるばかりのえみたたえて
黄金の腕環:流星奇談 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
たちまち数多あまたの天使の集団の合唱が起こり、「いと高き処には栄光、神にあれ。地には平和、主の悦び給う人にあれ」との讃美が天地にあふれた。
キリスト教入門 (新字新仮名) / 矢内原忠雄(著)
恐らく今をいてはこれほどのあふれるような幸福の感じをもって私達自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
ことに英吉利イギリス人が灰色兎・栗鼠・蜂鳥・馴鹿・かんがるう・野犬を襲撃するくだりには、それらの生物に対する氏の同情が切々とあふれ出ていて
踊る地平線:09 Mrs.7 and Mr.23 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
少年は今はもううらやみの色よりも、ただ少年らしい無邪気の喜色にあふれて、頬を染め目を輝かして、如何にも男の児らしい美しさを現わしていた。
蘆声 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
そうしてその葉が、峰と峰とのから渓合たにあいへあふれ込む光線の中を、ときどき金粉きんぷんのようにきらめきつつ水に落ちる。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)