こぼ)” の例文
生命を養ひ育てる衝動は各々のものにこぼち難く生具してゐる、しかもそれの特有性は我々及び他のものにとつてどこまでも秘密である。
ゲーテに於ける自然と歴史 (新字旧仮名) / 三木清(著)
こぼれたる柱、碎けたる石の間には、放飼はなしがひうさぎうまあり、牛ありて草をみたり。あはれ、こゝには猶我に迫り、我をくるしめざる生物こそあれ。
いわゆる松陰が、「国に酬ゆる精忠十八歳、家をこぼつ貧士二十金」の一聯はこの事を指すなり。ここにおいて要駕策また齟齬そごせり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
それを制すれば門のとびらの一枚ぐらいこぼたれても苦情は言えなかった。これはむしろ一九三〇年を通り越していたとも考えられる。
Liber Studiorum (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
昔の小説に親の作った堂をこぼった話もあるが、これは親のしたままを長く保っていく人として心のかれるところがあると源氏は思った。
源氏物語:15 蓬生 (新字新仮名) / 紫式部(著)
我らこの人の「我は手にて造りたるこの宮をこぼち、手にて造らぬ他の宮を三日にて建つべし」と言えるを聞けり。(一四の五八)
公子 よし、その金銀を散らし、施し、棄て、蔵をこぼち、家を焼いて、もとの破蓑やれみの一領、網一具の漁民となって、娘の命乞いのちごいをすれば可かった。
海神別荘 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
更にヨリ一層椿岳の個性を発揮したのは、モウ二十年も前にこぼたれたが、この室に続く三方さんぼうかべの明り窓のない部屋であった。
われピーアを憶へ、シエーナ我を造りマレムマ我をこぼてるなり、こはえにしの結ばるゝころまづ珠の指輪をば 一三三—一三五
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
此石城からしてついた名の、横佩墻内だと申しますとかで、せめて一ところだけは、と強いてとりこぼたないとか申します。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
すなわち、ある時代には大理石をもって泉を造り、またある時はそれをこぼって地上に投げ出してしまうような、有為転変の姿も知らぬように——。
鬼の出る羅生門らしょうもんに、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取りこぼたれた。つなぎとった腕の行末ゆくえは誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨はるさめが降る。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
即ち仏堂をこぼち、学校をおこし、瘠土せきどを開拓して膏腴こうゆの地となし、暗礁を除いて航路を開き、農兵を置き、薬草を植え、蜜蜂を飼い、蛤蜊こうりを養殖するなど
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
中にも平八郎父子ふしは焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓をこぼたれた。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
けれどもそれは、たまたま運命に許されての、偶然な恵みにすぎなかった。運命にこぼたれぬ確かな平和はまだその影をも私に示しているのではなかった。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
花のようなかおを、鬼のように焼きこぼたれてから、のろわれた肉体からだに、呪われた心が宿ったのはぜひもありません。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
つとに聖賢の道に志ざし、常に文武の教に励み、熊沢蕃山くまざわばんざんその他を顧問にして、藩政の改革に努め、淫祠いんしこぼち、学黌がくこうを設け、領内にて遊女稼業まかりならぬ。
備前天一坊 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
日々の用具であるから、稀有けうのものではなく、いつも巷間こうかんに準備される。こぼたれるとも更に同じものがそれに代る。それ故生産は多量でありまた廉価である。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
幸にして今日に及びようやく旧に復するの模様あれども、空しく二年の時日を失い、生徒分散、家屋荒廃、書籍を失い器械をこぼち、その零落、名状するに堪えず。
観る者まゆひそめて「かかることは曹長にても事足りなん箱をこぼつに少佐殿の手を労するはいと恐れ多し」
従軍紀事 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
橋を打ちこぼっていた城兵たちは、これをみつけてなにか叫び、二三人が抜きつれて迎え討とうとした。
一人ならじ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ふるき代の富貴ふうき栄耀えようの日ごとにこぼたれ焼かれて参るのを見るにつけ、一掬いっきく哀惜の涙をとどめえぬそのひまには、おのずからこの無慚むざんな乱れをべる底の力が見きわめたい
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
二つながら取りこぼされ、代首も真の秘密とその効用とが他人に知られた以上——知った綱五郎は殺されたにしても——保存する必要がないというので、これも取り捨られ
鸚鵡蔵代首伝説 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
九年春、白龍庵有司ゆうしこぼつところとなる。夏建文帝浪穹ろうきゅう鶴慶山かくけいざんに至り、大喜庵たいきあんを建つ。十年楊応能ようおうのう卒し、葉希賢しょうきけんいで卒す。帝って一弟子いちていしれて応慧おうえと名づけたもう。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
彼旗をてっし、此望台をこぼち、今自然もうれうる秋暮の物悲しきが上に憂愁不安の気雲の如くおおうて居る斯千歳村に、雲霽れてうら/\と日のひかりす復活の春をもたらすを得ば
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
切支丹の邪宗じゃしゅうを禁じて南蛮寺なんばんじこぼった豊臣秀吉の遺策を受け継いだ幕府では、オランダ人からポルトガル人に領土的野心があると云う密書を得てからその禁止に全力を傾けた。
切支丹転び (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
風車はだんだん取りこぼたれ、オランダ風物の代表は、全く失われんとしているとも聞いた。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
伏見鳥羽ふしみとばの戦さに敗れた彼らは仙台藩せんだいはん等と共に上書して、逆賊の名を負い家屋敷をこぼたれるのいわれなきことを弁疏べんそし、退いてその郷土を死守するような道をたどり始めていた。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
頭をそりこぼてば高綱も法師ぢや。其方が父紀之介の後生安樂を祷るであらうぞ。
佐々木高綱 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
まずこれ等をこぼつことに孔子は決め、その実行に直接当ったのが子路であった。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
『書紀』の一書の素盞嗚尊すさのおのみことの悪業を列挙した条に「春はすなわち渠槽を廃し及び溝を埋めあぜこぼちまた種子を重播す、秋はすなわちくじを挿し馬を伏す、およそこの悪事かつてやすむ時なし」
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
で、旧館はことごとくこぼたれた。新しき石垣組の線は高く美しく築かれてゆき、天守閣てんしゅかくが建つ所ののみの音や手斧のひびきは、摩天まてんの丸太足場に、時代の黎明れいめいの来るのを、この国にも告げている。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
予ハソレヲ取リこわシテ近代建築ニ作リ直し、ソコニ今度ハワレ/\ノ隠居所ヲ作リタイ考デアルガ、ソレニハ今日マデ婆サンガ反対シテイタ。亡キ父母ノ隠栖ノ跡ヲ妄リニこぼチ去ルノハヨクナイ。
瘋癲老人日記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そが狭隘の四壁をこぼち、雪崩なだれ出で、兇悪にも
その下にあらゆる都府がこぼたれん!
(新字旧仮名) / 石川啄木(著)
皆自ら国をこぼつなり。
政治の破産者・田中正造 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
その場所は道路にそうており、往来の者どもはイエスをあざけって、首を振りつつ、「ああ宮をこぼちて三日の中に建つる者よ、十字架より下りて己を救え」
キリスト教入門 (新字新仮名) / 矢内原忠雄(著)
おさを流れるように、手もとにくり寄せられる糸が、動かなくなった。引いてもいても通らぬ。筬の歯が幾枚もこぼれて、糸筋の上にかかって居るのが見える。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
崖の上の小家は父の歿後に敗屋となって、補繕し難いためにこぼたれた。反古張りの襖も剥落はくらくし尽していた。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
我が幾たび空中に樓閣を築きて、又これをこぼちたるを知るか。我が彼猶太ユダヤをとめに逢はんとていかなる手段を盡しゝを知るか。我は用なきに翁を訪ひて金を借りぬ。
かなり久しく出て来なかったのであったから、山の紅葉もみじも珍しい気がしてながめられた。こぼったあとへ新たにできた寝殿は晴れ晴れしいものになっているのであった。
源氏物語:52 東屋 (新字新仮名) / 紫式部(著)
即ち烈公が梵鐘ぼんしょうこぼちて大砲をつくりたるも、甲冑かっちゅうにて追鳥狩おいとりがりを企てたるも、みなこの同時なりとす。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
ふるき代の富貴ふうき栄耀えようの日ごとにこぼたれ焼かれて参るのを見るにつけ、一掬いっきく哀惜の涙をとどめえぬそのひまには、おのづからこの無慚むざんな乱れをべる底の力が見きはめたい
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
あなたの世界も淋しい、不幸な、人にこぼたれないようなものを望んでいられるように見えます。私も心のなかに寺を建てたいのです。人の批評に超越した安息の場所を。
青春の息の痕 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
この秋海棠しうかいだう杉垣すぎがきのまだかれないまへから、何年なんねんとなく地下ちかはびこつてゐたもので、古家ふるやこぼたれたいまでも、時節じせつるとむかしとほくものとわかつたとき御米およね
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
多分、今晩もそうしたような場合から、弁信はひとり曠野こうやをさまようて、むなしくこぼたれたる性格の、のろいの、若き女人のために、無限の同情を寄せているゆえんでありましょう。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
昔、慈覚大師仏法を習ひ伝へんとて、唐土へ渡り給ひておはしける程に、会昌年中に、唐の武宗、仏法を亡して、堂塔をこぼち僧尼を捕へて失ひ、或は還俗げんぞくせしめ給ふ乱に逢ひ給へり。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
多くの建物はこぼたれ、大木は切られ、がけは落ち、幾多の人々がここを去って帰らないのを悲しむでしょう。変りゆく都に愛惜あいせきの念を有たない多くの市民さえあることを悔むでしょう。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
そのためには封建という足場を毀却ききゃくしなければならない、両者の足場をこぼって唯一の大目的に纒めるんだ、……洪水のまん中に二派の人々が、二軒の屋根の上に難を避けているとしよう
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
廃寺はこぼたれ、かきは破られ、墳墓は移され、残ったいしずえや欠けたつちくれが人をしてさながら古戦場を過ぐるの思いをいだかしめた時は、やがて国学者諸先輩の真意も見失われて行った時であった。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)