瞋恚しんい)” の例文
「一念瞋恚しんいの心を発してより、菩提の行を退けしかば、さしも功を積みたりし六波羅蜜の行一時に破れて、破戒の声聞とぞなりにける」
俗法師考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
一切異議申間敷もおすまじく候と抑えられていたであったから、定基の妻は中々納まっては居なかった、瞋恚しんいむらで焼いたことであったろう。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
中にも念仏信者の地頭東条景信は瞋恚しんい肝に入り、終生とけない怨恨を結んだ。彼は師僧道善房にせまって、日蓮を清澄山から追放せしめた。
行燈あんどんの下に、投げ捨ててあった文殻ふみがらを拾って、じっと、瞋恚しんいまなこで読み下している人——それは寮のあるじ光子てるこの御方だった。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
諸天これを見てを説いていわく、〈瞋恚しんい闘諍間、中において止むるべからず、羝羊ていよう婢とともに闘い、村人獼猴びこう死す〉と。
それまでは、ヤンとあの夜の狂態はなんだと、彼はマヌエラに瞋恚しんいの念を燃やしていた。それが、こうして見ている、初々しさ……たどたどしさ。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
誰も彼も世のしわざにいそしんでゐた。しかし、この穏かな平和な田舎ゐなかも、それは外形だけで、争闘、瞋恚しんい嫉妬しつと執着しふぢやくは至る処にあるのであつた。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
ねたみふかき者なるが、此事をもれ聞きて瞋恚しんいのほむらに胸をこがし、しもをとこをひそかにまねき、『かの女を殺すべし、よく仕了しおほせなば金銀あまたとらすべし』
案頭の書 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
他に寒紅梅一枝の春をや探るならんと邪推なし、瞋恚しんいを燃す胸の炎は一段の熱を加えて、鉄火五躰をあぶるにぞ、美少年は最早数分時も得堪えたえずなりて
黒壁 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
瞋恚しんいの念が、洗われた惟念の心には、枯淡なもとめの道の思いしか残っていなかった。長い長い敵討の旅の生活が、別人の生涯のようにさえ思われはじめた。
仇討三態 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
夫婦は互に目でうなずき、瞋恚しんいと憎悪のいり交ったるごとき凄じい視線を自分のほうに送っているそれであった。
黒い手帳 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
お嬢様、あなたが、むらむらと瞋恚しんいの炎を燃やして、身も、世もあられず、お怒りになるそのお心が、離れていても、ぴたりと私の胸に響いて参ります。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
私には馴染のふかい例の瞋恚しんいのまなざしでわたしの眼を睨みつけて、「こういうかたがありますのね」と言った
(新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
思うことの十分の一も口に出して云えず、潜ませた瞋恚しんいは奥歯のなかで人知れずきしんでいるにちがいない。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
誰だか知らないが白い衣を著たへんな人がうしこく参りをして、私にかたどった人形ひとがたに呪いと共に瞋恚しんいの釘を打ち込んでいるのではあるまいかという妄想に襲われたりした。
西隣塾記 (新字新仮名) / 小山清(著)
少なくとも三人以上の者が、その主領の死によって、ますます復讐の瞋恚しんいに燃えて、僕を呪い狙っているのであった。この連中はいずれも、恐るべき人間共だからね。
雨月 怖ろしいとも存じませぬが、瞋恚しんい執着しゅうぢゃくが凝りかたまって、生きながら魔道におちたるお前さまは、修行の浅いわれわれの力で、お救い申すことはかないませぬ。
平家蟹 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
正義と云い人道と云うは朝あらしに翻がえす旗にのみ染めいだすべき文字もんじで、繰り出す槍の穂先には瞋恚しんいほむらが焼け付いている。狼は如何にして鴉と戦うべき口実を得たか知らぬ。
幻影の盾 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
こまやかなる味はひには貪慾どんよくの心も深く起り、おろそかなる味はひ落ちぶれたる衣には瞋恚しんいの思ひ浅からず、よしあしは変れども、輪廻りんねの種となることはこれ同じかるべし。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
また慾にかわいて因業いんごふ世渡よわたりをした老婆もあツたらう、それからまただ赤子に乳房をふくませたことの無い少婦をとめや胸に瞋恚しんいのほむらを燃やしながらたふれた醜婦もあツたであらう。
解剖室 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
かヽる人々ひと/″\瞋恚しんいのほむらが火柱ひばしらなどヽ立昇たちのぼつてつみもない世上せじやうをおどろかすなるべし。
経つくゑ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
此の際、三井寺方の申条に対し瞋恚しんいを抱き、喧嘩、強訴、仕返し、その他何によらず殺伐なる振舞いを企つるものあらば、屹度きっとそなたから留めて貰い度いのじゃ。頼んだぞ源右衛門
取返し物語 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
さてはと推せし胸の内は瞋恚しんいに燃えて、可憎につくき人のく出でよかし、如何いかなるかほして我を見んとらん、と焦心せきごころに待つ間のいとどしうひさしかりしに、貫一はなかなかで来ずして
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
瞋恚しんいと憎悪に燃えて、自分の夫人に対してまるで仇敵きゅうてきのごとき伯爵の眼であった。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
誰やら切腹すると、瞋恚しんいの焔とでも云うのか、いた腹から一団のとろ/\したあかい火の球が墨黒の空に長い/\尾を曳いて飛んで、ある所に往って鶏のくちばしをした異形いぎょうの人間にった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
彼女は忿怒ふんぬ瞋恚しんいに燃えて小走りにゆく、……と、向こうにみえる百姓家の馬小屋の脇から、とぼんと出て来る三人の男が眼にはいった、おや見たような、——こう思って立ち止まると
はしたなきもつれにもろくも水と冷ゆるは世の習ひなり、鷺を白しと云ひ、鴉を黒しといふも唯だ目にみゆるところを言ふのみ、人の心を尋ぬれば、よしなきことを諍ひては瞋恚しんいほむらを懐にもやし
哀詞序 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
そうして心の中は瞋恚しんいほのおに燃えたり、また堪えがたい失望のどん底に沈んでしまったような心持になったりしながらもまたふと思い返してみると、女は長い間の苦界くがいから今ようやく脱けでて
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
一千年のうちに、不浄観を聞〔欄外「開?」〕かん、瞋恚しんいして欲せじ。千一百年に、僧尼嫁娶せん、僧毘尼びに毀謗きぼうせん。千二百年に、諸僧尼らともに子息あらん。千三百年に、袈裟変じて白からん。
親鸞 (新字新仮名) / 三木清(著)
つるが病むときには友のつるがつばさをひろげて五体を温めてやる、ちょうどそのように柳はどろやつばによごれた阪井の全身をその胸の下に包み、きっと顔をあげて瞋恚しんいに燃ゆる数十の目を見あげた
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
と——その頃から、瞋恚しんいの人の胸にも似る乱れ雲は、まだ春寒い如法闇夜へ、ポツリ、ポツリと、冷たい雨をこぼしてきた。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
おひの小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚しんいの火をもやさない訳は無い。
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
お銀様自身は事毎ことごとに弁信に向って、自分の形相の、悪鬼外道げどうよりも怖ろしいことを説いて、それをえんずる度毎に、例の瞋恚しんいのほむらというものに油が加わることを
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
船の中でかしいだ飯を持って来てくれたのであるが、瞋恚しんいの火に心をこがしていた俊寛は、その久しぶりの珍味にも目もくれないで、水夫かこの手から、それを地上に叩き落とした。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
仏経には竜は瞋恚しんい熾盛しじょうの者といえるごとくいずれの国でも竜猛烈にして常に同士討ちまた他の剛勢なものと闘うとしたので、既に喧嘩けんか通しなれば人に加勢を乞うた例も多い
また瞋恚しんい焔炎ほむらに心を焼かれ勿体もったいないお上人さまをお恨み申そうとしかけていた。
取返し物語 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
瞋恚しんいが燃ゆるようなことになったので、不埒ふらちでも働かれたかのごとく憤り、この二三日は来るごとに、皮肉を言ったり、当擦あてこすったり、つんとねてみたりしていたが、今夜の暗いのはまた格別、大変
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
恨み死にに死んだ者、そういうのは瞋恚しんいといって、どんな名僧知識の供養でもだめなの、極楽はもちろん地獄へもゆけないで、自分の怨念に自分で苦しみながら、未来永劫えいごう、宙に迷っていなければならないのよ
ゆうれい貸屋 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
無念をのん瞋恚しんい炎燄ほむらを吐く折から
鬼桃太郎 (新字新仮名) / 尾崎紅葉(著)
「ウム、してそいつは」と、お綱の揶揄やゆがやや深刻にすぎたので、孫兵衛、左につかむ助広のつばをブルルとふるわせ、瞋恚しんいの炎を燃えたたせる。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼等の頭を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味の好さを彼等が胸に試みよ、惨酷の矛、瞋恚しんいの剣の刃糞と彼等をなしくれよ、彼等がのんどに氷を与へて苦寒に怖れわなゝかしめよ
五重塔 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
仏が寺門屋下に鴿はと蛇猪を画いてどんしんを表せよと教え(『根本説一切有部毘奈耶』三四)、その他蛇を瞋恚しんいの標識とせる事多きは、右の擬自殺の体を見たるがその主なる一因だろう
砕身の苦を嘗めている高徳のひじりに対し、深夜の闇に乗じて、ひはぎのごとく、獣のごとく、瞋恚しんいの剣を抜きそばめている自分をかえりみると、彼は強い戦慄が身体を伝うて流れるのを感じた。
恩讐の彼方に (新字新仮名) / 菊池寛(著)
とりちからおよがたく、無念むねんのむ瞋恚しんい
鬼桃太郎 (旧字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
「その瞋恚しんいというものは……」
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
彼の大きな姿がふさがるように厨子壇ずしだんの前に坐ったとき、障壁の紅蓮ぐれん白蓮びゃくれんも、ゆらめく仏灯も、ことごと瞋恚しんいほむらのごとく、その影を赤々とくまどった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼らが驕慢ほこりの気の臭さを鉄囲山外てついさんげつかんで捨てよ、彼らのこうべを地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味のよさを彼らが胸に試みよ、惨酷ざんこくの矛、瞋恚しんいの剣の刃糞はくそと彼らをなしくれよ
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
商人こんな悪人はまた竜女を取るも知れぬと心配して、その行く方へ随って行くとある池の辺で竜が人身に変じ商人に活命の報恩にわが宮へ御伴おともしようと言う、商人いわく汝ら竜の性卒暴、瞋恚しんい常なし
しかし、孫兵衛の瞋恚しんいの耳には、そんな、かすかな旋律せんりつがふれても、心にはとまらなかった。息をこらして草むらをいだし、お綱のうしろにヌッと立った。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宋江は居るに苦しく帰るに帰れず、ただ理性と凡情と、そして瞋恚しんいほむらに、てんめんたるまま、あやしき老猫ろうびょう美猫びびょうの魔力に、うつつをなぶられているのみだった。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)