“怯(おび)” の例文
橋場今戸の仮宅から元地へ帰ってまだ間もない廓(くるわ)の人びとは、去年のおそろしい夢におそわれながら怯(おび)えた心持ちで一夜を明かした。
箕輪心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
今(いま)まで流(なが)し元(もと)で頻(しき)りに鳴(な)いていた虫(むし)の音(ね)が、絶(た)えがちに細(ほそ)ったのは、雨戸(あまど)から差(さ)す陽(ひ)の光(ひか)りに、おのずと怯(おび)えてしまったに相違(そうい)ない。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
ただ漠然と愛の誓ひを信じ、そして、漠然と幻滅の予感に怯(おび)えてゐる自分を、もうこれ以上甘やかしてはゐられないといふ気がする。
双面神 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
捉(つか)まりはしないか、という不安に絶えず怯(おび)えていたように、自分もまた世間の眼から隠れ、人にみつかるのを恐れながら暮して来た。
一人でいいのです……一人でいいのです……けれども一人でいるのなら暇を欲しいと、それ以来、看護婦が怯(おび)え切っていますので……
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
と、この時行く手にあたって、一つの人影が現われたが、これも何物かに怯(おび)やかされたかのように、奔牛(ほんぎゅう)のような速さで走って来た。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ひらっと、人影は、縁を跳(と)び下りた。するとどこかで彼の思わざる女の悲鳴がした。彼は怯(おび)えにふかれ、泳ぐがごとく逃げに逃げた。
釜屋の家族や奉公人達は、すつかり怯(おび)えて遠くの方から眼を光らすだけ。その重つ苦しい空氣の中を、瀧五郎は、平次を案内しました。
そばには小間使が立って、怯(おび)え切った途方に暮れた顔をしている。私は小間使を退らせて、書類を机に重ね、暫く思案してから言った。
妻 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
何かと絶えず生の不安に怯(おび)やかされている私のもう一つの姿は、私が自分勝手に作り上げている架空の姿に過ぎないのではないか。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
私(てまい)がその顔の色と、怯(おび)えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩(ひとなだれ)になって遁(に)げ下(お)りました。
眉かくしの霊 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「それが外なのさ。あの四人は、確かに怯(おび)えきっているんだ。もしあれが芝居でさえなければ、僕の想像と符合するところがある」
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
盲になつた馬は、附近(あたり)が見えないから、今までのやうに物に怯(おび)えて跳ねたり、飛んだりするやうな事は、まるで無くなつてしまふ。
顧みて怖れ怯(おび)ゆるものを持たぬ背景があるとき、凡人といえども自らかかる毅然たる態度を維持することが出来易いと僕は思う。
青春論 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
藥でも注(さ)されたらしく、物に怯(おび)えたやうに、逆(のぼ)せるばかりに泣き立てる赤ん坊をすかしながら、外の方へ出て行くものもあつた。
赤い鳥 (旧字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
自分の気が焦(あせ)るのではない、駕籠かきそのものが、この空気に怯(おび)えて、そうして、おのずから早駕籠になってしまうのでしょう。
大菩薩峠:30 畜生谷の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
お島は人に口を利(き)くのも、顔を見られるのも厭になったような自分の心の怯(おび)えを紛らせるために、一層精悍(かいがい)しい様子をして立働いていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そんな悪少年は島の内で制裁すればいいと思われるのに、それがどうして、島の成人(おとな)たちが逆に怯(おび)えている有様なのだそうだ。
こんな日には、彼は昔から地震に対する恐怖で怯(おび)えねばならなかつたのだけれども、今日はこの激しい風のためにその点だけは安心であつた。
私の姿も見えている。多分、私の顔に見覚えがあるかも知れない。で、すっかり怯(おび)えきって、飛び立とうともしないのだ。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
なんと物の恐ろしさに怯(おび)えぬ人たちの多いことかと呆れざるを得ない。しかし、何割かの覚醒者は残存しているはずだ。
黙ってきいていた母の顔は土色になってむしろ何かに怯(おび)えているようだった。そしてただ最後に、「まあ可哀相に……」と呻(うめ)いたばかりであった。
例へば、余り善良なものは却つて悪(あく)人であるかの如く怯(おび)えるものだといふシヱクスピヤの言事は高橋に当箝(はま)るだらう。
高橋新吉論 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
「しかし狼がゐると云ふのは嘘だといふ話だぜ。俺達の気嫌をとるために奴等は故意(わざ)と狼に怯(おび)えて見せたんだとさ。」
武者窓日記 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
母親は怯(おび)えと反抗心から、その後は羽がいの嘴(くちばし)もしっかり胴へ掻き合せた鳥のように、世間というものから殆ど隔絶して、家というものと子供とを
蝙蝠 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
幸子は暮れに風邪を引いてから寒さに怯(おび)えて、ずっと引き籠(こも)ってばかりいたが、映画好きの雪子も、ひとりでは決してそう云う所へ出歩かなかった。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
物に怯(おび)えたように、香取の体は軽く揺れた。しかし、訶和郎の姿は闇の中を夜蜘蛛(よぐも)のように宮殿の方へ馳け出した。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
妙源 こんな風に怯(おび)えながら。甲斐(かい)のない見張りをしているうちには、もうとっくに上って、どこぞ雷にさかれた巌間(いわま)にでも潜んでいるか知れぬことだ。
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
彼はもうすっかり怯(おび)えてしまって、とうとう横手の窓をポーンと明けると、鏡を手文庫ごと窓外に放りだした。
軍用鼠 (新字新仮名) / 海野十三(著)
私は、人氣(ひとけ)のない廊下に立つてゐた。私の前には、朝食堂の扉(ドア)があつた。私は、怯(おび)え震へながら、立ち止つた。
それは豪(え)らかったが、それが世にいう幽霊というものだと、云われた時には、却(かえっ)てゾッと怯(おび)えたのであった。
子供の霊 (新字新仮名) / 岡崎雪声(著)
その物に怯(おび)えた蘆(あし)の嫩葉(わかば)の風に顫(ふる)えるような顔を、長者の女(むすめ)は座敷の方から覗(のぞ)くようにしておりました。
宇賀長者物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
人を見ると自分を叱るのではないかと怯(おび)える卑屈な癖が身についていて、この時も、譫言(うわごと)のように「すみません」を連発しながら寝返りを打って、また眼をつぶる。
竹青 (新字新仮名) / 太宰治(著)
何しろ道幅が狭いので、家毎(ごと)にユラユラと震動して、子供なぞは悲鳴をあげながら怯(おび)えた位であった。
いなか、の、じけん (新字新仮名) / 夢野久作(著)
やや鳶色(とびいろ)がかった、全然南国的に輪廓の鋭い顔から、黒い、柔らかく陰で囲まれた、そして瞼(まぶた)の重すぎる眼が、夢みるように、またいくらか怯(おび)えたように覗いている。
が、その声は、まったく予期しない結果をひき起しました。若杉さんは、自分の声が終るか終らぬかに、次の部屋から夫の声に怯(おび)えた妻の恐ろしい悲鳴をききました。
若杉裁判長 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
仄(ほの)かに星の光っている暮方の空を眺めながら、「いっそ私は死んでしまいたい。」と、かすかな声で呟きましたが、やがて物に怯(おび)えたように、怖々(おずおず)あたりを見廻して
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ふいと風が吹立ツて、林は怯(おび)えたやうに、ザワ/\と慄(ふる)へる……東風(こち)とは謂へ、尚(ま)だ雪を嘗(な)めて來るのであるから、冷(ひや)ツこい手で引ツぱたくやうに風早の頬に打突(ぶツか)る。
解剖室 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
主人の半九郎をはじめ、荒木陽一郎、松原源兵衛のふたり、被害妄念(ひがいもうねん)に怯(おび)やかされているのが、宵の口から集って、チビリ、チビリ、さかずきのやり取りをしている。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
石のように硬くなって、怯(おび)えた目つきでそれをきいていた三人の顔に、さっと喜びの光が射した。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
多くは彼よりも年上であって、その嬌態(きょうたい)で彼を怯(おび)えさせ、その拙劣なひき方で彼を失望さした。
否(いいえ)、直ぐに逃げ出したのでございました。けれども淀君の声が脳裡(あたま)に深く沁み込んで翌朝から発熱致しました。医者は何かに怯(おび)えたのらしいと申す丈けで治療の方針が立ちません。
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
葉子さんはそれを「父は怯(おび)えたような眼付をし、まともにわたくしを見なかった。」
何故(なにゆえ)とは知るよしもなけれど、ただこの監獄の様(さま)の厳(いか)めしう、怖(おそ)ろしきに心怯(おび)えて、かつはこれよりの苦を偲(しの)び出でしにやあらんなど、大方(おおかた)に推(お)し測(はか)りて、心私(ひそ)かに同情の涙を湛(たた)えしに
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
こちらが一字も書かぬのに雑誌社までを怯(おび)えさせるとはなにごとか。まさか私が惨死体になるとは思わないが、脅迫されれば私は必ず書く。しつこく喰い下って来ればいっそう詳しく書く。
次に『心経』に「罣礙なきが故に恐怖(くふ)あることなし」とありますが、恐怖(くふ)とは、ものにおじることです。ものに怯(おび)え怖(おそ)れることです。恐ろしいという気持です。つまり不安です。心配です。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
一つは彼らに十二分の自信があったためでもあるが、もう一つは、こういう犯罪を敢(あえ)てする者の、一種の不感症的性格から、彼らはなんら怯(おび)えることもなく、その数日を過ごすことが出来た。
月と手袋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
曲もない白壁のやうな空を見るために、森林を犠牲にしなければならなかつたのであらうか、私は眼かくしの革を取り去られたときの、馬の怯(おび)えを感じた、森と私の交感を妨げやうとするのは
亡びゆく森 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
もとより雲州(うんしう)は佐々木の持国(もちぐに)にて、塩冶は三一守護代(しゆごだい)なれば、三二三沢(みざは)三刀屋(みとや)を助けて、経久を亡(ほろぼ)し給へと、すすむれども、氏綱は外(ほか)勇(ゆう)にして内怯(おび)えたる愚将なれば果さず。かへりて吾を国に逗(とど)む。
吉原土手から大門(おおもん)を這入りまして、京町一丁目の角海老楼(かどえびろう)の前まで来たが、馴染の家(うち)でも少し極りが悪く、敷居が高いから怯(おび)えながら這入って参り、窮屈そうに固まって隅の方へ坐ってお辞義をして
文七元結 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)