あて)” の例文
旧字:
「そうか。」やっとあてがついたので、わたくしも俄に声をひそめ、「おれはそんなドジなまねはしない。始終気をつけているもの。」
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ともかく、明日のパンに困っては、売るあてもない原稿を書いて、運のさいの目が此方こっちへ廻って来るのを待っているわけにも参りません。
「好いわね。どうせ畑へはわし一人出りやすむんだから。」——お民は不服さうにお住を見ながら、こんなあてつこすりもつぶやいたりした。
一塊の土 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
ただあてもなく逃げまわる旅寝の夢が、私の人生の疲労に手ごろな感傷を添え、敗残の快感にいささかうつつをぬかしているうちに
いずこへ (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
王子おうじはこういうあわれな有様ありさまで、数年すうねんあいだあてもなく彷徨さまよあるいたのち、とうとうラプンツェルがてられた沙漠さばくまでやってました。
そして今度はどこというあてもなく、フラフラと街から街を彷徨さまよった。どこまで逃げても、たった五尺の身体からだを隠す場所がなかった。
灰神楽 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
錦子は、青葉の中を、美妙と、そぞろ歩きしようという、あてはずれただけではない重っくるしさを抱えてぽっくりを引きずって歩いた。
田沢稲船 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
私しは初め天然の縮毛で無い事をしった時、猶お念の為め湯気で伸して見ようと思い此一本を鉄瓶の口へあてて、出る湯気にかざしました
無惨 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
しわぶき、がっしりした、脊低せいひく反身そりみで、仰いで、指を輪にして目に当てたと見えたのは、柄つきの片目金、拡大鏡をあてがったのである。
のつそり立ち上りざま「いづれ近日何等なんらかの沙汰をしようが、余りあてにしない方がよからう。」とていよく志望者を送り出してしまふ。
医師は、いかにも、自分の与へた注意が守られなかつたのが、遺憾に堪へないやうに、耳は聴診器にあてがひながら、幾度も繰り返した。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
それは私がまだ二十はたち前の時であった。若気の無分別から気まぐれに家を飛びだして、旅から旅へとあてもなく放浪したことがある。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
影薄く存在していた蕪村について考える時、人間の史的評価や名声やが、如何いかに頼りなくあてにならないかを、真に痛切に感ずるのである。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
こいつあ明日あしたになりゃあ勝負がつくのだ、どうせ無益むだにゃあきまってるが明日あした行って見ねえ中は楽みがある、これよりほかにあては無えんだ。
貧乏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
大原「オヤオヤ少しあてが違った。ナニさ少し都合が悪いよ。僕は今小山君の処で南京豆のお汁粉というものを腹一杯食べて来た」
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
兄と自分は体力の優秀な男子と云う訳で、婦人がた二人に、下のベッドをあてがって、上へ寝た。自分の下には嫂が横になっていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それから、武の顔を見ると、鱒の歯にあてられて、少し血が出て居り升た。母は可愛さうだと思ひながらも可笑をかしくつてたまらず
鼻で鱒を釣つた話(実事) (新字旧仮名) / 若松賤子(著)
田端たばた辺りでも好い。広々した畑地に霜解けを踏んで、冬枯れの木立の上に高い蒼空を流れる雲でも見ながら、あてもなく歩いていたいと思う。
枯菊の影 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
『わかりません。全く解りません。が、ここにほんのちょっと不審に思うことがあるんです。でも、それもどうもあてにはなりませんが‥‥』
一途いちずにこうして鏃ばかりでねらうと、鏃のあてはよくても、かんの通りがろくでもないことになると、矢の出様が真直ぐにいかない。
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
抽斎は目をみはった。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に調達ちょうだつせられるものではない。お前は何かあてがあってそういうのか。」
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
作「それじゃア三藏に貸してくれといっても貸さねえといえば礼はねえか、困ったな、じゃアあとの礼の処はあてにはならねえな」
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
故曰、形は偶然のものにして変更常ならず、意は自然のものにして万古易らず。易らざる者は以てあてにすべし、常ならざる者あにあてにならんや。
小説総論 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
ヘエー何が慈善だよ、何が公共事業だよだ。夕方になると、朝から何も食べていない二人は、暗い部屋にうずくまってあてのない原稿を書いた。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
「さう」と、女はさびしい微笑を浮べたが、やつぱりあてにならないことを頼りにして来たのだと云ふ、淡い悔いを感じた。
或売笑婦の話 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
あてはずれた青蠅が他の腐肉を捜し求めに四方へ散ってゆくかのように、蠅の唸るような声高いうわあっという声が街路へ流れ出ていたからである。
はてしもない白い砂漠を、あてもないのにタッタ一人で旅行させられているような苛立たしさと、馬鹿らしさを感じ初めた。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
翁は、机の上の書物を伏せて、手を合せて指を組んで、頭の上にあて俯向うつぶして、神に何をか祈る……翁が初めの五年、六年は斯様風のものであった。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
一しょに行こうじゃないか。己の方ではもうその考えに馴染なじんでしまっている。アルフレットのいう事なんぞはもううから己はあてにしていないのだ。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
ナイエル婦人の旅館オテルこの広場の外れにあつて、僕の部屋にあてられた二階の窓を其処そこ木立こだちの明るい緑がてらして居た。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
煙は中天に満々みちみちて、炎は虚空にひまもなし。まのあたりに見奉れる者、更にまなこあてず、遥に伝聞つたへきく人は、肝魂きもたましひを失へり。法相ほつさう三論の法門聖教、すべて一巻も残らず。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
きみちやん一人ばかりが本当で後の人の考へは、あて推量だとか臆測とか云ふものでそれは間違つてゐるのです。
従妹に (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
余り期待が大きかったので、これなら規模は小さいが、岩は寧ろ一之関の厳美いつくし渓の方がよいと思わず独語したのは、少しあてのはずれた腹癒はらいせに外ならない。
木曽駒と甲斐駒 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
私はじつに苦心をした。できることなら、すねあて、こて当、かぶとをかぶって街を歩きたく思ったのである。
「二口あるんですがね。百五十円と二百円ですが、どうも、二百円のほうは、三文役者のあてなしなんでねえ」
痀女抄録 (新字新仮名) / 矢田津世子(著)
この家来を叱ることについて如水自身の言ひわけがあるが、その言ひわけは固よりあてになつたものではない。畢竟ひっきょうは苦しまぎれの小言こごとと見るが穏当であらう。
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
というあてもないのに、女持ちの雨傘を買って来たり金縁きんぶちの小型の名刺にただ「仲木なかぎ」とだけ刷らしたのを、用箪笥ようたんす抽斗ひきだししまい込んでおいては楽しんでいた。
そしてそんな思い附きでも何かの機縁になって、他日良果を結ぶことでもあればなんぞと、あてにもならぬ先の先を見越して空頼そらだのみしていることもあるのである。
禿鷹はあてがはずれました。それでもなお、方々の山へ行って、一々たずねてみましたがどの山の霊もみな、どれだか知らない、と同じ冷かな答えをするきりです。
コーカサスの禿鷹 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
益々好色的な気分に成って未だあての定らない裡に最早や其の牛屋に坐って居る事にこらえられなく成り、歩き乍ら定めようと元の活動街の方へ引返して参りました。
陳情書 (新字新仮名) / 西尾正(著)
やせた者かをハッキリといいあてるときが出来るほど、異状にぎすまされた感覚の、所有者となっていた。
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
富岡先生少しあてはずれたのサ、其処そこよろしい此処こっちにもそのつもりがあるとお梅さんを連れて東京へ行って江藤侯や井下いのした伯を押廻わしてオイ井下、娘を頼む位なことだろうヨ
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
どこへ往こうと云うあてもなしに歩いているところである。とにかく入ってみようと思いだした。広巳は前方むこうが知っていて己の知らないと云う女に好奇心を動かした。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「こつちも、一日々々の命があてだ、一日命が延びたと云へば、誰が凝つとしてゐられるものかね。」
サクラの花びら (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
夜中をあてもなく歩き回った。空気はさわやかで、野は暗く寂しかった。ふくろうが寒そうに鳴いていた。彼は夢遊病者のように歩いていった。葡萄ぶどう畑の中にある丘に上った。
知行割でゆくと、百石について、十八両あての分配であったから、千石では百八十両になるが「高知減し」は、百石を増して禄が上へのぼる毎に、二両ずつの減配をする。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
出かけたにしても、行くあてもない彼女はもう帰って来そうなものだ。彼は一層不安になり出した。
罠に掛った人 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
あてにしていた印税を持って来てくれる筈の男が、これも生活に困って使い込んでしまったのか途中で雲隠れしているのだと、ありていに言うと、老訓導は急に顔を赧くした。
世相 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
機関車の断末魔の吐息に泡立ちながら、七色に輝く機械油を、あてもなく広々と漂わしていた。
気狂い機関車 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
知時は内裏に行くと、夜になって人目につかなくなってから、つぼねの裏口にひそんでいた。すると確かに、訪ねるあてぬしの声で何かいっているのが聞えた。耳を澄ましてみると