おもかげ)” の例文
山越しの弥陀みだの図の成立史を考えようとするつもりでもなければ、また私の書き物に出て来る「死者」のおもかげが、藤原南家郎女なんけいらつめの目に
山越しの阿弥陀像の画因 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
不幸で沈んだと名乗るふちはないけれども、孝心なと聞けばなつかしい流れの花の、旅のころもおもかげに立ったのが、しがらみかかる部屋の入口。
縁結び (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ただいずこともなく誇れるたかおもかげ眉宇びうの間に動き、一搏いっぱくして南の空遠く飛ばんとするかれが離別の詞を人々は耳そばだててけど
おとずれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
「としのことを云ってくれるな」作次は左手で頬杖を突き、顔をゆがめた、「おさんか」と作次は遠いおもかげを追うような眼つきでつぶやいた。
おさん (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
床は勿論もちろん椅子いすでもテーブルでもほこりたまっていないことはなく、あの折角の印度更紗インドさらさの窓かけも最早や昔日せきじつおもかげとどめずすすけてしまい
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
まだどこか子供々々したおもかげのぬけきらぬ顔をあかくし、パタ/\とその書面を叩きながらそれを奥方に見せに座を蹴つて立つた程であつた。
ただ亡児のおもかげを思いずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。
我が子の死 (新字新仮名) / 西田幾多郎(著)
五、膃肭獣オットセイの口髯に初恋の人のおもかげあり。この世の中にミミイ嬢のように立派なペンギン鳥は決して存在しているべきはずのものでない。
この口唱が一しきり済んで、娘達のまぼろしの一めぐりしたあとへ、屋敷内のありとあらゆる倉々のおもかげが彼の眼の前でおどり始めた。
老主の一時期 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
身長みたけ高く肉附きよく、腰もピーンと延びている。永らく欧羅巴ヨーロッパに住んでいたが、最近帰朝した日本人——と云ったようなおもかげがある。
神秘昆虫館 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
姫は夜の闇にもほのかに映るおもかげをたどって、うずくような体をひたむきにす。行手ゆくてに認められるのは光明であり、理想である。
大田黒おおたぐろ氏の書いた『影絵』の中のパハマンの項を読むと、レコードはパハマンのおもかげを伝えていないと言っている、恐らくそうであろう。
譬えば新体詩なんぞになんじと書いてナと読ませてナのおもかげとかナの姿とか読ませる。文字を見ずにただ聞くとはなが幽霊になったようだ。
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
三十年近くも前の、私の若き頃の身のおもかげが、ひとりで幻想となって眼の底に浮かんできた。改めて、私はゆりかもめをみつめた。
みやこ鳥 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
で、京都では段々と仏師に名人もなくなり、したがって仏師屋も少なくなり、今日では、寺町通りへ行っても、昔日のおもかげはありますまい。
そしてどういうものか、よく見なれた晩年の母のおもかげよりも、その写真の中の見なれない若い母の俤の方が、私にはずっとなつかしい。
花を持てる女 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
国語漢文の先生であったが、その顴骨の高い、君子らしい、声の美しい、長身の先生のおもかげは今もハッキリと目の前に浮んで来る。
光り合ういのち (新字新仮名) / 倉田百三(著)
と思うと、わしは何とも云えぬいやあな気持になった。そして、あのいまわしい姦夫姦婦のおもかげが、憎々しくわしの頭に浮上った。
白髪鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
彼は思い出すことがあったかのように、しずかに応えたのではあったが、その実、その名ざされた博士のおもかげさえ思い出してはいなかった。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
子として父のおもかげを写して見ようとする場合にすらそれだ。まして他の人の俤をやである。それにつけてもつくづく創作のむずかしいことを知る。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
整然きっちり片附られた座敷の正面床の脇に、淋しく立掛られてある琴が、在らぬ主のおもかげを哀れにしのばせた、春日は中央まんなかでじっと四辺あたりを見廻して後
誘拐者 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
作家のおもかげのない小説はつまらない、という風に、これも二次的な理解で云ったのに、北原がくってかかって云っているのです。
その西側のものはかなりの修繕を加えた様子だが、東側のものはほとんど昔のおもかげをそのままに保ちつつ人々に存在を忘れられつつそびえている。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
とは、言はずと知れたことだが、やゝもすると、昭和の名古屋に、宝永のおもかげが多分に残つて居るのは、あながち筆者のひが目ではないやうだ。
名古屋スケッチ (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
かすりの単物に、メリンスの赤縞あかじまの西洋前掛けである。自分はこれを見て、また強く亡き人のおもかげを思い出さずにいられなかった。
奈々子 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
時々藤本看護婦のおもかげが空に浮んだ。私はうつとりと彼女の優しみに充ちた笑顔を眺めた。彼女の俤を夢に見ることも一度や二度ではなかつた。
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
豊雄はそのあとで、そこの主人の蓑笠みのかさを借りて家へ帰ったが、女のおもかげが忘られないので、そればかり考えているとその夜の夢に女の許へ往った。
蛇性の婬 :雷峰怪蹟 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
さながら希臘ギリシャか古羅馬ローマ貴族の邸にでも佇んで在りし昔の豪華なるおもかげでもしのんでいるかのような気持がしてくるのであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
忠太郎 五つといえばちッたあ物も判ろうに、生みの母のおもかげを、思い出そうと気ばかりはやるが、顔にとんと憶えがねえ。
瞼の母 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
頭から毛皮をかぶったひげぼうぼうのくまのような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監いちゅうきゅうかん蘇子卿そしけいおもかげを見出してからも
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
されど最も我目に留まりしはそれにはあらず。君が目、君が黒髮なりき。人となり給へる今も、そのおもかげは明に殘れり。
あくまで豪毅ごうき、あくまで沈着、さながら春光影裡しゅんこうえいり斑鳩いかるがの里を逍遥しょうようし給う聖徳太子のおもかげしのばれんばかりであった。
メフィスト (新字新仮名) / 小山清(著)
女房にようばう彼等かれらにはときまで私語さゞめうたおもかげがちつともなかつた。彼等かれらあわてゝ寶引絲はうびきいとふところかくしてらぬ容子ようすよそほうて圍爐裏ゐろりそばあつまつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
売物と毛遂もうすいふくろきりずっと突っ込んでこなし廻るをわれから悪党と名告なのる悪党もあるまいと俊雄がどこかおもかげに残る温和おとなし振りへ目をつけてうかと口車へ腰を
かくれんぼ (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
音楽のたとえを設けていわば、あたかも現代の完備した大風琴を以って、古代聖楽を奏するにも比すべく、また言葉を易えていわば、昔名高かった麗人のおもかげ
『新訳源氏物語』初版の序 (新字新仮名) / 上田敏(著)
日本歴史上の名将東郷平八郎元帥のおもかげをすら親しくは余は一度も見たことがない、乃木大将は或時士官学校の前から四谷の方へ出る処、荒木町であったか
生前身後の事 (新字新仮名) / 中里介山(著)
奇遇に驚かされたる彼のゑひとみなかばは消えて、せめて昔のおもかげを認むるや、とその人を打眺うちながむるより外はあらず。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
蟹十郎かにじゅうろうの吾太夫は寿美蔵の師匠張より見好きも、貫目かんめに乏しく、翫太郎の道庵ははまり役にて好し。小由の桜茶屋女房は松之助のおもかげあれど、つんけんし過ぎたり。
本店の方は前述のごとく昔日せきじつおもかげはないが、支店特異の腕前は現在新橋あたりの寿司屋としては、まず第一に指を屈すべきで、本店の衣鉢いはつは継がれたわけである。
握り寿司の名人 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
お佐代さんはなりふりに構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた昔のおもかげはどこやらにある。このころ黒木孫右衛門というものが仲平に逢いに来た。
安井夫人 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
以上の経過を、犬射は言葉すくなに語りおえたのであるが、すると、見えぬ眼を海上にぴたりと据え、そこを墓とする、武人のおもかげしのんでいるようであった。
潜航艇「鷹の城」 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
今でも西蔵チベットその他の未開国には一婦多夫と女の家長権とが古代のおもかげのこしている。文明国においても娼婦しょうふ妓女ぎじょのたぐいは一種の公認せられた一婦多夫である。
私の貞操観 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
ノルウェイの渓谷の新緑は特殊な柔味があり、木々の枝葉は生い繁り、夏には北方の気候のおもかげは更にない。
建築に於ても、東大寺の法華堂ほつけだう、法隆寺東院とうゐん夢殿ゆめどの新薬師寺しんやくしじ、正倉院その他が、当時のおもかげを伝へてゐる。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
不思議さ、忍藻の眼の中には三郎のおもかげが第一にあらわれて次に父親の姿があらわれて来る。青ざめた姿があらわれて来る。血、血に染みた姿があらわれて来る。
武蔵野 (新字新仮名) / 山田美妙(著)
所が、不思議な事に、劉の健康が、それから、少しづつ、衰へて来た。今年で、酒虫を吐いてから、三年になるが、往年の丸丸と肥つてゐたおもかげは、何処にもない。
酒虫 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
草にひたされ草を養っている水の集りが中央に二、三の細流を湛えて、雑魚や水すましの群れこそ見えないが、里の小川のおもかげを偲ばせて、しずかに山の影を浮べている。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう。私のおさない眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛石伝いに奥へ這入はいるようになっていた。
二階から (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
全く世事を超脱した高士のおもかげ、イヤ、それよりも一段もつと俗に離れた、俺は生れてから未だ世の中といふものが西にあるか東にあるか知らないのだ、と云つた様な顔だ。
葬列 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
風俗三十二相(三十二枚そろひ)は晩年の作なれどもその筆致の綿密にして人物の姿態の余情に富みたる、まさにこれ明治における江戸浮世絵最終のおもかげなりといふべし。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)