もや)” の例文
少しもやっぽい空で、朝日が暖かく十月下旬の街路や建物に輝いている。伸子は、格別急ぎもせず顔を洗い、髪を結い、衣服を更えた。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
もやに包まれた柳並木の濠端ほりばたに沿うて、ヘッド・ライトの明るい触角を立てながら、日比谷から桜田門、三宅坂の方へと上って行った。
指と指環 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
それは、おどろおぞましい色であり、もやであって、その物凄まじいおののきには、自分の心臓すらも、観客は見出せないほどであった。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
これはこの前の晩の時のように、闇でもなければもやでもありませんで、梅が一輪ずつ一輪ずつほころび出でようという時候でありました。
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調しらべ、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただもやとなる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そして、太平洋の海の様に、水平線はなくて、海と空とは、同じ灰色に溶け合い、厚さの知れぬもやに覆いつくされた感じであった。
押絵と旅する男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
薄い灰色のもやのうちから哀願しているような青い眼をした、可憐な娘の顔が見えたかと思うと、やがてその優しい姿があらわれた。
小柄なヒステリイの強い眼の下に影のある年増としま女の顔が浮んで来ると、彼はじぶんをふうわりと包んでいたもや裂目さけめが出来たように感じた。
文妖伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
もや金色こんじきの残照に包まれ、薔薇ばら色した黄、明るいねずみ、そのすそは黒い陰の青、うるおいのある清らかさ、ほれぼれとする美しさだ。
シューラはおいおいいた。あたりのものがばらいろもやつつまれて、ふわふわうごした。ものくるおしい屈辱感くつじょくかんに気がとおくなったのだ。
身体検査 (新字新仮名) / フョードル・ソログープ(著)
けむりのようなもやがねばりついていた、そして村はずれに屹えている、のウェッテルホルンの絶壁には、滝のように霧が這い下って来る。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
そのもやの中に一つの声が起こって、また急にも一つの声にさえぎられていた。それは相手の男と言葉をかわしてるグランテールだった。
寒さはいつの間にかすこしゆるんで、のろいひさしの点滴の音が、をちこちで鳴き出したふくろうの声の鳴き尻をたたいてゐる。雨ではない。もやだ。
上田秋成の晩年 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
夕日の光はとうに薄れて、あたりにはもうもやさえ動いていたが、その若者が素戔嗚だと云う事は、一目見てさえ知れる事であった。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
郊外の朝顔売りは絵にならない。夏のあかつきの薄いもやがようやくげて、一町内の家々が大戸おおどをあける。店を飾り付ける。水をまく。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
が、ヒュッシュの宏大な表現、——全曲を支配する、もやのような悲哀感のうちに脈動する夢幻的な歓喜は、私に新しい美を示した。
ここを通るは白雲しらくも眞珠船しんじゆぶね、ついそのさきを滑りゆく水枝みづえいかだ……それ、眼のしたせきの波、渦卷くもやのそのなかに、船もいかだもあらばこそ。
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
邦夷の吐く柔かな呼吸が、うすくもやがかっていた。陽を受けて、ふっくらと金色に変るのである。その靄をむようにして彼は云った。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
町々にがともって、寒いもやと煙との間を労働者たちが疲れた五体を引きずりながら歩いて行くのにたくさん出あっているだろう。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
それだのに、晩秋のもやひくくとぶ鳥はみえても、駿馬項羽にまたがったかれのすがたが、いつまでも見えてこないのはどうしたわけだ?
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ただ、夕暮れの淡い銀灰色のもやのなかに沈んで行く町と海が、より広く見渡せるだけのことで。だが、そこにはいつも人かげがなかった。
箱の中のあなた (新字新仮名) / 山川方夫(著)
そして遠くには、うすい、すきとおるようなもやが低地から忍びやかに舞いあがり、次第にあたりを包みかくしてしまいそうな気配だった。
段々だん/″\れて來るに從ツて、お房は周三に種々な話を仕掛しかけるやうになツた。而ると其のこゑがまた、周三の心に淡いもやをかけた。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
地方の劇場といえばどこもそうだが、ここでもシャンデリヤの上の辺にはもやがたなびいて、聾桟敷つんぼさじきががやがやと沸き立っていた。
氷のようなもやが自然をおおってるかと思われた。周囲いたるところに、どちらを向いても、盲目な「獣」の致命的な息を、顔の上に感じた。
こうした眺め一杯に快い日の光がさして、それにまつわるかすかなもやのために、何とも言えない柔味やわらかみとやさしみとを帯びていた。
とはいえ、そこには愚かな濃いもやが一ぱいにたちこめていたので、その響はまったく鋭さのない遠いおぼおぼろしいものになっていた。……
田舎医師の子 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
縄暖簾なわのれんの隙間からあたたかそうな煮〆にしめにおいけむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮のもやけ込んで行くおもむきなども忘れる事ができない。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ムルデの河波は窓の直下ましたのいしづゑを洗ひて、むかひの岸の草むらは緑まだあせず。そのうしろなるかしわの林にゆふもやかかれり。
文づかひ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
それにかびの臭いの外に、胸の悪くなる特殊の臭気が、間歇かんけつ的に鼻をいた。その臭気にはもやのように影があるように思われた。
淫売婦 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
そうして、夕もやは、ピンク色。夕日の光が靄の中に溶けて、にじんで、そのために靄がこんなに、やわらかいピンク色になったのでしょう。
女生徒 (新字新仮名) / 太宰治(著)
地上からすくいあげられたやわらかい真夏のもやで裏うちされたものであろうか? そのタカの巣は今どこかの雲の断崖である。
高台のあたりでからすがなき、すずめが八方に飛びちがう。乳色をした夏のもや、裾の方からまくれてゆく。と、城之介深呼吸をした。
剣侠受難 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
やがて、蒸気が浴室に溢れ出すと、一面長方形の真白なもやの中に、主人も客も茫々として見えなくなった。蒸気の中からお柳の声が聞えて来た。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
夕汐ゆうしおの高い、もやのしめっぽいよいなど、どっち河岸を通っても、どの家の二階の灯もなまめかしく、川水に照りそい流れていた。
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
品川の海はいま深い夜のもやに包まれて、愛宕山あたごやまに傾きかけたかすかな月の光が、さながら夢のように水の面を照している。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
庭にはまだもやが薄く残っている時刻だったが、自分の愛している桃やゆすら梅や八重桜などが、さんざんに枝を払われ、根から切り倒されていた。
四日のあやめ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
天もげよと燃えあがる熖の紅ではなく、淋しい不可思議な花の咲く秋の野の黄昏たそがれを、音もなく包む青ばんだもやである。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
もやが眼にかかった、二人はあたかも舟を通りぬけて沈み、海を通りぬけて沈み、海の底の無限の空虚を通りぬけて沈み
かなしき女王 (新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
昼のあひだのひどい暑気に蒸された川の面の臭ひに夜更けの冷気がしんしんと入れ混つて、たとへば葦間いかんの腐臭をぐやうな不思議なにおいつたもや
水に沈むロメオとユリヤ (新字旧仮名) / 神西清(著)
しのぶおかと太郎稲荷の森の梢には朝陽あさひが際立ッてあたッている。入谷いりやはなお半分もやに包まれ、吉原田甫よしわらたんぼは一面の霜である。
里の今昔 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ことに抱茗荷の紋をちりばめた大名の乗るような黒塗りの駕籠を見上げたとき、深いもやが一度に晴れるように、抱茗荷の紋がはっきりと思い出せた。
抱茗荷の説 (新字新仮名) / 山本禾太郎(著)
嘆き? もやにふえる廃墟まで美しく嘆く。あ、あれは死んだ人たちの嘆きと僕たちの嘆きがひびきあうからだろうか。
鎮魂歌 (新字新仮名) / 原民喜(著)
しのぶおかと太郎稲荷いなりの森の梢には朝陽あさひが際立ッてあたッている。入谷いりやはなお半分もやに包まれ、吉原田甫たんぼは一面の霜である。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
垣根かきね胡瓜きうり季節きせつみなみいて、あさもやがしつとりとかわいたにはつちしめしておりるとなにひがんでかかげさがうり
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
日ぐれはさいごの光が、西の山の端から、木や家や墓石にやさしくさし、それが一つづつ消えていつて、青い影と夕もやがしづんで来るのでありました。
鳥右ヱ門諸国をめぐる (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
一面にうっすらともやの立ちこめている向うの植込みのあたりへ「いい匂がするなあ、何んの花のにおいだろう——」
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
朝ぼらけのもやの間にはいろいろの花の木がなお女王の心を春にきとどめようと絢爛けんらんの美を競っていたし春の小鳥のさえずりも笛の声に劣らぬ気がして
源氏物語:41 御法 (新字新仮名) / 紫式部(著)
夕焼のあかね色が空の高みに残り、白いもやが道の前方をつて来る、その空気に包まれると、彼は何だか平和だつた。
姉弟と新聞配達 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
半透明はんとうめいにおやかなもやに包まれたかと思うと、その靄の中で、近々とやわらかに彼女の眼が光って、ひらたい唇が熱っぽく息づき、歯がだんだん見えてきて
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)