仰向あおむ)” の例文
そうして時々仔細しさいらしく頭を動かしてあちらを向いたりこちらを向いたり、仰向あおむいたり俯向うつむいたりするのが実に可愛い見物である。
鴉と唱歌 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
「またやんちゃんが始まるな、」と哲学者は両手でおとがいを支えて、柔和な顔を仰向あおむけながら、若吉をみつめて剃立そりたてひげあとで廻す。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ピチピチした裸体が仰向あおむけに寝かされて、そのそばには磨き立てた出刃庖丁が、刃先を下にしてズブリと板の上に突っ立っています。
ビール箱の蓋の蔭には、二十二三位の若い婦人が、全身を全裸のまま仰向あおむきに横たわっていた。彼女は腐った一枚の畳の上にいた。
淫売婦 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
女の強い声とともにどうしたのか洋服の男は、土間の上に仰向あおむけに倒れてしまった。と、ガラス戸がいて女の姿は外へ出てしまった。
港の妖婦 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
右を下にした、左を下にした、仰向あおむいても見た、時々はわれ知らず足を伸ばして、薪木を蹴り火花を散し、驚いて飛起きたこともあった。
白峰の麓 (新字新仮名) / 大下藤次郎(著)
しまいには、その鏡に気圧けおされるのか、両手の利かないお敏の体が仰向あおむけに畳へ倒れるまで、手をゆるめずに責めるのだと云う事です。
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
天井を仰向あおむいて視ると、彼方此方あちこちの雨漏りのぼかしたようなしみが化物めいた模様になって浮出していて、何だか気味きびの悪いような部屋だ。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
主人は仰向あおむいて番号を見ながら、おい誰かいないかねとつぎへ声をかけた。敬太郎はまたそろそろ三階の自分のへやへ帰って来た。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
端折はしょりのしごきを解きて、ひざの上に抱かれたまま身をそらすようにして仰向あおむきに打倒れて、「みんな取って頂戴ちょうだい足袋たびもよ。」
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
法師丸の位置からやゝ仰向あおむけた鼻のあなが覗けるのだが、肉のうすいことは縦に細長く切れている二つの孔の境界線を見ても分る。
蝦夷萩は、鼻腔びこうからひくいうめきに似た息を発し、身を仰向あおむけに転ばして、嬉々ききと、十四の少年が、なすままに、まかせていた。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
だだだだッと、「赤毛のゴリラ」は銃丸のために後に吹きとばされドターンと仰向あおむけにたおれてしまった。そして石のように動かなくなった。
流線間諜 (新字新仮名) / 海野十三(著)
小さい顔に、くりくりした、漆のように黒い目を光らして、小さくて鋭く高い鼻が少し仰向あおむいているのが、ひどく可哀らしい。
かのように (新字新仮名) / 森鴎外(著)
生きておられないくらいに不安になり、指先の力も抜けて、編棒を膝に置き、大きい溜息をついて、顔を仰向あおむけ眼をつぶって
斜陽 (新字新仮名) / 太宰治(著)
気が気でないので、一同があわてふためく中で、医道いどうの用はこの時にありとばかり、長庵は大得意だいとくいだ。意識不明の幸吉を仰向あおむけに寝かして
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
飛衛は新入の門人に、まずまたたきせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台はたおりだいの下にもぐんで、そこに仰向あおむけにひっくり返った。
名人伝 (新字新仮名) / 中島敦(著)
あたりに砂埃すなぼこりのような幕が立って、彼は彼の手で仰向あおむけに突きとばされたヒロ子さんがまるでゴムマリのようにはずんで空中に浮くのを見た。
夏の葬列 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
復一はボートの中へ仰向あおむけにそべった。空の肌質きじはいつの間にか夕日の余燼ほとぼりましてみがいた銅鉄色にえかかっていた。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
足音は襖の前に止ったが、襖はすべりよくむしろ何気なく開いたような様子だった。女は肩さきをられたように驚いて、冷汗をいて仰向あおむいた。
三階の家 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
校長は肱枕ひじまくらをして足を縮めていびきをかいているし、大島さんは仰向あおむけに胸をあらわに足をのばしているし、清三は赤い顔をして頭を畳につけていた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
その時には空中に音楽の音が聞えた。船頭達は舟の片隅にうずくまって、目をつむって聴くだけで、決して仰向あおむいて見るようなことをしなかった。
織成 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
部屋の真ん中にはしまの入った小猫が、可愛い足をひろげて仰向あおむきになっていた。ジナイーダはその前に膝をついて、そっと猫の顔を持ちあげていた。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
みせにはいって海蔵かいぞうさんは、いつものように、駄菓子箱だがしばこのならんだだいのうしろに仰向あおむけにころがってうっかり油菓子あぶらがしをひとつつまんでしまいました。
牛をつないだ椿の木 (新字新仮名) / 新美南吉(著)
わっと男達は声をあげ、左肩からあびせられた先刻の背の低い男が、逃げようとしてそこへ仰向あおむけに引っくり返った。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
少年しょうねんは、なかの、不公平ふこうへいや、不平等ふびょうどうが、つぎつぎにうずまき、あたまがつかれたので、やわらかなくさうえへ、仰向あおむけになってねころび、をふさぎました。
太陽と星の下 (新字新仮名) / 小川未明(著)
と云う女の声にびっくり致して、市四郎が仰向あおむいて見ますと、崖の上からバラ/″\/″\とくしこうがいが落ちて来ました。
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
と、彼女は診察用ベッドに相も変わらず仰向あおむきになったまま、わたしの顔をあなの空くほど見つめて申しました。
メデューサの首 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
仰向あおむきにおしつぶされた緑さんは、苦しそうなうめき声を立てて、お花のお尻の下で藻がいた。酔っぱらったお花は、緑さんの頭の上で馬乗りの真似をした。
踊る一寸法師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
米は仰向あおむきになった叔父の膝の上へ寝そべってそういった、そして叔父の鼻のあなぜ黒いのだろうと考えた。
(新字新仮名) / 横光利一(著)
で、妹に帽子をがせて、それを砂の上に仰向あおむけにおいて、衣物きものやタオルをその中に丸めこむと私たち三人は手をつなぎ合せて水の中にはいってゆきました。
溺れかけた兄妹 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
おじいさんの膝頭ひざがしらに頭のうしろをもたせかけ、仰向あおむけにさせられると、その腐ったような顔とむきあった。おじいさんはやっとこみたいなものをもっている。
旧聞日本橋:17 牢屋の原 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
彼は線路に付いて三間ばかりって、東の方のレールを枕に仰向あおむけになって次の汽車の来るのを今か今かと待ちつつ、雲間を漏れる星の光りを見詰めていた。
愛か (新字新仮名) / 李光洙(著)
「何だと?」と祖母はいきなり、その疳癪玉かんしゃくだまを破裂させた。そして私の胸倉むなぐらを捉えて小突きまわした。不意をった私は縁側えんがわから地べたへ仰向あおむけざまに落ちた。
達二は、仰向あおむけになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる廻り、そのこちらをうす鼠色ねずみいろの雲が、はやく速く走っています。そしてカンカン鳴っています。
種山ヶ原 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
小舎こやにはいって行くと、兎どもは、腕白小僧式わんぱくこぞうしきに、耳の帽子を深くかぶり、鼻を仰向あおむけ、太鼓でもたたくように前足を突き出し、がさがさ彼のまわりにたかって来る。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
が、そのただの水が、どうしてこの部屋のこの靴の片っぽにこんなにあふれんばかりに存在することになったのか?——私は、反射的に仰向あおむいて真上の天井を見た。
それと同時に、玉屋たまや鍵屋かぎやの声々がどっと起る。大河ぶちの桟敷さじきを一ぱいに埋めた見物客がその顔を空へ仰向あおむける。顔の輪廓がしばらくのあいだくっきりと照らし出される。
お居間の床柱の前に仰向あおむきに倒れたままこと切れていられる旦那様をみつけたからでございます。
幽霊妻 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
お鶴も仰向あおむけになってまだ泣いていたが、次郎の泣き声を聞くと、一層大きな声を出して泣いた。そしてそれから二人はせり合うように、代る代る泣き声をはり上げた。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
竜之助は短刀を奪い取って身を起すと共に、はったと蹴倒けたおすと、お浜は向うの行燈あんどん仰向あおむけに倒れかかって、行燈が倒れると火皿ひざらこわれてメラメラと紙に燃え移ります。
大菩薩峠:02 鈴鹿山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そうして棒のように強直ごうちょくした全身に、生汗をビッショリと流したまま仰向あおむざまにスト——ンと、倒れそうになったので、吾知らず観念の眼を閉じた……と思ったが……又
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
身には、蝙蝠こうもりの羽を拡げたやうなアビトといふ物を着け、御前に進んで礼をする。その礼式は、足指をそろへて向うへ差出し、両手を組んで胸に当て、頭をずいと仰向あおむくる。
ハビアン説法 (新字旧仮名) / 神西清(著)
仰向あおむけになって、バットの銀紙で台付コップをこしらえていた石川が、彼を見ると頭をあげた。
工場細胞 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
おや輿こしが舁ぎ出されたよ。……輿の中に女がいるよ。おや仰向あおむけに眠っている。美麻奈さんに似ているよ。だが顔が解らない。輿が玄関へ舁ぎ出された。獣人達が囲繞とりまいた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
まぎらしに仰向あおむけに倒れ、両手をうしろに組んだまま、その上にあたまをのせ、吉弥が机の上でいたずらをしている横がおを見ると、色は黒いが、鼻柱が高く、目も口も大きい。
耽溺 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
雪かみぞれか雨か、冷たいものに顔を撲たれながら、彼は暗い屋敷町をたどってゆくうちに、濡れた路に雪踏せったを踏みすべらして仰向あおむきに尻餅を搗いた。そのはずみに提灯の火は消えた。
半七捕物帳:27 化け銀杏 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
しかし、そうなるともちろん、眠っているふうをよそおうことは無意味なので、彼は仰向あおむけの姿勢へもどった。農夫たちがびくびくしながら身体をよせ、話し合っているのが見えた。
(新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
仰向あおむけに、天井板を見つめながら、ヒクヒクと、うずく痛みを、ジッとこらえた。
(新字新仮名) / 徳永直(著)