いつく)” の例文
希望を持てないものが、どうして追憶をいつくしむことができよう。未来に今朝のような明るさを覚えたことが近頃の自分にあるだろうか。
冬の日 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
私はこの善と悪とに感じる力を人間の心に宿る最も尊きものと認め、そしてこの素質をさながら美しき宝石のごとくにめでいつくしむ。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
生んだばかりの愛しい——あれほど夫婦ふたりたまいつくしんでいたものを、眼をとじて、母の手で刺し、自分もその刃で、自害していた。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして滋養じようを与えるために白身の軽いさかなていると、復一は男ながら母性のいつくしみに痩せた身体もいっぱいにふくれる気がするのであった。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
私は、すつかり、その方のお力におまかせしてゐるのよ、そして何もかも、その方のおいつくしみにたよつてゐるわけなのよ。
わしがあなた方を愛するようにあなた方がわしを愛してくださる。すなわち双方の愛と愛とがお互い同志をいつくしみ合う。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そのうちに三枝嬢が成長し、人も知る如き美人となったのを手中の珠といつくしみ、同嬢のために小規模ながら大森に現在の豪華な住宅を建ててやって同居し
二重心臓 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
そして彼は、ただ現在の生をのみいつくしむ涙ぐましい心を懐いて、袷の肌にも寒いほどの夜更けに、火種さえない下宿の四疊半へ、ぼんやり帰っていった。
反抗 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
千登世をいつくしんでくれてゐる大屋の醫者の未亡人への忘れてはならぬ感謝と同時に、千登世に向つても心の中で手を支へ、うなじを垂れ、そして寢褥ねどこに入つた。
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
それでも彼は彼女を愛していた、彼らはたがいに愛し合っていた。しかしながら、たがいに愛しいつくしんでる人々の間をも遠ざけるには、ごく些細ささいなことで足りる。
思ふ道にまよふとか云ひて子をいつくしむ親の心はかみ將軍よりしも非人ひにん乞食こじきに至る迄かはる事なきことわりなり其時また上意に芝八山は町奉行の支配しはいなりとて越前我意がいつのり吟味を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
御両親は掌中たなぞこたまいつくしみ、あとにお子供が出来ませず、一粒種の事なればなおさらに撫育ひそうされるうちひまゆく月日つきひ関守せきもりなく、今年はや嬢様は十六の春を迎えられ
乃公に彼様あんな巧い事が書けるものか。「先生御夫婦は両親の如くいつくしみ被下候くだされそろ」なんて乃公が言うものか。けれども家では乃公の頭脳あたまから出たものと信じているらしい。
いたずら小僧日記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
その夜、彼女は黄金のみ仏を抱いてそれにのみ心をささげ、おんいつくしみをうのであった。み仏は筒井のはだにあたためられ、ほとんど、冷たくなっている日とてはなかった。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
これまでひたすらいつくしみ、内心ひとりで嘆賞していた大事な秘密の想念を表白したわけなので、どうして人がこの功業を嘆賞しないのかと不思議でたまらなかった。
青年わかものには童がこの兎馬うさぎうまずるにも増していつくしむたくましき犬あればにや。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
そして部屋へやのすみにある生漆きうるしを塗った桑の広蓋ひろぶたを引き寄せて、それに手携てさげや懐中物を入れ終わると、飽く事もなくそのふちから底にかけての円味まるみを持った微妙な手ざわりをいつくしんだ。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
そういう老人たちがお遊さんをああいう風に気随にさせておくのは若後家という境遇をきのどくにおもってできるだけさびしさをわすれるようにさせようといういつくしみから出ているので
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ただただいつくしみをもってめぐってくれる周囲の人々の心を落胆させてこころよしとするような、そんな娘でないことは半蔵もよく知って、その点にかけては彼も娘に心を許していたのである。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
粋は仁にちかし、即ち魔境に他をいつくしむ者。粋は義に近し、粋は信に邇し、仮偽界に信義を守る者。すなはち迷へる内に迷はぬを重んじ、不徳界に君子たる可きことを以て粋道の極意とはするならし。
いささか薄気味わるい始末、もっとも、八大山人の小品とても、天下の稀品に相違ない。可愛がった昔の女を今は娘のようにいつくしむあたたかさが、私たちにも自然の安堵と温情をわきたたせた。
不連続殺人事件 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
されば無智蒙昧むちもうまいの監守どもが、妾の品性を認め得ず、純潔なるいつくしみの振舞を以て、直ちに破倫はりん非道の罪悪と速断しけるもまたあながちに無理ならねど、さりとては余りに可笑おかしく、腹立たしくて
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
〈我諸竜王をいつくしむ、天上および世間、わが慈心を以て、諸恚毒いどくを滅し得、我智慧ちえを以て取り、これを用いこの毒を殺す、味毒無味毒、滅され地に入りて去る〉、仏曰く、この呪もて自ら護る者は
やわらかく贅沢ぜいたくしとねにつつまれて、しんなりとした肉体を横たえ、母親こそとうに世を去ったが、愛娘まなむすめへの愛には目のない、三斎はじめ、老女、女中の、隙間もないいつくしみの介抱かいほうを受けながら、そのくせ
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
いつくしき御手の御執り成しによりて此の悩みのさすらひの後に
何んといういつくしみの深さ。
大和路・信濃路 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
春水が亡い後は、子に対して盲愛に近い母性のいつくしみと、そうではならぬという厳格な愛の形とが、手紙の文字にも闘っている老母を見た。
梅颸の杖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かの女は、だんだん老紳士に対する好感が増して行き、いつくしむようなまなざしで青年の姿を眺めていると、老紳士は、暗黙の中にそれを感謝するらしく
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
容貌おもて、醜しとあれば疎み遠ざかり、あざみ笑ひ、少しの手柄あれば俄かにいつくしみ、へつらひ寄る、人情紙の如き世中よのなかに何の忠義、何の孝行かある。今に見よ。
白くれない (新字新仮名) / 夢野久作(著)
私は私のそばに愛しいつくしむものの共にあることを悦びます。私は孤独を願いません。私の心はただひとり私が住むときには犬でも飼いたき心地となって表われます。
青春の息の痕 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
も久八と附て夫婦の寵愛ちようあいあさからず養育しけるに一日々々と智慧ちゑつくしたが他所よその兒にまさりて利發りはつなるによりすゑ頼母敷たのもしき小兒せうになりといつくしみける中月立年暮て早くも七歳の春を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
自分はあの妹が早く母に死に別れたのを不憫ふびんに思い、及ばずながら母に代っていつくしむようにして来たのに、母の法事の時になって家から追い出すなどと云うことが出来るものでない。———
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
親愛な人々を見暮らす根気こんきが尽きて、限りなく懐しみ乍ら訣別けつべつを急ごうとする広々とした傷心しょうしんを抱き、それをいつくしんで汽車に乗った。知る友のない海浜の村落へ来て、海を眺めた時、ほっとした。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
いつくしき御手の御執り成しによりてこの悩みのさすらいの後に
「織江殿」と貝十郎は、いつくしむような声でいった。
血煙天明陣 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
じつは、これまでにも二人の子をくしています。次が生れれば三人目です。こんどこそ亡くさぬようにいつくしみまする。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
えて弱まり、その上都合の悪いことには心の底の方から自分で憎くなるほど相手に対して睦まじげないつくしみやらあわれみが滲み出して来るのでありました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
いつくしみの人への言い知れぬ敬意を催おさせられる等、あげて数えられぬ感情教育を私たちは受けた。
光り合ういのち (新字新仮名) / 倉田百三(著)
玉之助たまのすけなづ掌中たなそこの玉といつくしみそだてけるしかるに妻は産後の肥立ひだちあし荏苒ぶら/\わづらひしが秋の末に至りては追々疲勞ひらうつひ泉下せんかの客とはなりけり嘉傳次の悲歎ひたんは更なりをさなきものを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
そうして彼女をこの上もなくいつくしんで、末永く自宅うちに置いて世話をして遣りたい。
少女地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
若々しい感情はもうその眼の中にたぎる湯となってあふれかけている。秀吉の親としての気持も、信長の死後はひとしおいじらしさといつくしみを加えていた。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わたくしの女ごころは、こうした気分の高揚の中にも、いつの間にかいつくしみの眼を見開き始めていると見えます。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
天地の間に厳存するところのすべて美しきものの精として、あの空に輝く星にも比べて尊みいつくしんでいるのです。二人の間に産まれたこの宝を大切にしましょう。育てて行きましょう。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
父祖百年らい、稼業をつづけ、ご恩顧をうけ、わけて、ご当代には、なんぼう、おいつくしみを受けたやらしれませぬ。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
最初皆三につた晩に、彼の声がみさせたと同様ないつくしみがある——お涌はそれに逢ふと、柔軟なリズムの線がひとりでに自分の体に生み出され、われとしもなくその線の一つを取上げて
蝙蝠 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
お絹さんを、私はあわれに、いとしくおもい、仏の眼のうるおいとゆるしとをもって、優しく、いつくしむ気でいます。お絹さんは私を玉のように大切に、守るように世話をしてくれ、いつもよく働きます。
青春の息の痕 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
この嬰児ややこそ、西方弥陀如来さいほうみだにょらいのご化身けしんぞとおもうて、よくよくいつくしまれたがよい——と、母体の君の枕べを、数珠じゅずをもんで伏し拝んで去ったということ。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼の声が浸みさせたと同様ないつくしみがある——お涌はそれに逢うと、柔軟なリズムの線がひとりでに自分の体に生み出され、われとしもなくその線の一つを取上げて、自分の姿をそれに沿える。
蝙蝠 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
……陛下も何とぞ先帝の英資にあやかり給うてよく輔弼ほひつの善言を聞き、民をいつくしみ給い、社稷しゃしょくをお守りあって、先帝のご遺命をまっとう遊ばさるるよう伏しておねがい致しまする。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
だが、また、その声を聞くと、普通のいのちの附根を哀れに絞り千切られたあと、別のいのちが、附根から芽生え出して来たものが忿懣ふんまんやらいつくしみの心やらを伴って涌然ようぜんと沸き立つのを覚えた。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)