周章あわて)” の例文
ふと、サラ/\と云ふ衣擦れの音がしたかと思ふと、背後うしろドアが音もなく開かれた。信一郎が、周章あわてて立ち上がらうとした時だつた。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
酒井俊蔵と云う父親と、歴然れっきとした、謹(夫人の名。)と云う母親が附いている妙の縁談を、門附風情が何を知って、周章あわてなさんな。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ゆかより引下しこぶしを上てすでうたんとなす此時近邊きんぺんの者先刻よりの聲高こゑだかを聞付何ことやらんと來りしが此體このていを見て周章あわて捕押とりおさへ種々靱負を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
「併し一概に山賊などと云っても中には却々なかなかい儀深い奴もいるものですよ。」と医師は周章あわてて眼をらしながらそんなことを云い出した。
薔薇の女 (新字新仮名) / 渡辺温(著)
私はこの前のように周章あわてて起して機嫌を悪くされてもつまらぬから、そっと其儘にして見ているとしばらくして彼は目をさました。
息を止める男 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
りながら三四郎のみゝそばくちを持つてて、「おこつてらつしやるの」と私語さゝやいだ。所へ下女が周章あわてながら、おくりにた。
三四郎 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
と、挨拶すると、老人は、信祝が合図のひもを引いて、鈴を鳴らすのも待たないで、ふすまをあけた。一間ひとまへだたった所にいた侍が、周章あわてて立つと
大岡越前の独立 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
大工は周章あわてたように、もう一度横を向いて「つかみ鼻」をかんだ。それが風の工合でズボンにひっかかった。トロッとした薄い水鼻だった。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
直ぐその後を追馳おいかけて行けば、屹度きっとどんな男か正体位は見届ける事も出来たで御座居ましょうが、何分不意の事で手前共も周章あわてておりましたし
花束の虫 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
礼奴さんと保羅さんは、何を考えたか、大きな声で、『サンタ・ルチア』を歌い出した。これも周章あわてているのに違いない。
右へ廻したか左へ廻したか夫さえ覚えぬ程ですけれど、若し合鍵がなかろう者なら、益々周章あわてて、錠の卸りて居もせぬ戸を
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
「今晩は、どうも——」と挨拶あいさつをすると「いやいや」と周章あわてて、ぼくの顔をみてかなしい薄笑いをして、「ぼくは単なる見物人ですよ」と言いました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
周章あわてまい周章まいと思いながら彼はいつの間にか周章てていた。股や肩先には幾ヵ所となく、狼の歯痕が付いていた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
青年の姿が印判屋の軒下に隱れた時に、彼ははつと心を周章あわてさせた。さあどうしよう、もう五分とは經たないうちに彼の青年は自分の家の門前に來る。
少年の死 (旧字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
お君が、周章あわててそれを押えようとしたのは遅く、二つに引き裂いたお御籤の紙を、お銀様はクルクルと丸めて、洗水盤みたらしの中へ投げこんでしまいました。
肌を脱いで煙草をくゆらしながら語り合っていた彼等は、周章あわて気味にそそくさと着物に手を通し、無言で深く腰をかがめた。そしてそこへまた腰をおろした。
熊の出る開墾地 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
主翁はこれは失敗しまったと思って、またあごの下からその紐をかけたが、かけてしまうとまた寄って来た。それはじぶん周章あわてているので好く捲けないと思った。
黄灯 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼は自分が殆んど悪魔の底意地の悪さで痴川伊豆の葛藤かっとうを血みどろの終局へ追いやろうとしている冷酷な潜在意識を読んだ。しかし驚きも周章あわてもしなかった。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
こんなに早く健康を囘復する位なら、自分はあんなに周章あわてて日本に歸つて來ないでもよかつたのだ。然し考へると海外に遊んで居たのも八年の長きに及んだ。
新帰朝者日記 (旧字旧仮名) / 永井荷風(著)
何故あなたは急に周章あわてて、御自分だけ途中下車なさいましたの。随分卑怯な方ね。私こそ、別に恨みがあるわけでなしお詫びと御礼を申上げなければならない。
青バスの女 (新字新仮名) / 辰野九紫(著)
言葉を切って鳥渡窓外の景色を眺めていた教授は、ふと緊張した石子に眼を落とすと周章あわてて言葉をついだ。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
取外とりはずして言いかけて倏忽たちまちハッと心附き、周章あわてて口をつぐんで、吃驚びっくりして、狼狽ろうばいして、つい憤然やっきとなッて、「畜生」と言いざまこぶしを振挙げて我と我をおどして見たが
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
身体の加減のよいときは、わたくしを木の端か竹の端かのようにあしらいながら、病気が重って来ますとどういうものかまた周章あわててわたくしを重んじて来まして
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そういうところへ誰かが出て来ると、さあ周章あわてて鉄砲を隠す、本を繰る、生憎開けたところと読んで居るところと違って居るのが見あらわされると大叱言を頂戴した。
少年時代 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
上つたはいが、何處に坐れば可いのか一寸周章あわてて了つて、二人は暫し其所に立つてゐた。源助は
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
なんの、朝廷の御膝下おひざもと住居すまいするものが、そう周章あわてふためいて、夜逃げのように出立がなるものか。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
予はウロペルチスの生きたのを見た事なけれど、類推すると余り活溌なものでなかろうが、周章あわてる時は孑孑様に騒ぎながら、岸より落ちて人を驚かすほどの事はあろう。
滅多にコンナ事に出会わない村医の神林先生が周章あわてて逃げ出して行ったのも、無理がなかった。
巡査辞職 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
ロッティは今にも泣き出しそうでしたので、セエラは周章あわててロッティをなだめにかかりました。
そして急ぎ周章あわてるために、ついて來た人々に別れを告げる暇もないほどである。かかる間にも馭者は小さな頼まれ事が山のやうにあつて、それを一々果さなければならない。
駅伝馬車 (旧字旧仮名) / ワシントン・アーヴィング(著)
ソローハは、自分でも仰天してしまつて、まるで狂人きちがひのやうに周章あわてふためいた挙句、うつかりチューブに、補祭の入つてゐる袋を指さして、その中へ潜り込めと相図をした。
彼は平気を装おうとしたが、その実周章あわてて了ったという眼付をしていた。声も度を失って、読み始めるから震えた。とはいえ、彼はなるべく静かに、解りやすく読もうとした。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
先刻さっき周章あわてた自分の心が不思議に思えた。一つの静安なる生命が、限りない喜びを与える。
湖水と彼等 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
松本が周章あわてて起たんとする時賛成々々の声四隅に湧出わきだして議長の意見を嘉納しおほせり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
ところ勿論もちろん秩序ちつじよなく、寐言ねごとのやうで、周章あわてたり、途切とぎれてたり、なんだか意味いみわからぬことをふのであるが、何處どこかにまた善良ぜんりやうなる性質せいしつほのかきこえる、其言そのことばうちか、こゑうちかに
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
私はダイアナを隨分煽動的せんどうてきだと思つた。そして不愉快に周章あわてて了つた。かう思つたり感じたりしてゐる間に、セント・ジョンは、首を俯向うつむけた。彼の希臘式の顏が、私のと同じ高さに來た。
外飾りなど見るひまもなく、周章あわてて、扉の口へとびこんだ。
一世お鯉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
ふと、サラ/\と衣擦きぬずれの音がしたかと思うと、背後うしろドアが音もなく開かれた。信一郎が、周章あわてて立ち上がろうとした時だった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
おのれもにがさぬぞとげん八へ突掛つきかゝるに源八はおもひも寄ぬことなればおどろ周章あわてみぎの手をいだして刄物はもの挈取もぎとらんとせし處を切先きつさきふかく二のうで突貫つきとほされヤアと躊躇たちろく
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
乙女は淑やかに腰をかがめると静かに店から戸外そとへ出たが、黄昏たそがれの往来を海の方へ急かず周章あわてず歩いて行く。
郷介法師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
このときの男乞食の周章あわてて方はありませんでした。矢庭やにわに女乞食をしょぴいて一目散に遁げ出しました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
こんな問答を四五遍繰返くりかえしたあとで、喜いちゃんは、じゃ上げようと云いながら、手に持った柿をぱたりと崖の下に落した。与吉は周章あわてて、泥の着いた柿を拾った。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
エキスパンダアをどけてやはり鑵の背後にないのをみると、否々いやいや、ひょッとしたら、あの道端みちばた草叢くさむらのかげかもしれないぞと、また周章あわてて、駆けおりてゆくのでした。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
猫属の輩は羞恥という念に富んでいるもので、虎や豹が獣を搏ち損う時は大いに恥じた風で周章あわてて首をれて這い廻り逃げ去るは実際を見た者のしばしば述べたところだ。
と叫びながら、自分も一所に馬の上から転がり落ちて、周章あわてて果物を拾おうとしましたが、生憎あいにく果物は橋板の上を八方に転がり出して、大方河の中へ落ちてしまいました。
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
固い、ひどく四角張ったものを指の先に感じて、びっくりして、周章あわてて手を引っ込ませた。
小腰をひくめて「ちょいとお湯へ」と云ッてから、ふと何か思い出して、きもつぶした顔をして周章あわてて、「それから、あの、若し御新造ごしんぞさまがおかえんなすって御膳ごぜん召上めしやがるとおッしゃッたら、 ...
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
と、庄屋は、炉へ投出していた脚を、周章あわてて引込めると、えりを合せて、坐り直した。下男は、牛小屋へ引込むし、子供は、母親に引張られて、吃驚びっくりしながら、納戸なんどへ逃込んでしまった。
大岡越前の独立 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
万は夢からでもめたようにして、幾分周章あわて気味に言った。子供達は我先われさきと、小突き合いながら、うしおのように雪崩なだれ込んで来た。しかし、その一団の先に立っているのは、万の長男だった。
手品 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)