俯伏うつぶ)” の例文
かれは息を切って、逃げて、逃げて、柴井町の自分の店さきまで駈けて来て、店のかまちへ腰をおろしながら横さまに俯伏うつぶしてしまった。
影を踏まれた女 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
手燭の光に、俯伏うつぶせになった正吉の顔を見るなり、主人はさっと色を変えた。——そして振返ると、恐ろしそうに慄えている婢たちに
お美津簪 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
どうかすると女は読み掛けた本の上に俯伏うつぶしになって居眠りをしている。額からほつれてこぼれ掛かった髪が、本の上に渦を巻いている。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
のっそりハッと俯伏うつぶせしまま五体をなみゆるがして、十兵衛めが生命いのちはさ、さ、さし出しまする、と云いしぎりのどふさがりて言語絶え
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
お袖は、俯伏うつぶしたまま、顔を見せない。さっきから返辞もしない。しかし市十郎の一言ひとこと一言に、その背は、烈しい感情の波を見せている。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それにも拘らず、ずり落ちた信子はかなりの激しさで床の上に俯伏うつぶしてゐた。両手の拳にこめかみを抑へたまゝの姿であつた。
運命なのか、地面へ飛び下りるつもりの彼女は、丁度そのあなへどんと俯伏うつぶせにちこんだ時、如何どうとも全力が尽きてしまった。
急に「そうだ、わたくしはもうあの方には逢われないのだ」とそんなあらぬ思いを誘われて、突然そこに俯伏うつぶしてしまった。
曠野 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
怪漢は縛られたまま廊下に俯伏うつぶせになって転がっていたが、動こうともしない。その横をすりぬけて、私達は気懸きがかりの事件の部屋へ行ってみた。
ゴールデン・バット事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ふるへる手先に電燈をひねると、抽斗ひきだしを抜いた箪笥の前に、奥さまは赤いしごきで両手を縛られ俯伏うつぶしになつて倒れてゐた。
人妻 (新字旧仮名) / 永井荷風永井壮吉(著)
しかし、ふすまのまえに、畳にへばり付いている人影は、身うごきもしないのだ。顔を隠すように俯伏うつぶせた額部ひたいに、燭台のが蒼白く反映はんえいしている。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
はじめには負傷者の床の上で一枚の獣皮を頭から被って俯伏うつぶしになっているが、やがてぶるぶると大きくふるえ出す、やがてむっくり起上がって
映画雑感(Ⅵ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
彼女と弟とは固くなってひとみを見張った。兄は俯伏うつぶせに横わったまま片方の眼を押えてしくしく泣いていた。その指のまたから濃い血がにじみでてくる。
青草 (新字新仮名) / 十一谷義三郎(著)
平生歯が出てゐたが、其歯をき出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これはのどを突いて俯伏うつぶしてゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
未亡人の俯伏うつぶせになった顔は不気味な絵の具で染めた様に見え、解けた黒髪は絞る程もしっとりと液体を含んでいた。
悪霊 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
罪人を俯伏うつぶせにさせてその上に重いものを載せ、白状しなければ死ぬまでそうしておいたという残酷な刑罰である。
すると、奴隷の身体はまるくなって枝にあたりながら、熟した果実のように落ちて来た。反絵は、舌を出して俯伏うつぶせに倒れている奴隷の方へ近よった。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
『して此等これら何者なにものか?』女王樣ぢよわうさま薔薇ばらまはりに平伏ひれふしてゐた三にん園丁えんていどもをゆびさしてまをされました、何故なぜふに、彼等かれら俯伏うつぶせにてゐるし
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
エルアフイは部屋の中央にある、まるで野戦病院のそれのやうに簡素な寝台のうへに俯伏うつぶしながら、マッサージ師の肩越しに、ゆつくり話しはじめた。
亜剌比亜人エルアフイ (新字旧仮名) / 犬養健(著)
それでもその顔色はまただんだんに悲しみの色になり、眼には涙を宿して、のちには寝台の上に身を投げ出してシルクのクッションに身を隠すように俯伏うつぶした。
神饌所では俯伏うつぶせにした黒塗りの高坏たかつきに雪洞の光と自分の顏とが映つたが、道臣は恐ろしいやうに思つて、映つた自分の顏を正視することが出來なかつた。
天満宮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
が、一段落ついたと見え、巻煙草まきたばこを口へくわえたまま、マッチをすろうとする拍子ひょうしに突然俯伏うつぶしになって死んでしまった。いかにもあっけない死にかたである。
馬の脚 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
稲妻いなずま。あー こわー なんて男にしがみつく、そのわざとらしさ、いやらしさ。よせやい、と言いたい。こわかったら、ひとりで俯伏うつぶしたらいいじゃないか。
チャンス (新字新仮名) / 太宰治(著)
沈みがちであった二人のうち、わけても女は打沈んでいた。一時頃には女の方は腹痛だといって俯伏うつぶしになって、十銭の振りだし薬を買わせてんだりした。
芳川鎌子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
窓とは反対側の壁にもたれて、俯伏うつぶせに崩折れた死骸は、八五郎の手でしずかにおこされました。ひと眼見た平次が、ギョッとしたほどの、それは凄まじい相好そうごうです。
銭形平次捕物控:282 密室 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
後向きになった銀杏返いちょうがえしの首が、ダラリと枕から落ちそうになって、体が斜めに俯伏うつぶしになっていた。立ち働く時のキリリとしたお国とは思えぬくらいであった。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
神尾は人をかきのけて中へ入って見ると、夜具の上に俯伏うつぶしに倒れているのは机竜之助であります。そうして蒲団ふとんの敷布の上にはおびただしい血汐ちしおのあとがありました。
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
降り続く雨に穂先が乱れて俯伏うつぶすようになっている。重いその一叢ひとむらを抱き起すというだけのことである。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
また姑のオナリ婆さんは俯伏うつぶせになって、枕を抱えて寝ていたらしく、後頭部を縦に割付けられていたが、これは髪毛かみのけがあるので血が真黒に固まり付いている上に
巡査辞職 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
しかし、その異様な対照に気を奪われている矢先だった。それまで肱掛に俯伏うつぶしていた真斎が必死の努力で、ほとんど杜絶とぎれがちながらも、微かな声を絞り出した。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
と向うざまに、椅子のかかり俯伏うつぶせになると、抜いて持ったかんざしの、花片が、リボンを打って激しく揺れて
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あまりに悲しい時は涙がどこかへ行くものらしい。二人の女王にょおうは何も言わずに俯伏うつぶしになっていた。
源氏物語:48 椎が本 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「それでもたはらにしちやいたな」勘次かんじ壁際かべぎは麥藁俵むぎわらだはらていつた。おしなはまだ俯伏うつぶしたまゝである。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
投げて俯伏うつぶせしまゝ牢番の言し如く泣沈めるていにして折々に肩の動くは泣じゃくりの為なるべく又時としては我身の上の恐ろしさに堪えぬ如く総身そうしんを震わせる事あり
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
と美奈子が良人をつとの広い机の端に、妊婦のつねとして二階の上下あがりおり目暈めまひがするその額を俯伏うつぶして言つた。
執達吏 (新字旧仮名) / 与謝野寛(著)
三人が行きついた時には、ローリーさんは、もう浮きあがる力がなくなって、水の表面から三尺ほど下のところで、俯伏うつぶせになったままゆらゆらと不気味にゆれていた。
キャラコさん:07 海の刷画 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
そこの炬燵に赤彦君は俯伏うつぶして、頭のところに両手を固く組んでゐる。伴さんは来意らいいを告げた。
島木赤彦臨終記 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
慈愛深き老尼僧は今まで少しふるえて居られましたが、眼には涙が満ちて非常に心配らしくまた悲しい有様を呈して居ましたが、一時に俯伏うつぶせになり声を殺して泣かれました。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
野生の燕麦は風なきに乱れ騒ぎて、眼にみえざる動揺の一線は俯伏うつぶしに倒れている人を越えて、踏み荒らされたる現場より森のはずれへ、しずかに真っ直ぐにすすみゆくなり。
と言うかと思うと、病人はさもさも疲れたように、グッタリと俯伏うつぶしてしまいました。
三人兄弟 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「才さんに学資を出してもらやあせず……」勝代は兄がややもすると、自分の楽しい理想を破ろうとするのが口惜くやしくて、こう言放って、顔を見られぬように炬燵の上に俯伏うつぶした。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
青い蚊帳かやつるした奥のへやと茶の間の境になった敷居しきいの上に、細君が頭をこちらにして俯伏うつぶしになっている傍に、わかい女が背をこっちへ見せて坐っていたがその手にはコップがあった。
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
先生は俯伏うつぶしの顔をきわどく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑いながら
三四郎 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
案外な心安さ、そして、さわやかな微風が、おもてを払つて、胸も広々と感ずるかと思へた。——二分、三分、五分……と、宗右衛門はかすかな身悶みもだえと共に、壁画の前へ俯伏うつぶしてしまつた。
老主の一時期 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
私は俯伏うつぶして水を眺めた。そこには見る影もない私の顔が澄んだ秋の水鏡に映っている。欄干のところに落ちていた小石をそのまま足で水に落すと、波紋はすぐに私のかたを消してしもうた。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
自分の魂の醜くさをまざまざと眼の前の絵姿の上に見せつけられて後悔慚愧ざんきに身の置き処もなく、まるで死んだもののように俯伏うつぶしているのであったが、ふと誰やらが近付いてくる跫音あしおと
艶容万年若衆 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
わら(は)おもつてくださいとひもあへずほろ/\とこぼすなみだそのまゝまくら俯伏うつぶしぬ。
闇桜 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
彼の両のは、へっぴり腰を立てた酔眼の棟梁を殴りつけていた。交互にぱたぱたと、あられのように、肉の鳴る音がひびくのだ。何かをうめいてげっと俯伏うつぶせになる酔漢の腰をけとばしていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
ランプの灯は消えました。私はおぼえず死骸の胸の上に俯伏うつぶしました。
私はしばらくベンチの上に俯伏うつぶせになってじっとしていた。と、そこへ誰かやって来て私の名を呼んだ。私は顔をあげた。小松屋の叔父(浜松の叔母のすぐの妹の夫の弟)が私の側に立っていた。