をさ)” の例文
若い頃から身のをさまらぬおはまを娘はよく知つてゐたのだ、新吉がゐるうちはとにかく、不在であるならば、とおしげは我になく気になつた。
一の酉 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
弟子はテクニイクををさめた後、勿論独立しても差支ない。が、或は二代目、三代目と襲名しふめいすることも出来るであらう。
... きみとくをさめずんば(八六)舟中しうちうひとことごと敵國てきこくたらん』と。武矦ぶこういはく『し』と。(八七)すなは呉起ごきほうじて西河せいがしゆす。はなは(八八)聲名せいめいり。
険を冒し奇を競ふ世のなかには、利益と名誉とををさむるの途甚だ多し、而して尤も利益あり、尤も成功ありと見ゆるものは人を害し人をそこなてきの物品の製造なり。
主のつとめ (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
男つ振りが良いので身持がをさまらず、娘のお萩と掛り人のお京と二人へちよつかいを出して一と騷動を起し、出るの引くのとこの間から悶着中といふことですよ
えうするにかれぐらゐ年輩ねんぱい青年せいねんが、一人前いちにんまへ人間にんげんになる楷梯かいていとして、をさむべきことつとむべきことには、内部ないぶ動搖どうえうやら、外部ぐわいぶ束縛そくばくやらで、一切いつさいかなかつたのである。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
軍士ぐんしつかはしつかをさむ。其時そのとき銘誌めいしたづぬるにることなく、つかたるをらずとふ。
唐模様 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
自然科学ををさめて帰つた当座、食物の議論が出たので、当時の権威者たる Voitフオイト の標準で駁撃はくげきした時も、或る先輩が「そんならフォイトを信仰してゐるか」と云ふと、自分はそれに答へて
妄想 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
やゝその信用が恢復しようとした頃である。村に世話好の男があつて、重右衛門も此頃では余程身持もをさまつて来たやうだし、あゝ勤勉に労働する処を見ると、将来にも左程希望が無いとも云へぬ。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
琴を除いて、彼は、盲学校の全課程をむさぼるやうにをさめた。
髪の毛と花びら (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
老子らうし(一一)道徳だうとくをさむ、其學そのがくみづかかくしてきをもつつとめせり。しうることこれひさしうして、しうおとろふるをすなはつひつて、(一二)くわんいたる。
眞物の唐紙たうしを使へる繪描きは江戸中に幾人もないと睨んで、御繪所の狩野家で訊いて、南宗北宗を兼ねをさめた名人岡谷半嶺と見當をつけたのさ——だがお前の骨折も無駄ではないよ
(七八)夏桀かけつきよ(七九)河濟かせいひだりにし、(八〇)泰華たいくわみぎにし、(八一)伊闕いけつ其南そのみなみり、(八二)羊腸やうちやう其北そのきたりしが、まつりごとをさむることじんならず、たうこれはなてり。
武藝一と通りはをさめ、弓槍劍人に後れを取る氣はないが、大川を眺め乍ら育つて居るのに、母親が案じて水へ近づけなかつた爲に、水練の方を稽古しなかつたのは、返す/″\も殘念であつた。
昭矦せうこうもつしやうし、うち政教せいけうをさめ、ほか諸矦しよこうおうずること十五ねん申子しんしをはるまで、くにをさまりへいつよく、かんをかものかりき。申子しんしがくは、(四二)黄老くわうらうもとづき、(四三)刑名けいめいしゆとせり。
(八三)殷紂いんちうくに(八四)孟門まうもんひだりにし(八五)太行たいかうみぎにし、常山じやうざん其北そのきたり、大河たいか其南そのみなみしが、まつりごとをさむることとくならず、武王ぶわうこれころせり。これつてこれれば、とくりてけんらず。
あるひいはく、『老莱子らうらいしまた楚人也そひとなりしよ十五へんあらはして道家だうか(一四)ようふ。孔子こうしときおなじうすとふ』と。けだ老子らうしは百いう六十餘歳よさいあるひふ二百餘歳よさいと。みちをさめてじゆやしなへるをもつなり
(二七)桓公くわんこうじつ少姫せうきいかつて、みなみのかたさいおそふ。管仲くわんちうつてち、(二八)包茅はうばうの・周室しうしつ入貢にふこうせざるをむ。桓公くわんこうじつきたのかた山戎さんじうせいす、しかうして管仲くわんちうつてえんをして召公せうこうまつりごとをさめしむ。